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【2001年9月10日(月)】
久しぶりに書く。
最近のぼくの遣ることにはどうにも手の施しようがない。どうしたものか、と問うていることがすでに度し難いのであって、問うことはすでに考えることではないのだ。考えるということを言葉の形で頭の中で自問自答することだと見なすならば、それは決して解決に資すことはない。それは考えることではなく迷うことでしかないからだ。
内言という形で考えるということは思うに納得の形式であって思考の形式ではない。だからこうやって今、手によって考えていることの方がまだましな方なのだ。思考は言語ぬきにはありえないが、思考の言語的に可視的な形式は、ただのそのモニターされた反映に過ぎないのだ。
可視的であるということは実際欺くものであり、可視的ではないが存在する物というカテゴリーをたてるべきなのだろう。ところがこの想定は考えれば考えるほど矛盾に富んでいる。可視的ではないものの存在性ということを要請するものは何かと問うとき二つの可能性があるだろう。即ち、可視性を可能にする不可視性の形式ということと、可視性以外の知覚される形式というオーダーである。とはいえ、本当はいま気がついたが勿論、可視性以外の知覚性を可能にする不可視性の形式というものもある筈である。
世界が可視性を構成する不可視性から為っているということを前提にして考えるということはオカルトの常套のようではあるがオカルト的思考というものは不可視性を可視的な比喩によって実体化しようと云う思考なのであるから、不可視性の論理そのものを捉えることは決して出来ない。
形象というものを文学という形式を際だたせるものとして考えるならば、形象というのは不可視性のオーダーにある、と断定していい。形象の効果そのものは可視的でありそれが意味内容や物語効果となるのだが、にもかかわらず本性からして断片的な形象は決してその効果である全体性そのものとしての意味や物語とは異なるものだ。
このあたりは結構大事なところであって、形象の本質的な断片性は、その効果である意味の全体性と明確な対照を為している。また形象そのものは可視性を持たない。形象は、別の形象と、「規定」ではなく、「比喩」とも少し違う形式の関係によって存立している。或いはそれを隠喩的関係性と呼ぶべきかも知れないが、隠喩の概念が通例予定する、あらかじめのコード化を含意しているわけではない。ひとえに隠喩性が隠喩として呼び出されたのはただそれが隠れているからにすぎない。
しかし形象はまた歴史的な、それも勿論広義の文学史によって規定されている。「広義の文学史」とは形象の生成と相互作用の過程であり、それはかならずしも一致するわけではないが、「言葉にまつわるニュアンスの歴史」と強い関わりを持っている。形象はつねに形象と関係することによって形象になるのであるが、形象と形象の関係の仕方は一義的ではない。形象と他の形象は、動詞や形容詞である形象によってもつなげられ、また文の中の位置ともかかわりをもっている。従って正確に言えばひとつの文が複数の形象からなるのであるが、しかしその文の文法的構成要素に対応して、形象もそれぞれ分割できるわけではない。ひとつの文が複数の形象を構成する。そして、この文の内部での形象同士の構成が、その外部での不在の形象との関わり方そのものを規定する。
意味一般や概念との差異はその不可視性及び、知覚性との特権的な関わりによって規定される。それはイメージでもあるが、むしろイメージを生成するエンジンとしての潜在性と呼ぶべきである。「花が咲いた」という文そのものの価値も実際にはその文の位置によって規定されているのだが、ひとまずこの文における花という形象が咲くという形象とが、「花が咲く」という形式でむすびついた複合形象、すなわち、「シーン」とでもいうべきものがある。
これはまた物語行為における最低単位と考えるべき「ショット」とほぼ一致していると見ることもできるだろう。ひとつの単文が構成するショットは、必然的に断片的である形象を不可視性として持つ。そして、重要なのは、ショットはすべて一回的で単独的であるということである。その意味でもショットは写真に似ている。ところでしかしショットを構成する花や咲くという形象は不可視なものである。それが別の形象と結びついて構成する不在のシーンこそが可視的なのである。そしてこの不在の可視性が、ショットの可視性に干渉する。
形象は、シーンを構成する。シーンは継起的に足され、両端を閉じられたとき、ランスルーとして完成し、それが経験されることで作品になる。
シーンは複数の形象から構成される。効果としてのシーンの内実はそれらの形象によって規定されている。形象はシーンを構成する他の形象、および不在の形象と関係することによって形象になる。不在の形象との関係は、不在の形象との不在のシーンの構成という形式を取る。この不在の複数のシーンが、不可視性のままでありながら、すなわちそれ自身としてはシーンとして知覚の対象になることなく、もともとのシーンを構成する。
このときの不在の形象が文に取りついてその文から複数の形象を喚起し、そしてその喚起された形象たちがシーンを構成する、その原動力としての憑依の形式はどのようなものなのだろうか。
なぜ不在の形象は取りつくのだろうか。意味におけるパラディグマティック な他の語の憑依とそれは似ているだろうか。だがここには決定的な差異があるだろう。男という語に女という語は憑依して規定する。そしてまさに同時に男という形象に女という形象は取りつくのだが、しかしむしろそれは、男という形象に女という形象がとりつくのではなく、男が歩くというシーンの中の男という形象に、男が女と歩く、あるいは男と女は、といったもろもろのシーンがとりつくのである。
それゆえ現象的にはシーンにシーンがとりつくのだが、シーンとシーンの交錯は、それ自体としては可視的ではない形象を構成し、むしろ問題なのは形象であるという様相を呈してきている。実際、形象の存在地点は、文法のオーダーにおける実詞によって規定されているので、シーンの形象点に他の亡霊的なシーンが召還されるのだというべきかもしれない。もっともここでわたしは文型そのものが持つシーンというものを忘れてはならないだろう。
だがそれでは現実的に亡霊的シーンはシーンをどのように規定するのだろうか。またその「有効範囲」はどのように規定され、それは主観性とどのような関係を持つのだろうか。
実際、具体的問題として、特定の本歌取りを持つ場合と云うことが想定される。それが通じなかった場合の成功と失敗の過程はどのように記述されるべきなのだろうか。
とりあえず、ここ迄で時間切れ。
映画と言語をモデルにしすぎてるような気もするが。
【2001年9月10日(月)】
//気分。
for(i=blue;i<insane;iーー){melancholy();};
ぼくはシニカルになるほど倦んではいけないのだ。
//そして、それを宣言するほどぼくの意志は本当は立派ではない。
失敗をつねに正体が割れることとして理解してきた。そのような私にとって、自分を理解して貰うこと、は、他にとってそうであるような意味で肯定的なことではない。わたしはわたしの一人称に飽き果てる。わたしはわたしにとってさまざまなわたしはわたしをという意味より手前に、この名詞の氾濫に単純に倦んでいるのだ。だが、それに逃げ道があるだろうか。
/*
ところで、台風にとってシベリアは安息の地なのだろうか。そうであればいい。ぐるぐるぐるぐるまわる風のイメージは、ぼくにとって美しいから。
*/
好きだった人の膚を思い出す。いや、そうではない。頬の紅潮を、息づかいを、そして、怯む瞬間のためらいを。その正体を知りたいのだ。
わたしは決然として紙面を汚しはじめる。
目的も知らないし宛先も知らない。私はこの何も無さから逃れたい一心かも知れない。あたかも閉じ込められた娘が流れ者の男に愚かに身を任せ、窓から外へと飛び立つように。だが、少なくともそれは何事かだ。
(雨が耳のなかで降っているよ。終わることがない)
一昨日、部屋に蜂が迷い込みました。怖いので逃げていました。締め切っていると段々とおなかがすいてきたみたいでした。角に隠れていました。空き缶の上に止まりました。
しめしめ。やっと怖い思いをしなくてすむ。つかまえてやれ。
そういう安直な人間です。私は。それで、そっと視線を固定しておいて、徐に近づき、ちいさな手帳を構えました。作戦はこうです。蜂を缶のうえのところのなんかぐるぐるしたまわりと、飲み口のあるへこんだところの間の空間に閉じ込めて、うまくいけばなかに入れちまえ、というのです。残酷です。蜂はまったくなにも気付かずにぶんぶんやってます。気楽なものです。案外そんなものかもしれません。
ゆっくりと手を振り上げ、ばしん、成功です。あっけないほどです。
で、ぼくはそのままほっておきました。開けたりすると、出てくるかも知れないじゃないですか。
今日になって、妙に気に掛かる。
ぶんぶん。
//好きだった人のことが思い出せない。思い出すのは、海の青。
窓の外に巣、つくってるんだよなあ。
【2001年9月12日(水)】
なぜ人間なんか殺すんだ。
人間を殺して迄、達成すべき事なんかないではないか。殺される人間にとって殺す人間の理由など知った事ではないではないか。わたしは恐ろしい。想像することが。わたしがその場にいたという想像がまねく恐怖が。わたしは死にたくなくて仕方がない。死んだ人はもの凄く死にたくなかったに違いない。死ななければいけないという疑いようのない認識を生きて経験することが怖くて仕方がない。そのような認識に人間は耐えられるものだろうか。
わたしは想像の場でさえそこに立つことが出来るだろうか。
死を足すことはできない。番号を付けることが出来るだけだ。番号は量ではない。ひとつひとつの死にとって、その死の原因の分析は知ったことではないのだ。多量の死のなかの一つの死として死のうと、たったひとつの死として死のうと、質的な違いなのであり、量的な違いではなく、死の意味そのものは変わらない。彼等は死にたくなかったのだし、殺される筋合いはなかったのだ。というより、暴力は暴力ではないか。
書き方ということに囚われすぎていたずらなことを巡っているかも知れない。もの凄く愚かしいことしか書こうと思わない。痛ましいことに対して痛ましいと表明することにどんな意味があるのか。分析や批評はましてする気にならない。だがそうすると書くことはまったく莫迦みたいなことだ。
実感がないというのも本当だし、ニューヨーク在住の人が知り合いにいる人が知り合いにいくらもいるのだから全く身近なことでもある。そういう身近さで粛然とするのも本当だ。戦争や恐慌への語られるきざしにまったく自分の感情として暗くなるのも本当だ。結局、どうにもまとまらないのだろう。
【2001年9月13日(木)】
狼狽えてあらぬことを書いた、という気も一方でしてならないが、消してどうにもなるものでもないから、書き続けよう。右顧左眄してどうにも我ながら、腰の定まらないヤツだという感想が強まってくる最近だ。思うに、何に宛てて書いているのか概念がきちんとしていないのがその理由ではないのか。よく思われたいという気分がどうもつよすぎる。惨禍は惨禍であるが、死者にとっては個人的惨禍であり、そして個人的惨禍は至る所で起きつつあり、起きうることの筈だ。当事者性を抜きにして騒いでも仕方がない。一方で悼みの念がないわけではないが、経験とつき合いにもとづいた内発的な喪失感を持たない人間が過剰に悼みを表明しても人間的な配慮の域を出ないだろう。それがたとえ具体的な対人関係に於いてぬきさしならないほど必要なもので時にあるとしても。だからむしろ私は個人的な狼狽と見通しの暗さへの保身的感慨に人道的カラーを帯びさせようとしたということにおいて、あさましさを持たせてしまった、と少なくともいえる気がしている。
しかしこういうことを思い始めるのも誰彼の書いたものを読んだ後でのことなのだから私は腰の定まらない奴だ、と自ら思わずにはいられない。
とりあえず、それだけ、覚え書きとして。
変更 【2001年9月13日(木)】
ここ以降、更新は基本的に創作とします。
踊り場ですれ違うみたいに 【2001年9月13日(木)】
/*
旧作から。次からは新作でいく予定。
*/
散歩をよくします。年に四・五回。大抵、歩けるだろう、という、根拠のない目算が原因でそういう破目に陥るのです。ふだん、炬燵から出るのさえ嫌がる私だというのに、歩くこと自体は嫌いではないようです。尤も、やはり軟弱であることには変わりがなく、三駅くらいで日和って電車に乗ってしまうのですが。
見知らぬ場所を歩いていると、全然、住んでいる場所のことを知らないのだなと気が付いて変な気分になってきます。両端のことは知っていても、途中のことはまるで知らない。何と無く、領土を増やしているような気分になりながら、ひたすら歩いていきます。そして、自分がそこにいることが完全に偶然で、そこにいるひとたちの誰とも何の関係もないということにますます変な感じを受けます。
それはかなりの部分、午後の住宅街にはひとが少ないということもあるのですが、幼いころから見ていた、仮面ライダーなどの怪人が出現する場所が、こうした時空だったからというのも大きいに違いありません。
桜の季節になれば、そうした空間の皮膜がうすくなって、どこかに至る所がつながっているような、理由のない切迫感が空気をたゆませているような、時間の異常がますます勢力を高めていくのではないかと思われます。そういえば、ぼくの散歩が長引くのも、ひたすら一方向にあるけば何処かにつくはずだという根拠のない確信のせいで、地図を見ないという性癖が原因なのだと思われます。
そうやって歩いていくと、角を曲がってタキシードを着込んだ洒落た猫が、おおきな目をくりくりさせて、あらわれて、道を聞いてきたりします。たいてい、動物たちのいきさきはお花見です。こちらではまだ咲いていなくも「あちら」ではもう咲いているらしいのです。ぼくは相手をするのが面倒なので、よくうそを教えます。
桜の季節に、ぼくの家から帰る彼女を送っていったときも、よく動物たちを見かけました。そのときは、彼女のことで錯乱していたぼくはかれらに愛想が悪かったようです。ちょうど或る公園のちかくまで来たとき、不意に、月から玻璃の瓶が墜ちてきて、
ぱりん。
と割れて砕けてしまいました。なかにはなにか金色のふわふわした気体のようないきものが入っていたようでしたが、割れてしまったのでいなくなってしまいました。彼女はその破片に触れて、指先を怪我してしまいました。もっていたハンカチを貸してあげると、彼女はありがとうと云いました。
そんなことも忘れかけていることの一つです。
あるじを失って、野良になって、音符をまき散らしているコタツに餌をあげたりしながら、住宅街を抜けてしまうと、そこには、いつも、もの凄い風に吹き飛ばされている紙切れに出会います。その無数の紙吹雪が横殴りに吹き付けて、ようやく、ぼくは、もう、帰る時間だ、と気がつきます。
ぼくはこの風景が好きなのです。
そうして来た道を、今度はわき目もふらずにもどりますが、戻ってみると、おうちは無くなっていて、その空き地には、黒猫がいっぴき座っていて、
あっちに行くのをみたぜ、
というので、ぼくは家出したおうちを探しに行かなければならないのでした。
【2001年9月13日(木)】
改装す。
テストをかねて、日記。
【2001年9月14日(金)】
http://islamcenter.or.jp/ICJstatementJ.htm
http://www2.mnx.jp/~jyb2774/P-Watch_01_09_14.txt
取りあえず、urlを二つ。
さて、最近、思うこと。たとえば、私は更新報告リンク集にコミュニティ意識をもったことはないし、持つことを期待するという心情もいまひとつ分からない。わたしにとってサイトの文章は基本的には発行したものなので、読む人は「読者」でありそれ以上でも以下でもない。それに私にとってそのひとが書いたものとそのひととは別なので、そのひとが本当はどういうひとなのかというようなことは別に考えない。
勿論知り合いがうまれ、友人になることもあるが、それは個別の一対一の出来事であって、読者である、ないというようなことは関係がないことだし、親しくもないのに、密接なコミニュケーションや、なにか仮想的な共同体への責任や参加意識を求められるすじあいはないと思っている。作者は書き終えたときすでにいないのであり、それが理想だと思っている。
とはいえ書くことになんらかの意味で責任に似たものがうまれることがないと思っているわけではない。当然に倫理的、政治的意味が、不可避的にうまれるだろうし、それを避けることは出来ない。ただわたしはそこにおいて、それは普遍的な、特定の共同体に属する規範によってではなく、不特定のものに適用できるようなものによって問われるだろうと考えている。
ともかく他者は他者だし、書き手と読み手の関係は基本的には、一方向のものだとぼくは思っている。それ以上の関係がうまれることもあるかもしれないが、それはそれこそ、イレギュラーというもので、まして期待されるようなことではない。文があれば、人はいなくてもいいのである。そしてそれは対話を避けると云うことではなく、文の解決は文でつけるということで、それに人を巻き込む必要はないということだ。
ついでにいうと参加しなかった場合のリスクをひきうけるという条件で参加しないという権利はつねにどんな場合でもぼくは留保されるべきだと思っているので、共同体意識には距離をつねに感じてしまう。もっともそれは「みんなでもりたてていこう」というふうに何かに対して思ったことが殆どないという個人的事情かも知れないが。
あるいはこういうべきかもしれない。私は集団を擬人化することが苦手であり、おかしいとおもっている。たとえば国家は話したりしないし、都は怒ったり悲しんだりしない。そういう擬人法のいっさいが、わたしにはうそくさくて仕方がない。実際には、集団はモノとしては存在しない。人々の行動の形式や規範としてあるだけである。しかし多くはまるでモノとして存在するかのように語る。そのことにもぼくは違和感がある。そういう感受性が、わたしを決定していると云うことはいえるかもしれない。ひとが集団や組織に感情的に入れ込むのは、こういう擬人法に幻惑されるからではないかと思っていたりする。
ところでこれも少し別の話だが、どうも悪人は何をされても文句は言えない、という感情をよく目にするように思う。しかしそれはうそだ。それは悪人であっても哀れむべきだというような過剰な道徳からではなくて、悪人がその報いを覚悟する、すくなくとも予測する必要がある、というのは、その悪人当人の問題である。しかしその悪人をどうするかというのは、こちら側の問題であり、その振る舞い方はそれはそれで別に問われることだ。たとえば、人を殺すのが悪かどうかと云う問いと、ひとを殺したものを殺すのは、あるいは殴るのは、あるいは云々するのは善か悪かという問いは、まったく別にたてられるべきだろう。ふたつの別のことを混同するから、悪人は何をされても文句をいえない、などと狂信的なことを考えてしまうのである。すでに悪人であると前提してすらこのようである。まして実際には善悪ほどはかりがたいものはないというのに。
善も悪も足すことも引くこともできない。ひとつひとつの善行も悪行もそれぞれ別だからである。だから宗教の大半には、ひとつのちいさな、しかし致命的なうそがあるのではないか、とぼくは疑っている。それは、善悪は足したり引いたり出来て、その量を測れるという、考えである。
参加と云うことに戻すと、それは社会性と共同性の区別みたいなことが大事なので、それは簡単に云えば、参加する必要と、応答する必要ということだと思う。社会的であること、つまり他者にきちんと対峙すること、自分がいる場の状況を把握し、そのリスクをひきうけること、というのは応答する必要、に属すると思う。しかしそのことと、参加する必要は別であり、応答する必要はあっても、参加する必要はかならずしもないのだとぼくは思う。もっともそれこそ個人が個々の具体的な場で考える必要があることだろうけど。
「世界文学の歴史」阿部知二を読んでる。偏ってる。しかも西欧、英国寄りすぎ。あと社会主義文学に過剰に期待してる。こんなんで通ったんだから七十年代は或る意味では気楽だったんだなと思わされた。なんか文学観が決定的にふるくさく感じるのだが、阿部さん主知主義文学のひとだとならった記憶があるんだけどなあ。
ついでだけど、アメリカはくれぐれも対イスラムという構図に「戦争」がシフトしないようにあらゆる努力をしてほしいと祈ってしまう。もしそうなってしまったら目も当てられない泥沼がつづくような気がする。怒りのアフガン、いってる場合ではないのである。
【2001年9月15日(土)】
渡部利道実験中
事件についての言説についての記述。
啓発的。対してぼくはどう考えるのかはまだはっきりしてない。
相変わらず読んだ文ごとに納得してしまっているありさまだ。
笙野頼子が訴訟の有効性ということについて述べていたことを想起する。
否応なしに送りつけられる報道に対して、自己の当事者性が何処にあるのか見出すことは簡単ではない。これは震災の時にはじめて考えさせられたことだが真剣に考えていなかったのか、いまでも私は自分の態度を曖昧なままにしている。
想像力について云うなら、想像するということは仮面をかぶせると云うことだろう。となればむしろ文学の想像力として考えるべきなのは、想像しているのと違うという可能性というか隙間への想像力ということになる。
単純に自分の問題としていうなら狼狽気味なのは生活力に自信がないから変事に対して過剰に反応しがちだということで尽きている。
つねに自分自身の必要は何なのかという問いを欠かしては成らない。
ともかく、力のリアルな関係性への想像力がまずあって、それがいかに語られるかというレベルがあり、特定の語り方への利害があり、そして、……
米大規模テロの犯人像を考える
さて、一万人におよぶ非戦闘員の死傷は悲惨であり憎むべきだ。
だからそういうことは起きないようにしなければならない。
と、いう一般論の論理と、進行している現実を実際に規制している論理との距離を見出すことが問題なのだろうか。
少なくとも明白な一般論から一義的な解答が出てくるはずもない。
不況に与える効果ばかり気になってしまうのだが。
ここから下は日付は下に向けて遡ります。
20010927
安直な絶望が、道徳の装いで蔓延しているようにぼくには見える。そもそも道徳家はニヒリストなのだ。なぜなら彼等は、全体や、デファクト・スタンダード、伝統といった、安心できる大きな事実的な一般性、つまり大規模で堅固な制度というものを神格化することでしか、倫理や人間同士の関係の基礎付けが出来ないという絶望に取りつかれているからだ。つまり、何か大枠のものから付与される共通のものがないと、あらかじめ同胞でないといけないというニヒリズムに取りつかれている。しかしこの絶望は安直だし無責任だ。人間同士の関係は組み上げられ、構築されていくものであって、あらかじめ広い意味で同胞でないと相互理解に達することが出来ないと云う絶望は、そのような困難な他者との関係を組み立てるための関係を、あらかじめ不可能であると切り捨てることで回避するすべにすぎないからだ。関係や連帯が何の問題もなく可能だと考えたり、その普遍性を疑わないのは勿論ナイーブで批判に値する。しかしだから、ということでそれらを不可能だと断定して、エゴイスティックなプラグマティズムと道徳主義の奇妙な同盟に退避するのはもっと無責任だろう。絶望も希望もその意味では安直な虚飾にすぎないので、必要なのは実際的な持続する配慮なのだ。あることが可能であり必要であるなら、それが困難で蓋然的でないとしても、少なくともそれを目標に定めることはいかなる意味でも非現実的なことではない。むしろそのうえで現実に対処すると云うことが実際的な態度であって、ずっと手前のところで一般論から、そんなことは不可能だと語る分別というものはこのうえなく現場のリアリティからかけ離れている。
道徳と「現実主義」は安易に野合する。それは夢想の肯定を現実の名の下に裁き、その一方で夢想の否定を道徳の名の下に肯定する。これはダブルスタンダードなのだがそれは気付かれない。現実の名の下には、夢想の否定も又、否定されるべきものだろう。現実はただおきることがおき、おきないことが起きないだけなのだから、夢想が否定されるすじあいはない。それもまた現実でしかないからだ。従って、この道徳をバックアップし、それと野合して倫理の不在をきわただせる現実主義とは、実際には、実際的でリアルな態度のことではない。それは現実が変革不可能であるし、変革しようとすべきではないという道徳の視点から肯定された、現実の永続する制度的側面のみをきわだたせる特定の視線なのだ。いいかえると、現実主義が対象にしている現実の範囲は、実のところ、可能なことの範囲ではなく、蓋然的なことの範囲でしかない。そして蓋然的なものの範囲は、物事が同様であれば、という暗黙の仮定を隠し持っている。だがこの仮定そのものは、ほとんど検証されたことがない。
……平和への希求を自己保存衝動に過ぎないではないか、世界には生命を超える価値や秩序や合法性というものがあるのだというひとたちがいる。道徳とエゴイズムについて考えたことのない安直さがあまりにも露呈していて見苦しいとぼくは思わずにはいられない。死にたくない人間が平和を望むのでは必ずしもない。戦争状態のほうが個人的な生存の維持にとっては有利な人はいくらでもいるからだ。平和への希求は殺さない意志であって、死にたくないという意志では必ずしもない。人が死に、病む事への嫌悪は、理念的な正義より手前にあり、決してそうした正義によってかき消されるべきではない根源的な「義」を構成する。エゴイズムを道徳がとくとくと非難するとき、善への意志もまたエゴに内在する欲望だということを都合良く忘れているのだ。まるで善はすべて自我をこえるものから到来し、自我に由来するものはすべて卑小で悪だというように。これは勿論、きわめて道徳的で観念的なドグマに過ぎない。傷や死や病への嫌悪と怒りを、何か高い正義に対比して、卑小な「女子や小人」の感傷や正義だという壮士ふうのマッチョな思考は、根源的なことを忘却しているのだ。つまり、生存を抽象的な理念の下に置き、犠牲にしてしまうのだ。だが死にたくない意志は可能な限り擁護されるべきだ。それはまた生きたい意志でもあるからであり、それは歌う意志であり、愛する意志であり、踊る意志でもあるからだ。だが生きたい意志が安直に殺すことで生きようとする意志であるときにのみ、異議が対峙すべきだろう。殺す必要はないのだ。殺す必要があるときなど決してない。それでも我々がときに殺すのはただただ、安易だからだ。きわめて例外的な瞬間、たしかに殺さなければ殺されることが確実であるときがあるかもしれない。まさにそのぎりぎりでは倫理は停止するかも知れない。だが疑う必要がある。ひとはあまりにもいまがその瞬間だと宣伝され続けている。事態がそうであると見なしたがるのは安易だからではないのか。そしてまさにいまがその瞬間であるという確証など、戦場のただなかで物理的に確実だと言えるような場面でもない限り、決して与えられないし、またそのような確実性などありえないだろう。やらなければやられるという議論ほど、事態を明晰に見ることからさまたげるものはない。それはありえない確実性の虚像を作り出しているのだ。わたしたちが犯罪者を殺すのも、強盗が被害者を殺すのも、ともに理由は同じだ。安易でそのほうがラクだからである。
http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/terrorism.html
それにしても国家や共同体の自己保存行動や利益追求を、個人のエゴイズムを否定する人たちが、全面的に肯定するのはじつに奇妙なながめだ。共同体のエゴイズムがアリで個人のエゴイズムがナシな理屈など、どうしたってたてられないと思うのだが。つまりパブリックネスの観念がないのだとぼくは思う。滅私奉公の公私の論理では、公というのは結局、単に、レベルがひとつうえの私でしかない。そこには質的差異などない。しかし公共としての、パブリックとしての公というのはそういうものではなく、共存と関係の空間だ。同化の空間ではない。あるいはそれは横の関係にかかわるのであって、縦の関係に関わるのではない。
超越的な枠がないと関係がつくれないというのは安易な絶望だし、絶滅させてきりのない連鎖を断ち切りたいというのも安直な逃避でしかない。何かを絶滅させてことを単純化させたいという意志こそが、紛争や問題をつねに悪化させてきたのだ。ぼくは絶滅への意志にはどうしたって賛成することが出来ない。
20010925
Palestine Olive
みなさん、オリーブはいかが?
アフガン
何よりも、必要なのは経緯を知ることだとぼくは思う。
世界の水の濃度はますます増している。魚たちでさえいずれ窒息してしまうだろう。ぼくに必要なのは緩やかさだ、と最近ぼくは思ったことでした。緩やかさだけが、少なくとも、孕まれた子供のように思考を生むことが出来るはずだ。反射的な痙攣のようにして言葉を叫ぶ事だけは避けなければならない。ひとつの長い思考のリズムを身体の中に流れさせる事。
ブッシュ大統領はあらゆる手段といっている。暗殺も含めて、と云っている。ノリエガを捕まえたときと同じ理屈なのだろう。テロと戦争の差異について語るひとの多くはむしろその差異を過大に見積もっていやしないか。ブッシュは国家によるテロリズムを宣言しているに等しい。いまさら、クラウゼビッツ的な戦争で戦争を語れるはずがない。総力戦と核以後、そして冷戦以後、戦争はテロリズムとますます見極めがたくなるだろう。前線と後方は区別できなくなり、合法性の見かけはあいまいになり、宗教的レトリックが支配する。
くにというものを否定する事ではじめてアメリカの理屈は成り立つだろう。その理屈をかざしてアメリカはくにとして、くにではないものと「せんそう」をする。しかしことばとしてせんそうできるのはくにだけだ。くにであるためにあめりかはたたかわざるをえない。だが、くにではないネットワークもまたますますりあるになってくるはずで、そういうネットワークによって、遠方は近傍となるのだとおもう。それにしてもそういうネットワークとして文学をつたえる現実的な手紙のありかた、あるいは上演のありかたというのはどうあれるのだろうか。
ポール・オースター「最後の物たちの国で」。推薦しておきます。
20010922
戦争と地震の予感についてはさんざ小説に書いてきたことだし、いまさらという気がする。たとえば、「風の吹き込む庭で」「ペンギンならばもっと暑い」や「歌の絶える地平線で」
最後の詩については、観測が甘かったな、という意味でぜんぜん文脈と一致していないのだが、それはそれとして、奇妙なめまいを誘う心地もする。つまりずれているからだ。
それにしても自分が廃墟に引かれる気持ちの原因がわからない。わたしはあのサンスポの品性低劣な特集写真を見ても、廃墟のきざし、すなわちカオルンのおもかげばかり見てしまうのだ。
本当に、ろくなことを書いていない。
ロレンスに「現代人は愛しうるか」という黙示録に文学的に対決した書がある。ついでだけど、おすすめしておきます。
20010916
cgiで、フォーム入力で書いているとどうもいい加減になってしまう、ということで、タグ入力で更新することにした。
距離の暴虐という言葉があるけれども、距離ということについて思考が巡りはじめている。勿論こういう云い方は何となく嘘がある。思いつきから語り始めようとしているということを隠蔽しているからだ。わたしは救いがたい体裁屋なのだ。距離というのはあるのだろか。というよりも距離の正確なつかみ方というのはどういうことなのだろうか。何かが起きている場所とわたしの場所との間をテレビや何かは直結してしまうから、距離はないようでもあり、あるようでもある、という変なふわふわした感じ方になってしまう。しかしそこに出かけていくことはできるし、そこから出かけてくることだってある。実際、モノは流通しているのだから(商品たちの大いなる旅)、距離はない。あるいは、距離は全く魔術的なものではなくて、連続的で具体的な道の向こう側だ。
ということは距離は物理的なものではなく法的なものなのだろうか。それはあるかもしれない。内乱が起きている国でも、外国人にとってその悲惨は或る程度、隔てられたものだ。この距離は物理的な距離に劣らず大きい。触れることがない限り距離には量的な手間の差があるだけで質的な差はない。触れることがない限り、現場で法的に守られたものが傍観するのと、ここで映像を傍観するのとの間にはどんな差があるか。勿論、差はある。しかしそれは彼等においての差で、我々にとっての差ではないのではないか。わたしたちが可視的であるか、不可視であるかといった。
関係の距離と物理的距離は等しくない。まわりと関係を持たずにいるかぎりで、それは遠くにいるのと変わりはないかも知れない。勿論、これは短絡してはいけない論点で、物理的距離は物理的距離で、ひとつの体系を為しているから。つまり物理的距離は、関係の距離とは別の秩序だけど、関係の距離の遠いものを暴力的に接近させる。
つまり、これは遠方のことに想像力を持てという話では全くないので、遠方であるということが本当なのかということであり、近傍にある遠方の先端を可視化するということなのだ。遠方性というのは不確かなもので、関係の距離、あるいは当事者性の形成にかかわる距離とは遠方というイメージからほど遠いのではないかということなのだ。実際、単に物理的距離にしたところで、それを時間的距離と手間に換算して単純に比較すれば、それは世界地図とは全く異質の地図を構成するに違いない。地図とはそのようなものであり、思考はそのような地図に即して組み立てられるべきではないのだろうか。