反復者の日記



2001年 10月 1日 月曜日

 バラエティにお笑いが浸食されていく過程を見るのは辛いものだ。典型的な過程はたとえばいままさに「笑う犬の冒険」で演じられていたりするのだが、それはお笑いが芸ではなく、バラエティ・ショーの出演者に変化させられていく過程でもある。バラエティは何なのだろうか。そしてお笑いとは。それは私にもまださだかに把握されている訳ではないのだが、それでも幾つかのしるしは見分けられる。バラエティはなれ合いの世界で、視聴者の想定対象は幅広く、出演者はキャラクターではなく本人として立ち現れ、笑いの質としてはきわめて保守的で穏健で、ストイックではない。要するに、親しみの持てるいい人の演じる、異様さや過剰さのない、或る程度予測できる世界なのだ。誤解すべきではないのは、これらの指標によって、わたしがバラエティとお笑いを区別しているわけではなく、そこには形式的な差異があるということなのだ。

 お笑いは演劇的な要素が強い。或いは作品的な要素が強い。それはひとつのシークエンスであり、明確に日常から区切られた空間を形成する。対してバラエティとは本来、それらを含む番組の幕間の語りだろう。つまり、現在のテレビの異常さというのは、バラエティ・ショウのそれぞれのバリエーションであるというかコーナーであるところの「芸」や「企画」が主体性を奪われ、異様なまでに「司会者とコメンテーター」の重点が高まっていると云うことなのだ。本来、芸人は司会者でもコメンテーターでもない。しかし芸人の仕事において、そのふたつの重点が肥大化するというのはむなしいことだ。そういう形態では前衛的に、あるいはなんらかの徹底性をもって芸を発揮することなど出来ないからだ。司会者とコメンテーターには本質的には個性はいらないからだ。技量の差があるだけで、交換可能なのである。しかし芸は交換不可能な何かを孕んでいる。だからお笑いがバラエティに浸食されていくというのは、云ってみれば茶の間への妥協なのである。幕間のゆるい語りを親しみやすさを武器にして前面に出していくというのは、やはり逃げである。

 だから、バラエティ出演者には向かないが才能のある芸人というのは確実に存在するが、彼等はテレビ的にはきわめて不遇だ。芸人の公的な出世コースはバラエティ化することを強いるからだ。売れてきた初期はそうした芸がスポットライトを浴びることも許されるが、やがてそうした形態はゴールデン向きではないとして排斥される。従って、彼等が作家性をふたたび発揮できるようになるためには、番組そのものを支配できなければならない。だから看板番組が求められるのだ。それはかならずしも出世の証だからというのではなく、ひとつの設定や形式によって、番組そのものがひとつの作品にするということがようやく出来るようになるからだ。

 繰り返すと、それは単に量的な芸人の影響力がどうという話ではなくて、バラエティ的なものとお笑い的なものの対立と云うことが本質にあるのである。この二つのものはするどい対立を形成している。だからこそ「ごっつ」は終了し、「笑う犬」は楽屋をさらし、「めちゃイケ」は両立をめざしてドキュメンタリー・フィクションに傾斜する。「めちゃイケ」の戦略はバラエティ番組というコントを演じるというスタンスをとることであり、自分自身を演じるというセルフ・フィクションである。これは成功することもあるが、しかし全体的に云ってバラエティ化の圧力はやはりかなりつよい。

 そういう意味で藤井隆はやはり出色の存在だと思う。かれのストイックさはただものではない。若手にも何人かはいるが、しかしむしろもうひとり挙げるとしたら、YOUさんで、つまりこれは批判精神ということなのだろうと思う。バラエティ的なものというのは、個々の出演者がどういう存在であるかにかかわりなく、番組の演出そのものが、何が可笑しくて、何がまじめなものかというデイレクションを暴力的に方向付けるものだ。そこには奇妙な一致となれ合いがあって、それに対して個人的なゲリラをしかけることは許されないし、そういう異様な行為がなされても多くの場合、曖昧な笑いによって、「回収」されてしまう。明示的に可笑しいことでなければならないのだ。でなければ安心して笑えない。しかし、藤井隆やYOUさんのようなそうした一致そのものに対して過剰なひとは一瞬の空白をつくりだす。勿論、その過剰のありようは全くちがう。YOUさんの狡いので、というか優しいので、「回収」されることを前提にしているところがある。つまり「進行」や「演出の意図」に協力的だ。しかし、本質的にそれらの「進行への回収」は副産物として起きるのであって、ある種の暗黙の了解への切断を起こしていることは確かだ。基本的には彼女は演出の意図とは微妙に別の場で勝負している。そのあと彼女の提起にまわりがのっかるので、あたかも進行通りであるかのように見えるだけである。藤井隆の場合は、基本的に彼は本人ではないというところがストイックなので、つねに状況を即席でコント化しようとする。それも過剰さのある風景にだ。彼にとってバラエティ的な状況の安心できる日常性は、変質させるべき課題でしかない。勿論この過剰さとストイックさはかれのもろさでもあるのだが、文化的なものというのは強さを獲得するために持つ不安定さを伴うものだ。「全員一致」で和やかに異質なものを上から保護者的に「ほほえましい」ものとして笑うバラエティ的笑いにとって、彼の存在は不安定要因だ。だからかれはそういう場面では沈黙していることが多いし、溶け込んでもいない。

 それにしても、ゴールデンでは決してバラエティ的な笑いしか生き残れないのだろうか。だとしたら、やはり、何処か悲しいことだと思わずにはいられない。