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 【2001年8月21日(火)】

 流刑地にて 実はこんなことをしていた。

 闇について。闇は見えないということだろうか。寧ろ、見える、ということではないだろうか。ひとは恐れのなかで、闇に寧ろ吸い込まれ、闇をまざまざと見る。見えないと云うのは透明と云うことではないのか。

 ゲーテの色彩論を想起したいところ。てか読んでないや。

 慈悲といった古風な言葉のまえでたじろぐ。私はそれをまだ知らない筈だ。というよりも正確に言ってそれは何だろうか。これはむしろ言葉の厳密なテーマのはなしで、慈悲という言葉が優しさや憐れみという言葉と別に必要とされる差異は何なのだろうか。それを知りたい。

 ア エルベレス ギルソニエル! 星の妃から遠いこと幾千里。

 生き物を飼おうという気になれないのは飼われているような身分だからか。ワンルームの部屋住み、旗本ならまだしもだな。

 考えてみれば靖国がぼくにアピールした話題だったのは、それがむしろ祈りについて考えさせたからからかもしれない。だから「本当は」ぼくはその政治的意味や帰結には「関心がない」。ひでえな。だが本当だ。神道は宗教に非ずという観念はかなり根強いみたいだ。みながそうおもっていたらそれが本当になるのだろうか。分からない。しかし神仏分離は蛮行だったし、その帰結としての神道ならどうにも好きになれそうにない。

 クマグス。

 村の社への崇敬の念は間違いなくある。しかし神社はお祭りの場所で、儀式の場所ではないような気がする。

 そうだ。祝祭と式典は本当に同じものにくくっていいのだろうか。レントとカーニバル。何かが間違っている。

 実のところ、芸術の分野での議論の無力は、実に思い知らされている、と、同じに議論の必要も同じくらい知っている。小説家でさえ孤独の内に議論しているのではないか。

 きみはきみの希望が意志となるように生きているか。

 自己の統治。わたしは悪い君主だ。

 カフカには根本的に不可解なところがある。読む必要。結局、カフカを寓意的に読むのは不可能なのだろう。そこまではいえる。そこからだ。変身の連続と遅延のプロセスは何なのか。カフカを模倣したできのわるい作品は多い。それは、異化ということを誤解しているからだ。異なれば何でもいいわけがない。異なり方にこそこういう言葉を使うべきかどうか分からないが、責任があえかに生まれるのだと思う。

 笙野と町蔵の対談を読んで、リズムの異様なまでの重要性を確認する。てんてんてれつく。てれすてれん。リズムとは書くことの本質の傍らを流れる強力な何かだ。これは愚か者の言だろうか。

 リズムの、口調の、それ以外に何があるというのか。思想やテーマは、リズムのひとつだ。そしてビートこそが生の形式を刻むはずだ。

 たとえば故郷に核爆弾がかつて落ち、かつて半島の人々が収められた収容所があり、いまインドシナの人々が収められていて、かつて爆撃機を生産した一大工場があったことなどを言い立てるのは、いやらしい真似だろうか。

 私は自己同一性を失っていると云うべきなのか。問いの立て方がおそらく間違っている。私とはこの言葉のリズムなのだろうから。わたしを織りなす無数の声、経路、伝承のルーツ、見失われたもの。

 何度も何度も書いたことばかりだ。私は進歩しているといえるのだろうか。まさにこれは螺旋。しかも一周して変化があるかといえば、殆どありはしない。むしろ問題は細部へ、ひたすらに細部へと向かえ。

 私にとって内省はすでに語った事への内省でしかないようだ。そのほかになにがあるだろうか。わたしは自らを責めたりはしない。責めるときは世界の外で孤独に責めよう。他者の前で己を責めるのは甘えだ。わたしは「わるもの」、それはまるで……かぶきものみたいだな。悪源太。

 真実などないし、他者と言葉が通じることなどないことなど知っている。だが極端が得られないからと云って何も得られないと一緒だとみなすのは子供の……だが子供こそが貴いとかつてオリエントの教祖は云った。

 内部に砂漠がある。しかしそれは危険だろう。砂漠は心地よいからだ。

 得意げな様子と傲慢さをぬきにして語ることを欲している。

 啓発してやろうなどと思わず、相手より責任感があるなどと考えず。

 微笑をもって正義を為せ?

 わたしの希望は意志となりうるだろうか。いや為すべきなのだ。だが世界ははてしなく分裂している。分裂した世界はくらく、合意は遠い。無数の希望があり、それらが「より高いところ」では両立可能だと信じる理由があるのだろうか。

 書き手が国士の仮面を被るとき、いやおうなく言葉は仮面の言葉となる。字をしっているということはたいしたことではない。仮面の言葉にはその美しさがある。しかしそれは無力だ。少なくともそれが、ふみはずししていないかぎりは、その核心にはひとつの無力がある。そしてすべての希望は、その無力にある、そうわたしはロマンチックにも考える。

 逃げてばかりだが、その割には何から逃げているのかまるでさだかではない。さだかになることからも逃げているのだから或る意味では当然だ。ひとは死ななければならない。物語は終わらなければならない。言葉は何かを意味しなければならない。これは呪いだ。そして呪いは、奇跡の仮面であるはずだ。だから死ななければならないというこの人間のさだめにはその恩寵があるのだし、そして。

 猫はうつくしい動物だ。そしてそれは猫が危険さの記憶をのこしているからだ。魅力的で危険な、致命的なテキスト。

 到達点を探せ。道に迷い、しずかな暗い林檎の苑を歩く。

 「本当に」わたしは人間を愛しているのだろうか。人間を愛していたとして、それは彼や彼女を憎んでいることの仮面でしかないのではないか。トルストイ。

 ラジオには愛のイメージがある。何故だろう。暗闇が込められているから。ラジオには、ふかい暗闇のイメージが。

 規範としての文法への、奇妙な、はらだたしさ。規範としての文法というものの存在を疑わないアゲラストたちに呪いあれ。とはいえ、圧迫として、必要として、規範に似た合意の連続体があることは避けられない。それでもわたしのなかの規範意識はおこりっぽく云うのだ。旅客の客はかくと読め、しきゃくって気持ち悪いとか、その他、最近、アナウンサーは感じの読み方を勝手に統一して例外的な読みをあらためる傾向にある。すきになれないな。

 だが一方で、規範としての文法なんてこころから下らないと知っている。だがこれはわたしのただの文法への葛藤に過ぎないのか。文法がそれだけのものではないことは知れている。すべてのものに文法があり、あるいは、規範としての文法なんてない。

 小説とはそれにしても、何だろうか。物語とは。結局それなのだろうか。だがくりかえしぼくは考えたはずだ。それを論の対象として考えることは無意味だと。それにしても、これこそが逃避なのだろうか。すべて書くものは物語になりうる。物語はひろすぎる器だ。他方で、小説とはとらえがたいうつわだ。それもまたあらゆるテキストを包含しているかにみえ、しかし物語の包含する範囲と一致しない。こののさばる二つの一致しない無限がつくりだす、楕円。

 わたしはいまだ慈悲も知らず、殺意も知らず、絶望も知らず、絶望の中での希望も知らない。わたしはなにものとして生きているのか。

 ふとした瞬間に、自分がかつて愛されたということを信じられなくなる。と、同じに、そんなことに拘っている自分を愚劣だと感じる。しかしこのシステムは奇妙だ。現在は枝分かれし、細部が逃れていく。

 ゴダード「一瞬の光のなかで」、ナボコフのセバスチヤン・ナイトを想起させる作品。しかしポストモダン慣れした期待は裏切られ、真相がちゃんとある。しかしそれでも奇妙な苦い味わいは残る。

 たしかに写真の不思議は愛の痛みの不思議に似ている。それはたしかだ。だがそんなことを口にしてなんになる。

 去勢された、愛の思い出の、痛み。

 そこに暗闇があるのならば、灰になった沈黙もあるはずだ。
 空間は、恐ろしい。だが、すべての距離はレーテの川。 


 【2001年8月22日(水)】

 考えてみれば、世界は風から成っているのだった。

 或る女が云う。
 別れていたときつらかったわ。
 別の女が云う。
 どうしようもないのよ。
 電柱が思う。
 雨が降りそうだ。

 イメージの中に、真夜中の公園でずっと穴を掘っている人影がいる。
 ずっと、ずっとそうだ。
 真夜中、甲斐もなく、穴を何故か掘り続ける「わるもの」。それがセルフイメージ。なんとなしに、うつくしい。
  
 あるいは、夜の誘拐団か海賊に。

 ナチに抵抗した、というか反抗したエーデルヴァイス海賊団という不良少年のグループがいた。要するに不良少年のグループ以上のものではないのだけれど。

 //そして或る年、彼女はダムを決壊させた。湖ができた。湖の中に、かつて丘だった島が残った。そこにはやかで木が育った。水没した町の人々はその木を悔恨の木と呼んだ。

 自業自得だって? あんたはどうなんだい?

 螺旋階段を下りていく。踊り場には死人が、美しい青ざめた死人が立っている。足下には一匹の猫。月明かりのせいで毛皮の色は分からない。

 パタパタパタ。

 書きたい放題なのになんでみんなちゃんと一般の形式の文章を書くのだろう。謎だ。ていうか、飽きっぽいだけか。ぼくが。

 ファンタジーは名詞である。変な名前を付けたいから、ファンタジーにするのだと思う。それ以外にはありえない。だから最低でも三行にはわたる名前を付けたいものだ。グラムアルフェン・デ・ルーレランデラントン・シア・セ・ケラール・フェダルトン・シュデーア・グン・チェリ・アドラムール・ケデラーヤ・シドラストン・クヴァーレン・セアラ・シルデラレ・テントラントラン・キハテトラ・チナストル・アンドーン二世とか。そういうのが快楽だろうに。よくある本はあまりにも不徹底だ。

 //それは第二紀の終わりの戦乱の始まりのころ、大いなる湖水の都シルドラレーが荒廃に帰したアンバーンの野の大乱の前後、シルドラレーの大公ケサル家の武威も、東方ケダインの伯爵の勢威も衰え果てて、はやアラドの地は至る所みだれんとするころのことだった。このときにあたって、東方の気温暖かにして大海に面したゲインの家に古きクラールの英雄、シドラードの末裔たるひとりの公子があって、百年にもつづく基たしかな王国をうちたてたのであった。そしこの功業はそのあとにつづく悲劇と歌に名高い物語の機縁ともなったのであった。

 ちなみに、これ、八犬伝の冒頭のパラフレーズ。やっぱり設定的にどっか指輪と似てるんだよなあ。まあ決定的に違う部分も有るんだけど。当然。

 並列的多様性は多分、鑑賞者の論理なんだろうな。芸術といっても。

 世界は風から成っている。だから存在は波動なのだ。

 電波?

 海賊は何もつくりださない。ただ、仲立ちとなるだけだ。
 交錯するものは、変貌する。

 多分、ぼくがキリスト教的な発想に親しみを憶える部分があるのは「ナルニア」のせいだと思う。リーピチープ!

 仮面ライダーとテロリズム。テロがまた話題になりだした頃、仮面ライダーが復活。他方で、ウルトラマンと植民地主義。ベトナム、沖縄。この二つの関係は見まがうこともない。では、最近の仮面ライダーに戦闘員がいないで怪人だけというのは何を意味するのか。組織ではなく個人テロの時代ということなのか。

 どうも、できすぎてるな。


対話の二つのジャンル 【2001年8月24日(金)】

 ええと、みなみさん。
 上山さんはみなみさんが反論しているような、説得したり、意見を押しつけることがいいことだというような事は云っていない、と思うのですが。

 なるたけ簡潔に書きます。

 説得したり同意させることはつまらないし、もっといいやり方がある。
 ということには全然反対しません。完全に同意見です。

 問題はそんなところにあるのではありません。

 核心にある問いはこういうことです。

 議論を説得し、同意させること、としてしか捉えようとなさっていない。
 しかし、議論というのは、本来、相互に刺激しあい、批判しあって、それぞれの立場が、それぞれなりに、それまでと違うものに変貌し、そしてなお合意には近づいてすらいない、というふうになって、生産的なものでしょう。

 つまり、発見の手段、考える手段、変貌の為の手段としての議論ということを、考察から完全にと言っていいほど抜いてしまっている。

 刺激しあうということは、お互いにいいねいいねそれもおもしろいね、というだけではないでしょう。何故なら、両立不可能な意見ややり方というものが当然ありうるからです。ぼくはこうする。いいえわたしはそうはしない。で、「尊重しあう」だけならそれで終わりです。刺激しあうことにはならない。「問う」ということは「否定する」ということである必要は全然なくて、お互いの違いをより深く理解し合い、より先鋭に、かつ生産的に影響しあうには、問い、問い返されることが不可欠です。合意する必要も説得する必要も全くありません。

 云いかえます。

 読み手にテキストは決定的に無防備にさらされています。だからそれはどう読まれるか、書き手が決定することはできない。ということは、自由に読むように、強制することもできない、ということでもあります。書き手が、独断的に書いても、それはそのようには読まれないかも知れない。ですからこのことは実際には、書き手の書き方を左右する事柄ではありません。書き手は、書き終えた瞬間から、そのテキストの第一の読み手でしかない。

 ですから、むしろ問題は或る読み手と別の読み手の関係はどのようであるのか、ということで、観客参加型というようなことは、この際、さして関係のある話ではありません。別の言い方をすると、「技法」の問題としての観客参加型というのは、制作者が作り出し、指定した、或る一定の範囲内での空白、余地に読者を参加させると云うことです。技法論は、一定の範囲内では、制作者が鑑賞者に指定できるしする意味がある、ということを前提にしないと成り立ちません。その前提がないなら、あなたが或る形を制作し、別の形には制作しない、ということの意味はないからです。「思想」の問題としての観客参加型というのは、どう解釈されるか決定することはできないということを前提にして制作する、ということを意味するのであって、その表現形式として押しつけがましいものになることだってありうるわけです。何故なら、それが押しつけがましいテキストとして解釈されるかどうかすら不確定なのですから。

 ですから、或る読みをした或る読み手と、別の読みをした、別の読み手の関係の問題なんです。本質的には。そしてそこに議論が介在すると云うことは、ひとつのテキストのさまざまな変奏が、つぎからつぎへと、その議論する二人によって演奏されると云うことであって、テキストにとって、豊かなことでしょう。ここでも確認しておきますが、この議論とは合意や説得をめざすものというよりも、問い、問い返す関係と云うことです。

 別の点から書きます。

 何かについて語ってしまった瞬間から、絵画や小説と異なり、テキストは、説得してしまいます。それは書き手が説得する意図を持っていようといまいと、です。それは書き手から独立したテキストの意志です。わたしはこう考える。でもあなたにはそう考えて欲しいわけじゃない。ただわたしのように考える人がいるのを認めて。というのもひとつの命令文です。お互いに尊重しあおう、というのも一つの主張です。ですから、テキストがそういう説得してしまう機能を果たさないようにするには、テキストの形式そのものにそのことへの抵抗をひそめなくてはならない。それが、「語る/意味する」という機能を持たない言葉以外のジャンルとの違いです。言葉は意図を越えて意味してしまう。

 ですから、言葉が説得し抑圧する機能を果たさないようにするためには、なるたけ独断的に話さないようにするとか、ことわりを入れる、ということでは本質的な解決には成らなくて、文学作品のように、言葉を答えではなく問いとしてつくりあげるか、あるいは、つねに語ってしまったことの効果や反応に、動的に、批判的に、別の観点をぶつけたり、相対化していくことが必要です。

 最後に、ブレヒトについて少しだけ。

 ブレヒトの叙事詩的演劇の異化というのは確かに実践的には一方的な教育に堕したかも知れませんが、あれは、それまで見慣れたものを、不意に見慣れぬものとして、新たな目で見させ、つまり日常を問いに変貌させる、ということだったはずです。(たとえば、検索して出てきた、こんなのとか。)であるかぎり、その問いとしての、見慣れていたはずのものが異様なものとしてあらわれるとき、それをどのように理解するか、あたらしく問い直すか、ということは観客の側の問題だった筈です。そして、それはむしろ、劇と観客の間の対等に近い、広い意味で対話のような関係であるというべきです。

 この場合の観客の自由、というのは、しかしどうやってもいいんだわーい、というようなただの自由なのではなく、ひとつの問いに、どう答えるか、ということが問われる。そういう「自由」です。こういう関係に於いては、どのように問うかが観客は自由に解釈するのだからどうでもいい、ということはありえないし、問いそのものが問い返されるということはつねにおこります。

 あと、ついでですが、歌舞伎や能は、それがフィクションであることを、たとえば黒子や、リアリティのない突然の組み体操みたいなシーン、舞台上の演奏者といったもので、つねに隠さないし、喚起させ続ける、という意味で、基本的に「異化」的なもので、同化はむしろ、西欧近代劇、リアリズム演劇に帰属させるべきものだと思うのですが。

 とはいえ、無用の議論というのは当然あるし、作者に登場人物の見解を問われても困るし、小説や絵画について意図を問われても答えられない。作品としての問いに対しては作品でしか答えを出せない。そういうことはつねにあります。ですが、そういう種類の事柄と、ここで問題になっていることは違うと思うのです。エッセイは基本的に、フィクションとして受け取られることを前提としているものではありませんし。また、そういう場合でも、やはり、真偽を争うという形式ではないにせよ、問い問われ、互いにゆるがし変容させあう関係はあるからです。

 で、繰り返しますが、説得や一方的合意の、世界から意見や多様性を減らす類の議論というものを肯定するつもりは全くありません。関係を持ち、問い、問い返される関係というものによって、それぞれが自分のなかの独断からそれぞれ逃れることができ、違いは違いの儘だけれど、より、ふかめられた違いにそれぞれ別な形で変容できる、ということを云っているのです。逆に言えば、そうした関係がなくてただ尊重するだけの関係しかなければ、多様は多様かも知れないけれども、それぞれが、それぞれなりの自分の独断に対してはとらえられていて、しかもお互いに尊重するというドグマに関しては一致してしまっている、ということになるのではないでしょうか。


じうぐんいあんふ 【2001年8月26日(日)】

 そんなことばかり書いているページに。というのも何なのだが、ほかのことについては自分的なだいたいの線は見当がついてきた気がしてたのだが、慰安婦についてはけっこう事実がどうもよう分からない、気がしていたので、少し調べてみた。

ianfu-FAQ
従軍慰安婦問題情報室
「慰安婦」は商行為か

 で、ぼくがだいたい理解したところではこういうことらしい。

 本人の同意に依らず、また、身売り、あるいは未成年、その他監禁などの非人道的行為は、当時の日本も締結していた国際条約で禁じられていた。そしてそうした行為を規制する国際法上の義務が国にはあり、実際、国内の公娼制度にはそういう規制があった。

 で、軍は、民間業者が戦地に軍のために慰安所をつくることを奨励した。

 しかし軍が主体となって経営し、あるいは徴募したという証拠は見つかっていない。で、そうした民間業者が国際法に違反した非人道的経営を行った例があることはかなりの程度、確かめられている。

 しかし国、または軍が、業者がそうした非人道的経営、強制的徴募すなわち連行といったことをしないように、訓戒程度のものを除いて、法や、実効的な規制をしたという形跡は見つかっていない。また、国内での公娼制度に準ずるような法的規制も存在しなかった。

 以上から最低限いえるのは、軍、および国家は、それらの行為を、国際法上の義務にも関わらず、黙認したという責任を持つ。

 でこの黙認が奨励、助長或いは意を受けての代行であったと見なすか、あるいは怠慢、軽視、業者の側の意に反した暴走であったと見なすかは、現時点では物証に基づいて断定的には言えない。

 以上、なるべくなら直接リンク先にあたってください。
 とくに、総括的なものとしては、ここなど。

 と、こういうふうに整理してみると、確かに「軍が村から銃剣で女性を引っ立てていって慰安所に監禁して性的奴隷として酷使した」というイメージは間違いであるか、例外的事例をしかも軍が直接の主体であったと誤認したものだというべきで、それに怒るひとがいるのは分かる。

 しかし軍が全権を握る戦地において、しかも慰安所の設立自体は、軍の側の要請から来たものだという状況で、それらを実際に経営する業者が行った非人道的行為に、軍が責任を持たない、また国家が実効的規制を行おうとしなかったことに責任がない、とはどう考えてもいえないだろう。

 勿論、こうしたことは、実態としてどうであったか、ということには必ずしも触れていないわけで、一方の極ではまじめに不当行為を根絶しようと国や軍はしていたが一部の悪徳業者が時折非人道的行為をした、のかもしれないし、他方の極では、軍が、業者に、非人道的行為を、その必要を満たすために、強いた、のかもしれない。

 どちらにしても、軍には、性的奴隷という言葉があてはまるような、非人道的慰安所や業者が発生することが、十分に予測可能であったし、規制可能であったにもかかわらず、十分な規制もなしで慰安所の設置を要請しつづけたのであるから、客観的に見て、そうした非人道行為を助長した、とみなされるべきだとおもう。

 (勿論、たとえばianfu-FAQ「慰安婦」は商行為かのほうでは、より強い主張がなされていて、状況証拠からいえばぼくとしてはその主張、つまり実態としては軍が主体であった、という見解はただしいと思うのですが、それが状況証拠から云われているか物証に基づいているのかはっきりしなかったので、議論の余地のない部分にのみ限定しました。どうか実際にそれぞれの資料や論証にあたってください) 
 


 【2001年8月26日(日)】

 ええと、メルマガ、もう少し待って下さい。
 真空白樺派
 鋭意、執筆中。
 ついでにまだのひとは是非、登録を。
 小説です。文学です。
 
 メモ。従軍慰安婦について

 四谷怪談と忠臣蔵の関係はけっこう知られている。
 怪談の時期だし。
 いろいろと気にはしている。

 ツリーの錯覚。
 物事は遡れば系統が減る。
 勿論、間違い。
 印欧祖語なんかで例外的にうまくいったものだから。
 残らなかった系統は遡及では見つからないと云うだけで、物事は分化するばかりではなく再合流したり、混血したりする。
 だからアダムとイヴを探したりするのは無茶なのです。

 …ならば…した筈だ。しかし、…ではない。だから…ではない。

 こういう論法で一番、あやしいのは、AならばBした筈だというあたり。つまりこういう論法、見過ごされやすいのは、 Bでないのは、Aでないときだけだ、ということも証明されてないと意味ないのだが、こっちのほうはたいてい、証明されてなくて、その曖昧さが便利に使われることが多い。

 無からの創造。