2002/03 日記(jouno) ログ
03/30 4th
そして、保身の念こそが悪意のみなもとであるということから、当然のように、優しさとは、勇気の別名にほかならないことが、導かれる。
#
イスラエルのパレスチナへの戦争をぼくはつよく非難する。シャロンはアラファトの影響力をそぐことで、パレスチナ民衆の政治的結集力を奪い、植民地化しよ
うとしているのだ。和平がとおのくほど、民衆の支持は過激派にあつまり、テロだけが可能な絶望的反抗の手段として選択される。そしてイスラエルはまさにこ
うしたテロをかれらが和平をこばむ口実にしてきた。聖ブッシュ二世陛下の自由と正義の宮廷とその「偉大な」帝国の軍事力を背景に、テロといえばおそろしげ
だがいきあたりばったりな個人的な暴力しか対抗手段を持たないまずしい民衆を弾圧するイスラエルが、テロの無垢な被害者のように言い散らすことほど恥知ら
ずな皮肉はない。
03/29 3rd 見えない他者、明るい真夜中
徘徊する幽霊がいる。あらゆる通りを、道という道を、公園を、広場を、他者という幽霊が。
わたしたちは知らないものを見るとき、かれらを見ることが出来ない。わたしたちは誤読する。わたしたちは他者のサインをまちがって読みとり、送られていな
いサインを見いだし、送られたサインを見過ごす。そしてわたしたちは誤読していることにすら気がつかない。外国語を、外国語だと気がつかずに聞いていれ
ば、わたしたちはなんの疑いもなくそこに自国語の単語を聞き取る。耳の聞こえないひとに話しかけて反応がなければ、無視されたと思いこむだろう。わたした
ちは幽霊にしか出遇わない。徘徊する他者たち。
他者たちは見えない。インビジブル・マン、透明人間は典型的なイメージという仮面の後方
に座り込む。わたしたちは読む。他者たちの意図ははかりがたい。幽霊は恐ろしい。だが、他者たちが恐ろしいのは、知ろうとしないからだ。見えないものは恐
ろしい。だが、それは見ようとしないからだ。どうして、分からないものに対してひとは取敢えず悪意を想定するのか。それはわれらの内なる根元的な悪意の投
影なのだ。無理もないささやかな保身の念と見えるものほど、残酷なものはない。幽霊にされても、ひとは生きなければならない。かれらの声は届かない。本当
の問題は、声高に語られることだけにあるのではない。本当の惨禍は、声を奪われること、記憶を奪われること、そして、自尊の念を失うことだ。透明人間はや
がて、みずからを見ることもできなくなってしまう。
歌え、他者たちのために。典型的な、イメージの、或る色の代理として、代表的存在と
して他者が語られるとき、けっして、それらの他者の現実への参照はなされない。他者は見えない。だから、皮肉なことに、だからこそ、かたるものは、他者に
ついて知らないものはなにもないと信じることができるのだ。どんなものでも現実は複雑でけっして、なにかの主張のたてに、典型として総括できたりするもの
ではない。言葉のなかにとじこめることができるのは、幽霊だけだ。
他者たちが徘徊する。他者たちは幽霊だ。幽霊はおそろしい。だが、他者たちから血肉を奪い、名前を、記憶を、声を奪ったのは誰か。それはかれらを見るこ
とが出来ない市民たちではないのか。
いまも、幽霊は徘徊している。だが、幽霊の声をあなたはきこうとしただろうか。
03/29 2nd 言葉とコップ revision
あーうーこむずかしい書きかたしてるよなあ、おれ。まったく。漢字が無駄に多いってのはあたまわりい証拠だもんなあ。言葉とコップってのはつまりさ、意
味ってのは言葉とべつのもんで言葉のなかに「入ってる」みてーなもんじゃなくて、言葉の効果みたいなもんだって、こと。それが胃の内容物(げろげろ)とか
そういうイメージを出した理由。だからどうしたって? そうなると幾つか分かることがあって、ソイツをいいたいわけ。
内容っていうとも
うあとはそれを説明するためのツールっていうか飾りみたいなもん、手助けみたなもんだと思うか、それか思わずつけちゃった足跡みたいな(例えば感情と
か?)、どうでもいいおまけみたいなもんで、「内容」ってゆーか、こういうときもうほんとは「主題」みたいな言い方のがあってるんだろうけど、そういうお
まけと内容は無関係か、わかりやすくするためのお助けガイドみたいな関係しかないってことになっちゃうんだよね。まあ、当然だよな、コップの模様より水の
みたいもんな。
でもさ、考えってことを言い出したらそういう言い方をしたって事はいいかえるとそれでアリっておもったっていうか、それ
でもいいとか、それがいちばんいいと思ったってことだろ? 何の気無しにえらんだ場合だって、なんの気なしに、てことはデフォルトの言い回しをえらんだっ
てことだってさ、べつに言い回しに気をつかわなくていいやデフォルトでいいやってのは、そのいおうとする事へのひとつの姿勢だよな。それか気も使えないほ
ど感情的になってたって場合だって、その事について感情的になるってことはやっぱしそいつの考え方について語ってるわけだ。いや、そりゃ、事柄とカンケー
なく不機嫌だったとかそーゆーことはあるんだけど、そういう場合はだいたいわかるとおもうんだよな。もちろん、うん、そういうことに出てることが、重要
か、大したことないかってのは、ケースによるんだけど、たとえばさ、自分の人種とか性を軽蔑されてすげーおこって書くひとがいたとするじゃん、そいで、そ
いつがすげー不穏当だったり、ビザールな、奇妙なものいいつかったり、皮肉ったりするとするじゃん、そういうのって、大目に見て主張の本当の理屈だけきい
てやればいいってことになんのかな、そうじゃなくてさ、そういう言い方こそ、ソイツの表現、思想、生き方、誇り、そういうのをしめしてるわけでさ、(この
へん、じつは啓蒙主義と植民地主義なんかとのからみで、マイノリティの表現についてかんがえるうえで重要)気に入らないものだったとしても、無視するのが
ベターとは思えないんだよね。(そして勿論、そういう言い回しをえらばした考え、理屈を、表現を取り上げて批判するというのはけっこうよくある必要だった
りする)うん、そりゃあ、そういうのをさ、上品ぶってはなしもききやしないのはサイテーだよ、だからって、そういう言い方をきいた上で、そういう物言いが
下品だからってんじゃなくて、そこにあらわれてる考えが気に入らないってんで批判するのはトーゼンありだよな。
(この主題については文
脈がある。が、この文は必ずしもそれだけについてではないし、論旨のために例示のもとになった議論の意図とは別のことを論じている。くれぐれも単純にあて
はめたりしないよーに。その特定の議論についてのコメントはこちら。参照。梅矢さんの文脈は、表現一般ではなくて、物言いを乱暴さという特定の基準で門前
払いすることへの批判だったので、よんひゃんさんのほうは要約の仕方、単純化の仕方が単に下品さを強調しているということよりも実際にはその要約、単純化
の仕方の背後にある一面的な誇張、考えに批判の重点があったので、その意味でぼくがここで書いたことと対立するとは思わない。内容と区別された上で孤立し
て切り出された「表現・態度」を、文脈と無関係に道徳的に批判することが好ましくないのはいうまでもないからだ。I'll be
hereとか「暗幕」日記。いずれもログが流れる可能性があるので日付を確認されたし)
03/29 言葉とコップ
スティーブ・マーロウ「ドン・キホーテのごとく」読了。傑作。
カルヴィーノ「パロマー」を借りる。「テスト氏」と似てるのかしらん。
(print "Love You All! yes,I say love you!");; yes...but....
ところで日本ではよく総中流意識なんていうけれど、これに客観的な裏付けはない。統計によれば、人口が特に集中している所得階層なんてない。むしろ不況の
拡大で所得格差は拡大している。単に、所得格差が大きいと互いに生活圏が違うし、それぞれ自分の生活レベルが中流の基準点だと思ってるだけの話。
本題。
表現と内容ということについて議論が展開されているのを読んだ。しかしここでぼくが書きたいのは表現と内容という分割について、もっとはっきりいって、
比喩についてだ。
内容という言葉は、本来、コップとその中身の水というような場合に使う。あと、胃の内容物とか。容器と内容というのがふるいもとの対だろう。だから、とも
かく、言葉は入れ物だろうか、コップのようなものだろうか、意味はコップの中の水のようなものだろうか、そう省みてみることは意味があるだろう。どんな概
念ももとは比喩だということ、そして比喩としての性質を完全には失いはしないということは想起されていい。
表現と内容を分割する事なんてできるだろうか。内容とはなんだろうか。この言葉は非常にとらえがたい。実在するのは表現だけだ。では内容とはいったい何
を意味する言葉なのか。注意してほしいのは、別に内容という言葉の有効性を疑っているわけではないということだ。
内容というとき、しかしわたしたちが手にするのは、やはり要約というようなかたちでの、別の文、つまり別の表現だ。つまりできるのは文を別の文に置き換え
ること、表現を別の表現に置き換えることだけだということだ。だから、意味、もしくは内容に当たるものがあるとすれば、そうした可能な置き換えの集合とし
ての、同じ意味として言い換えられる置き換え文の集合、クラスだということになる。
そういう意味で、意味とか、内容という言葉にはそれ
なりの実質があるのだけれど、こういう実体を、水とコップの比喩で理解することによって、偏りが生まれていることも無視できない。最大のものは、言葉の本
当の実体は内容のほうだ、という観念と、内容と表現は分離可能だ、という考えだ。
ひとが「内容」を理解するのは、「表現」を通じてでし
かない。その意味で、勿論、すでにした定義からもそうなんだけど、内容というのは表現のもつ属性のひとつだ。では表現の持つ属性、表現の諸特性から、内容
に属すべきものと、たんなる表現面に属するものをどうのように分割すべきか、ということが課題になる。べつの言い方をすると、「表現」ということばは二度
あらわれる。広義と狭義で。内容が読みとられるべき指標としての表現の部分と、それ以外の単なる表現面とみなされるべきものをわけた狭義の表現というもの
があることになる。
煩雑に、無駄にアカデミックな区別をしてるわけではない。これは実際的なはなしなのだ。ある文体、ある言い回しは、
そのひとの気持ちや、状況、流れといった、「二次的」なものを「意味して」いるのか? それとも「主題」を意味しているのか? それはきわめて恣意的にし
か決定できない。というより、ここで重視してほしいのは、「二次的」「主題に外的」な諸要素と「主題」という分割だ。
第一にこの二つの
分離がどれだけ根拠があるか、どれだけの程度たしかになしうるかということへの疑い、そして、「主題」というのがなるほどある程度決定可能であるとして
も、個々の文の個々の箇所がどちらかに排他的に属するかどうか、というのはまったく不確定だということだ。
実際、ひとがある言い回しを
えらび、ある主題にある感情を抱き、あるいはある順序で語り、等々のことは、まったくそのひとのその主題との関わりで、いわゆる思想とか主義とか主題と
いったものと不可分だ。どちらがどちらを決定するともいえない。そのことはさらに、主観的な意図という不明確な観念とのかかわりでもうたがわしい。文の意
図が、書き手の意識的な意図と一致するとは限らない。ひとは、自分が何をいってしまっているのか、完全に把握しているとは限らないのだ。
基本的なことは、ある表現が択ばれるのはそのひとの意図、そのひとの立場、考えに於いて、であるということで、むしろ、そういう言い方をするより、ある同
じ表現が、それら複合的なものを、同時に、別の仕方で意味しているということで、そこに「主題」と「二次的」というヒエラルキーはつけられない、というこ
とだ。主題の概念は、むしろ、複数の文のあいだで一貫しているある流れ、複数の文を組織する「ちから」というような力学的なものとして理解すべきで、それ
らすべての文が、その「表現」になっているある観念的な「文」があるというふうに考えるべきではないのだ。
作家は、表現を構成する。そ
して、内容というのは、一方では表現を形成するある力の呼び名でもあり、また同時に、表現の副次的な効果の名でもある。そしてやはり、あまり適切な名では
ないのだ。実際、表現という言い方も、表現されるべき自己みたいな考えを示唆するから、それもあまり適切とはいえない。ただ、書くのだというべきかもしれ
ない。
03/27
リンクの自由について、同人・創作系のひとは作品という意識があるから無断でリンクされるのをいやが
るのではないかという話をどこかで聞いた。しかしそんな考えのひとがいるのであれば、ちょっと奇妙だ。リンクの自由一般がどうかということとは別に、創作
するんなら、その作品へのアクセスが無制限であることを志向するのは当然のはずだ。だいたい、流通に出したらそのテキストに何をいわれても何もいえないの
で、物書くほどのひとはそれが最低限の前提だ。テキストのなかで、そういう意味で抗議するような主体、作者は死んでいるので、テキストは原理的には遺書な
んだから、死人にクチナシ、そもそも、小説という形式は不確定、未知の不特定多数からなる市場を前提にしているものではないか。いったい、作品のなかに織
り込む以外のどんな方法で作品を作者として専制支配しようというのか、それは事実として不可能であり、むしろ、そのテキストを小説としては失効させてしま
うだけだろう。
作品という意識、ここでいわれているような、自我の、自己の延長、その表現、所有物としての著作物という観念はたぶん、
近代出来のものなんだろう。しかし書くということはわたしが書くということではなく、ここでそれが書く、ということなのだから、書いているときの私の手
と、私という主体の関係なんて、それほどはっきりも明確でもなく、いわんやべつに特権的な関係でもないんだから、といってもそれは無意識とか、生理学の複
雑さのことではなく、言葉の意味の成立や、形式、言葉の歴史、ストーリーの歴史のからみのはなしなのである。
03/26
結局、ぼくはラ・マンチャの男、セルバンテスに惚れているのだ、と告白しなければならない。とはいえ、ドン・キホーテは現に狂人で、滑稽であり、愚鈍です
らあるのであって、「そのようにみえるのは衆愚にとってであるにすぎない」、「本当はかっこわるいのはかっこいいのだ」、という主張はぼくのもっとも嫌悪
するところだ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そのような英雄崇拝とドン・キホーテはもっとも離れた場所で考えられなければならない。ドン・キホーテ・デ・
ラ・マンチャは狂人であると同時に高貴なのであり、狂人だから高貴なのでも、狂人なのに高貴なのでもない。まして、狂人に見えるけれどじつは高貴というの
でも断じてない。
ドン・キホーテを任じることは、ジャンヌ・ダルクを任じることと同じく、決定的な悲惨に落ち入ることになるだろう。ド
ン・キホーテは悲惨な存在であり、そしてドン・キホーテはドン・キホーテの愚劣を意識せず、まして、その高貴を自ら意識するドン・キホーテなどありえな
い。ドン・キホーテが、みずからのありようを、無自覚な道徳屋に対する皮肉であると見做していたなどと考えたり、みずからドン・キホーテとして任じて、そ
うしたこれみよがしな皮肉として愚鈍を粧うことこそ、どれほど非ドン・キホーテ的な残酷さであることか。
そのようなイロニーは秀才たち
の、英雄たちの、小才子のなすところで、ドン・キホーテはただ気が狂っていて、高貴さにとりつかれ、道に迷い、悲惨で、おろかな取り違えをし、風車につっ
こむのだ。人間は由来愚鈍なもので、その愚鈍さや小心な悲願が道徳や奇妙な保身に傾いたところで、どうしてドン・キホーテがそのような偽善を、このんで攻
撃するだろうか。かれはただ悲しげな顔をするに違いないのだ。かれの高貴さはこの世の不正とのあくなきたたかいを飽くまで決意しているところにあるので
あって、特定の理念や道徳や主義を信じているところにあるのではない。ドン・キホーテはみずからも例外ではない、ニンゲンテキナコトハナンニヨラズ、ワタ
シニトッテムエンデハナイ、ということを身体から識っているのだ。ドン・キホーテは正義を求めてうったえるのであり、けっして、正義のもとに裁いたり、正
義の名の下に語ったりはしない。
……考えてみれば、人間という理念はすっかり道徳へと変わってしまったかのようだ。ヒューマニズムとい
う言葉が発音される度に、道徳の臭いがしてしまう。しかし、ルネサンスにおける人間主義とは、人間を神や天使や聖人といった理念に、理想型にあわせ、そこ
からさばくのではなく、人間がげんにそうであるもの、そうであることを基盤にすべきだ、それがどれほど混乱しアナーキーであっても、ということだったはず
だ。人間の現実とはだから特定の理念ではなく、固定した内容であるべくもない。だから、本当は、人間的である、というのは、ほとんどなんの意味持たない言
葉であるか、あらゆる愚劣や残酷さもふくめて高貴さも含めて、内容とはいえないようなアナーキーを意味するか、どちらかでしかない。ところが、人間的とい
う言葉には内容が生まれ、それはひとつの「理念」となる。理念に対抗する現実の無秩序さを意味する言葉が、やがてひとつの理念に、つまり固定した内容を持
つようになってしまった。
しかし、むかしもいまも、基盤にすべきは、人間的現実、あるいはそのような冗語をせず、現実、現にヒトがそう
であるもの、ことなのだ。理念に対抗して、そこから、道徳も倫理もつねに試され、殺され、生み出され、愛され、ほっされなければいけない。人間的でない人
間なんて言葉、ほとんどジョークだ。
……それにしても、「国民はそんなに馬鹿じゃないですよ」なんて自己の主張の後ろ盾に不確定であい
まいでいいかげんな無名の大衆を持ち出すやつの品性の低さはいうまでもないし、「民度の低い国民を啓蒙しなくちゃいけない」なんて言い出すやつの傲慢さは
本当に腹が立つ。この二つの態度はべつに両極端とか、その中庸がいいのだなんてとぼけたはなしではなくて、全然、同じ種類の愚劣さなのだ。他者をかってに
集団化して、しかもそれを自分の物差しで毀誉褒貶する。ひとつの組織や、意志の疎通、利害の共有なんてものをもってない人間集団がひとつの意見を持つわけ
ないし、もったとしてもそれが表層的でメディアと相関的な軽薄なものであったとしても文句を言われる筋合いはない。そのことと個人それぞれが、その自らの
必要との、自らの利害の関係で持つ聡明さとはなんの関わりもないのだから。まして、かってに奇妙なゼリー状の仮想的な集団の一部にされたうえで、その質を
勝手に他者の基準ではかられて、いったいそれがなんだというのだろうか。
03/24 4th
書き込みと雑記の違いということをしばし考えて、といってもなかなか持続しないので、というか最近私は自分の記憶力のなさに愕然とすることばかりなのだ
が、ぼくはおそらく、書き込みやメールとこういう雑記のまとまった文章では書きざまが全然ちがう。
いや、全然というのは虚言だ。
しかし、演壇に立って語る言葉と、部屋の中で二人で話す言葉は違う。ぼくはこういうところで書くことばは演壇に立って語る言葉の一種だと感じているのだと
おもう。あるいは、このことは標準語の書き言葉の形成史のからみの問題なのかもしれないが、もともと書き言葉と口語の間には、こういう齟齬が根っからある
はずだ。書き言葉は、口語とは、状況を異にするからだ。筆談に使われるような特殊な場合をのぞいて、文字は、はじめおそらくは墓碑銘、あるいは記念碑など
の銘文としてはじまり、記録となり、公用通信となり、やっと手紙になったようなもので、いずれにせよ、口語とは、つかわれるシチュエーションがそれぞれち
がう。しかし、書き言葉は、口語を、シミュレートする。だから、仮想的に、口語が持つ対話状況が設定される。でもそれは実在しないか、書き言葉そのものの
使用状況とは違うものだ。
たとえば敬語、たとえば時制、たとえば話者と聞き手の動的な反応の言葉へのフィードバック、こうしたものは基
本的には文字には欠けているけれど、書き言葉が、口語の、文字化であるというフィクションによってなりたっているかぎり、そういう要素が、本来、書き言葉
固有の必要とは関係なく、這入ってきてしまう。
だから、話される言葉を基準にして考える限り、文字の言葉は、(そして指摘しておくと、
必ずしも文字言語は音価を持つ必要はない。いいかえると、発音可能でなくていい。手話をみよ)、語り手と聞き手というものを、どうしても、仮想的な、架空
の人物として、あらかじめ、実際の状況、実際の語り手、実際の聞き手とは無関係に、文章のなかに、あらかじめ含んでしまっている。
言葉
を発しているという意識と、文字を発しているという意識はけっして重ならない種類のもののようにさえ、だから思えてくる。ある意味で、書き手は、ずっと、
リアクションと書くことの時差、断絶をうけいれることで、書くことを考えてきたのだ。結局、「わたし」が書いているのか? という疑いはこの段差のなかに
すでにはらまれているのかもしれない。録音した自分の声はあきらかに他人の声だし、この代作的な状況のなかでは、モデルとして相応しいのは手紙なのか遺書
なのか、あるいは発掘された碑文なのか、迷わざるを得ない。
それでも、紙媒体よりもはるかにはやいレスポンスでリアクションをとらえる
ことができ、かかれたものも電子情報に過ぎないから、はるかに可塑的だ、という状況で、意識が変わらざるを得ない、というのも本当だとおもう。実際、技術
的、物質的状況では、こういうテキストと、チャットでの発言を区別するものはない。しかし、チャットでの発言を、こうした、時差、断絶においてとらえるひ
とはいやしないだろう。もちろん、そこにだってあるはずなのだが、それをいえば、あらゆる言葉にそれはあるので、意識の、自我の延長としての言葉というよ
うな、透明な通信の観念はもちろん、無理だ。
じゃあ、なんなんだ、ということになってくる。結局、ぼくは、それが言葉を発する瞬間を押
さえない限り、幽霊、フィクションの側面をいろこく残す、ということになるのだとおもう。どんな文章でも、どんな実話でも、どんな実名が頻出して、感情が
リアルでも、全体を、鍵かっこでくくって、と、かれはいった、と書き記す、という単純で暴力的なまでに形式的な操作をするだけで、お話になる。
勿論、それでも、その現実的な効力は変わりはしないかもしれないけれど、そのことが、実在性の保証人になれるわけではない。当人の証言など採用できるもの
ではないのだ。とはいえ、現実的な関係において、文面に露れない次元の実際のやりとりにおいて、そのような、テキストが、実在の一つの主体の言葉だと、そ
こから逆算してひとりの「人間」を想像してよいのだと考えることは実際、可能だろう。けれど、それはそのテキストそのものには関係ないことではないだろう
か。
どうせテキストがどのようにもよまれうるのであれば、わざわざ、そのことを意識した書き方をする必要なんて特にないではないか、というふうに考えたと
き、だからわたしは決して二人称のメディアではできないことをしたいのだ、とこたえるしかない。
それはかならずしも小説に限ることではないだろう。たぶん、電子通信の技術は、演壇ではなくて、口コミで言葉を伝える技術なので、本質的には、そういう意
味で、ぜったいに、二人称の言葉が優勢になるのは分かり切っている。だから、広場の必要、というものを、きちんと考え直すことが、ぜひとも必要なのだと、
ぼくはおもう。
03/24 3rd
T-Timeというソフトがあって、そういえばAdobeも電子ブックリーダーを出
してるみたいだ。しかし、本筋としては、テキストファイルを処理するほうがいいのではと思うんだけど。独自規格をいろいろ出して、それはそれでいいんだけ
ど、書き手に負担がかかるんじゃ。マーケットベースだけを考えるならそれでいいだろうけど。いや、というか、簡単な変換ソフトもつけてほしい。というか、
規格はグラフィカルな指定はスタイル付きテキストくらいで、それ以上のことは読者が、ローカルで好きな見かけで、という方針がよいとおもう。だから、
xhtmlみたいなやつで、あるいはいっそ、htmlをさらにタグ減らしたやつで十分じゃないかと思うんだけど。
それから考えるのは、
Gnutellaみたいに、ebook
readerとp2pのファイル共有機能を統合したやつをオープンソースでだれか開発してくれないかしら。暗号化もしてくれるとなお吉。小説のサーチエン
ジンはたくさんあるけど、そういうんじゃなくて、ローカルのテキストの共有という形にしたい。で、そのうえで、サーチして読む。たくさんのひとがローカル
に有ってる作品はヒットしやすいから、声望が反映すると思うし。
勿論、音楽ファイルとちがって、異本の問題が強力に出てくるだろうけ
ど、それはオリジナルurlがどこかっていうのは、すぐ流れる情報だから、実際にはそれほど紛糾しないとおもう。自分のテキストの異本を他人が書くのはい
やだ、というのはだんだんなくなってくる感覚じゃないかなあ。
結局、口コミで、テキストが、流布するルートって、メールよりも便利な形
にして(ましてチェーンメールが禁じられているネチケットのうえでは)つくるにはそうるしかないんじゃないかな、とおもう。分散化したネットワークで、だ
れもが見るサイトとか、そこに載るテキストっていうのは、どうも、さきがないような気がする。
03/24 2nd
エ
ディタとアップルスクリプトで更新できるようにする。やはり文章はエディタで書くのとそうでないのとでは、とくにスペックが低いパソコンだと反応がまった
く違う。そのうえ、確認もテキストベースのブラウザというありさま、本来、文字だけなら、描画時間はともかく、転送速度ではかなりたくさん一ページに載せ
られるはずなのだ。絵なんか費うのは正直、勿体無い、というのは間違った考えだろうか、どうせ、わたしにはデザインの才能は破片もないのである。どうも、
二次元の把握に難があるみたいだ。右脳が壊れている、という評判もある。
しかし、どうもアップルスクリプトは覚えにくいというか、感覚
的に不便な感じがする。往古、ポケコンでbasicに入り、すっかりわすれたころにRubyやJavaをかじった人間にとって、アプリケーションに命令す
る、しかもアプリケーションごとに違う命令で、というのは、なんか、やたら面倒なんじゃないかと思ってしまう。言語はどっちかというと、OSに命令するも
のだ、という感覚があるからかもしれないし、ユーザーインターフェイスがdisplay
dialogとかつかわないと変な感じがするからかも。というか、applescriptも、標準入出力があれば、ぼくにはわかりやすいんだけど。うー
ん、というか、型がたくさんあってわけわからん、というのが一番おおきいか。あと無理に自然言語にちかづけた文法なのも気味悪い。いや、正直に、コマンド
ラインのが好きだというべきか。
もっともオブジェクト指向ではあるんだから、わかりいいはずではあるんだよなあ。イテレータとかあるし。しかしRubyのわかりやすさとか、Javaの
便利さの方が好きだなあ。もっとも、ぼくの環境ではJavaって重すぎてなんにも苛苛してつかえないんだが。
(OSXのせいで、macruby が開発継続とかされないだろうしなあ。mpw
ruby とかないかなあ。perlは結局ぼくには文法が未だにさっぱりわからん。省略大好きというのも、まともな文法の設計だとは思えないし……)
あ、あとLispも考え方がシンプルでわかりやすくて好きだけど面倒なのであきらめた。
ていうかCは?
まあ、なんのかんのといっても、rubyでせいぜいテキスト処理ができる程度の能力しかないので、えらそうなことはいえないのである。
03/24 03/23の続き、というか書き直し。
「何から語ればいいだろうか、と彼女に尋ねたのは三日前の夏、教科書の日々、暑苦しい図書館の窓際で向かい合った、語るべきことがほんとうにあるの?
と反問されて、自殺したい気分になったことは紛れもない」
目が覚めると電話が凛々と啼いていた。糞っ、春だってのにひとを犬みたいに追い回しやがって。苛苛したというにはまだ足りない夢見心地の不機嫌で起きあが
ると、重い水を振り払うように頭を振って受話器を取った。受話器は死にかけの羊のような頼りなさで、冥界通信かと思うほど声は遠い。何度か聞きかえして
やっと相手は分署のライデルだと判った。すると、またくだらない汚れ為事をママに預けて自分はぐっすりおねんねしたいというわけか。おれは急速に立ち上が
る自分のなかの職業的偏執狂性向に身をゆだね、身支度をしながら委しい事情とやらを聞き出した。
室内は夕暮れとそっくりの朱さに腰まで
浸され、始まるべき日中を想像することさえ困難だった。ゆうべ脱ぎ捨てた衣服が彼方此方に散らばり、前衛芸術家の欣びそうな完璧なフォルム。壁にはヤク中
の探偵を真似て打ち抜いたVRの文字、廉い女優の心づくしの笑顔を張り付けたポスター、そして過ぎ去った事件や過ぎさりはしない記憶を証言するメモ、写
真、そして染みたち。これぞ、ラ・ヴィ、それも薔薇色の日々というわけだ。
地獄の鬼婆のまぎれもない私生児ライデル・フォートワースが
なげてよこした腐りかけの餌についていたトレード・マークはその名も高きエンディミオン・インク、お決まりの汚職がらみだった。タウンの首根っこを押さ
え、全米の化学産業のトップテン・チャートには常連のこの複合企業の研究員の死骸が、ザ・リバーの左岸に風船みたいにふくれあがって見つかったのがそもそ
もの事の発端だった。そいつの名はすぐに警察の連中の地味な働きで判った(ご苦労様)、繊維合成の研究で飼われていた「秀才」ランドルー・ハロー(28)
は前日までうきうきでまわりの不審をかっていたらしいが、やつがどんな汚職に手を染めたのか、「残念だが」(ライデルらしい言い回しだ)、警察はかけらも
つかんじゃいない。
だが、核心はそこにだけにのぞいてるわけじゃない。ライデルは芝居掛かりで声を潜めると、タウンのおそろしくふるく
からの富豪バーンズの一人娘ディミーがその死んだ研究員と会っているところを見たものがいるとおしえてよこした。ディミー・バーンズといえばこの町では箱
入り娘の代名詞で、金持ちの男どもときたら、その名を聞いただけでとさかをおったて角つきあわせる始末。醜聞に発展するかどうかはさだかではなかったが、
ライデルの口調はどうも複雑な事情がからんでいそうだと俺につげてあまりあった。
おれはこころから退屈しながらライデルとパーセンテー
ジをたたかわせ、卵焼きを焦す直前であやうい合意を作り上げることに成功した。まったく、やつがパーセンテージと口にするときの上品ぶった口調といった
ら、エリザベス女王にも負けない潔癖さで、むしろ愉快になるほどだった。
ザ・リバーは不気味な川だ。この町の真ん中を流れるけっこうな大河のくせに、葬式のとき以外、だれもその存在すら認めようとはしない。だから、おれはま
ずここに来ることにした。蒼白の空にはあつらえむきの鴉ども、黒い川にはいまでも死骸が流れているかのようだ。
03/23
とりあえず、体裁変更。
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2002年3月17日(日) この日以前
これ以前はこちら。
http://www.enpitu.ne.jp/usr3/30470/
2002年3月18日(月) 利子・インフレ・憂鬱
利子というものをむかしから納得できないでいた。利子の分の実質的価値はどこからわいて出てるんだ? もしどこからも出ないんなら、利子分だけインフレが
ゆるやかに持続的に進行してるってことにならねえか? というわけで、それはたぶん、粗雑な考えだけど、文明による生産性の進歩と、人口増加で、地球総体
の価値がふえてるからだろうと。いうことになると、この「歴史」そのものの関数としての価値増加分を、なんで金を貸してるやつに還元しなければいけないの
か、よくわからない。借りた金でもうけたら、なにがしかは貸したやつのものだ、というのも、理由がよく分からない。いや、もちろん、借りるときそういう約
束をしたからだが、なぜそういう約束が、もっとも経済的に正当だとみられているかがわからない。
もちろんいろいろとご批判はあるので
あって、価値は相対的なもので、そういう実質価値とか使用価値的な還元はおかしいというのはあるだろうけれど、ある時期をとったときの、額面と、それで買
える生活の便宜とのあいだのだいたいの関係というのは、やはりある程度は規定できるんであって、利子というものがそういう意味での増加分と関係してるって
いうのはいえるような気がする。
ようは利子のふつうの説明は、寝かせておいた場合に「損した」、とれたはずの運用利益を還元ってことだ
とおもうんだけど、しかしね、投資してたら儲かったはずのお金をもうけられなかったのは損だ、という考えはぜってーおかしいじゃん。儲かったはずのものを
もうけられなかった、というのは損ではなくてプラマイゼロだ。成長しないのは不景気なのか? ゼロはゼロであってマイナスではない。捕らぬ狸の皮算用を標
準として考えて、その分を損したなんて考えるのは、おかしい。
利子の問題はさらにあって、かけ算だということだ。かけ算ほど、よくよく
考えると不公正を促進してるものはない。金持ちの一割と貧乏人の一割を比較するだけで、あるいは一億に対する複利と、千円に対するそれを比較すれば其れで
いい。しかし、かけ算である必要はあるのか? なぜかけ算なのか、この問いの素朴さにひるまずに検討してほしい。それで肯定的なこたえがでても、決してそ
の思考は無駄ではないはずだ。
もちろん、利子もまた需要と供給の関係で決まってるので、それに、考え方が可笑しいなんて批判の仕方はお
かしいというふうにもいえるのだが、まってほしい、お金は自然な総量というのがない。額面はいくらでもふやせるものだ。したがって、精確な意味での需給関
係なんて言い方はできないはずだ。自然的な限界がないんだから、制度的に其れは決定されるのであり、経済の古来の原則みたいにはいえないはずだ。
おかねのがくめんがふえると、それにつれて、ただ全体的に比例してふえるのではなく、なぜか資産分配の不公正が拡大する。なぜなのか。それは単純に政治や
制度の不公正の問題なのか。あんまりそうはおもえないな。それはつまり広い意味での利子という仕組みがあるからではないのか、という気がしてならない。
というか、こういうことがそれなりに重要なのは、成長を前提にして、成長しないと生活が苦しい制度はおかしいというか、今後実用的ではないということがあ
るからだ。かならずしも、経済規模が成長しなければ、生活が苦しくなるとはかぎらない。成長しないと生活が苦しくなるのは、利子の分を払わないといけない
制度になっているから、ではないのか。もちろん、ずっとひろい意味で利子と呼んでいるんだけど、走らないと倒れる経済制度をあらためないと、外部の、自然
環境や、イノベーションの速度が落ちるとき、どうしようもなくなるのは見えてるじゃないか。
持続可能な開発というのは、むしろ開発という言い方ではなくて、存続可能な文明というふうにいうべきではないだろうか。
2002年3月18日(月) いつだって憂鬱は深いのであって。
暗い森を想像して、そして想像したことを忘れよう。そうすると、ぼくはいま、暗い森にいる。暗い森のなかで、ぼくは不安にさいなまれる、置き去りにした事
柄が自動的に進行していくのをかなしんで。というよりも、そのときのぼくの恐れは、そうした意識の外の何かがブーメランのように帰ってくる、そのことだろ
う。そして暗い森はそこにあり、変わりはしない。
どうにも、処置のしようのない憂鬱というのはあるのであって、それは取り憑かれるとい
う言葉がいちばん、相応しい。逃げようがない。それは世界が勝手に進行するからだ。勝手に、とか、自動的に、という言葉を用いることが確かに甘ったれてい
るのであって、私はそういう進行の一部であり、そして僅少の一部であるというなどのことが、そういうふうに思わせているに過ぎない。
し
かし春はひとにそういう憂愁を過大に思わせるのだけれど、ともかく、好きこのんでこのように存在しているのだし、このような自己であることに、少なくとも
意志を持って生き抜くことで答えなければいけない。ひとは矜持を持つべきだし、それはむしろ、よりよく生きたいというのはただ、生きることのシノニムだか
らで、つまり、まだ何かに恋いこがれ、無名のものの生誕を信じるならば、それだけでもながらうべきだということだ。
だが、やはり返す返すも大げさに過ぎるのであって、ともあれ、ああ、何度ぼくはともあれと書いていることか、通信は夢の残滓にまとわりつかれていて、伝
えようとしている意志さえ曖昧だと、ぼくはそれでも叫ばずにはいられないのだ。
世界が妄想化している、というひとがいる。勿論、世界の一握りの「文明国」でのことだ。生活の最低のニーズが足りない現実と平行して、妄想がシステマ
ティックに現実の進行の原理と化している場所がある。妄想は個人的原理だから、分裂は必然なのだが、しかし妄想である限りにおいて、やはり大きなシステム
が成立してもいる。ここでの不均衡は、妄想同士の交通不可能性を利用して、自己の生を決定する範囲、すなわち権力を保持するものがいることだ。だが、むし
ろ特定の悪人を想定するのは陰謀論だろうか? ともかく、問題はだから、妄想同士の通信途絶だ。
いかにして、個人的妄想同士を通信させるか、そしてしかもそれを、ひとつの巨大な幻想への帰依から救い出すか。個であることの必要と協同の必要をどのよ
うにして組み合わせるか、そしてなによりも、言葉の、通信の、そして物語の通信途絶をどうするかだ。
萌えというものがどういうものだか興味もないが、しかし読み手と書き手の依拠する物語のプロトコルが違うとき、どのようにしてポータビリティを確保すれば
いいのか。なんらかのヴァーチャルマシンが、トランスレーターが必要なのか。人間であるということの共有、そして同じ現実を生きているということ、この二
つは最低限、希望を確保するけれど、同じコードでかかれているとはいえないのかもしれない。
2002年3月18日(月) そういえば。
いろいろ移転していそがしくて申し訳ない。
ぼくはどうも、落ち着きがない。
いちおう、引っ越したら、まえのアドレスから
跳べるようにいつもしてるんですが。
ちなみに、自分のcgiなので、日記と云うより、
がんがん雑記・メモ・ノートっぽくなる予定。
2002年3月18日(月) びっくりした。
リンクを徘徊して、ブックマークをスリム化しようと努力した。それで、保坂さんや佐藤亜紀のページを見つけたのだが、というのは本人のウェブで、読んであ
る程度内容のあるものをおいてあるとこはすくないので、とくにファンだということでもないのだが、それはともかく、星野智幸のページにいってちょっとびっ
くりした。つまらないのである。日記が。というのは、なんといったらいいのか、気の利いた日記サイトレベルのことが書いてあるだけで、それは作家に小説以
外のことを期待してはいけにゃあのかもしれないが、やはり、ちょっと、驚いた。まあ、もともとそれほど評価してる作家ではないということもあるんだけど。
マルケスの愛読者としては、ちょっとなあ、と。
ていうか、トップに写真載せるのはどーなんだろ。
2002年3月18日(月) 鈴木クン・アシンメトリック
タイトルは韻がよかっただけ。鈴木宗男について語る物言いはどうも退屈になる傾向があるみたいだ。叩くか、叩いてるやつを批判して、もっと本質的な改革が
必要だ云々。どうも、そりゃあそうなんだが、どっちも、誰もそれを云ってないならともかく、そのあたりについては、そらポピュリズムの危険とか、ある程
度、そうそう浅いレベルでは共有されてる認識なわけで、(しかも共有されてる割にはうたがわしい)個別的な相手がいるならともかく、一般論としていまさら
そんなことを指摘していったいどんなオペレーションをおっぱじめようというのか。もう少し気の利いたことをやってみてもいいだろうに。
たとえばいろいろ文脈はふれられてないところであるだろうし、政府開発援助と日本企業と経済的植民地化と開発独裁の関係とかのほうが、鈴木クン個人だけで
いうよりもおもしろいのだし、だいたい、ソンドゥ・ミリウがどういうダムで、どういう問題があって、なんで日本の議員が他国で影響力をふるえるのかという
と汚職云々以前の不正な構造があるんだし、外務省がこんなにごたごたしててもうまくいくのは、そもそも日本が外交なんかやってないからで、外交なんかせず
に社交レベルですんでるのはなんでかとか、地域経済の活性化というのはたしかに大事なことで、というよりも与えて自立させないと云うのは政府開発援助と
まったく構図が同じなのであって、沖縄北海道は少なくとも経済レベルでは植民地扱いなわけでとはいえ十人に一人が東京に住んでる日本という国で、過疎がが
んがんすすんでて、製造業が人件費がやすいとこにいき、そしてホワイトカラーの生産性が上がって人数が少なくてもすむようになる、ということは、植民地で
も持たない限り日本人のかなりのパーセントは職がなくなるのは避けられない。よっぽどワークシェアリングでもして、所得の平均化をはからんと職がそうそう
無限に創出されるわけでもないんじゃないの、ということだ。もちろん、ひとつの完結した経済圏は、職を十分につくれるだろうけど、日本一国では完結した経
済圏ではないので、国際分業において、職がほしければ、物価が安い国に日本人もいかなきゃいけなくなる、ということはおこりうる。人件費は物価水準と連動
してるんだろうし。つまり、問題は、貧しくてもそこそこ幸せに暮らせる、という社会ではなくなってきて、そこそこ幸せに暮らすために必要な、ミニマムな収
入がじわじわとあがってるってことでは。そのせいで、中流がこわれていくと。
しかし・・・シンガポールやスイスみたいな国になるのは、じつはあまりねがわしいことじゃないな。
結局、議会情勢はかなりの部分、結果であって原因ではありえないのだから、ましであるにこしたことはないが、ショーとしてみてしまうのは、それなりに健
全ではある。と、おもう。投票の時だけ主権者である、といわれても、やっぱりだまされたような気になるよなあ。
2002年3月18日(月) ここがロードスだ、ここで跳べ!
馬的思考日記
<引用>俺の私見。小説を書く上でもっとも重要なのは、小説内部における何者かの視点を我が物にして、そこから見えるものを他者のために記述する能力だと
思う。読み手の想像力の上回りながら、理解の範疇にとどまるものでなければならない。理屈は簡単だけど実行するのはとても難しい。</引用>
視点を構成するということは、なにもカメラとかそういうことではないんだろう。ひとつの有機体があり、その意味があり、その評価があり、その情態、アフェ
クション、受動性がある。ある有機体にとって、水は怖い。そのことは貫徹する。欲望があり、それがむずかしい。欲望の少ない人のことを欲望の多い人は理解
できない、と俗に言う。
予測できないもので、事後的にはあたかも予測できたかのような。それはある意味で、教育的なことなのだとおもう。しかし、それはひとつの構成されたあれ
やこれに適応させるってだけのことなんだから、一般ではないので、役には立たない。
メディアになるということは、そう云えばすむということではなくて、ここに介在する三人、語り手、語られ手、聞き手のあいだの人格の通信、視点の手渡し、
翻訳をしなきゃいけないということで、それはやっぱりそれなりに、語られざる部分が構成されてることはいっぱしに必要だということだ。といっても、動機と
かはそれほど説明できるもんでもないので、説得的で、偶然的、という意味不明なかるわざがいる。
とはいえ軽業にだって方法論というのは当然、あるので、正直突き詰めて、それでなぜうまくいくのかきかれて、答えられるかどうかはべつのはなしとしても
いい。
ドスト氏とかそれをほめたたえるバフチンとかがふるびない部分というのは、どうしたって他人が出てきて、他人らしくふるまわないと、話が成り立たない、と
いう面があるからで、といってもそれは他人全体ではなくて、他人の断片とか他人のものであるイメージとかでもいいんだけど。あらゆる小説はトラベルガイド
で、あらゆる小説は推理小説だから、それでドスト氏で押すと、「からまーぞふ」の冒頭でこれから語る人物が語られるに値するかどうかは分からないが、的な
序言がある。結局、そういう意味での説得だ、という面が小説にはあるので、かならずしもそれは魅力的な人物を出せ、という一般論にはいってしまうことでは
なくて、人物の側に魅力がなくても、小説がそいつを重要にしてしまえばいいのだ。そしてやっかいなことに、こいつは重要だと云っただけではすまないのであ
る。
ぼくが中学生の時、純文学というもののイメージに反発したのは、つまんねーことを口八丁でさも大事そうにもってまわるけど、けっきょくつまんねーことだ
と、作者の自称を相対化する視点をみんななくして血迷ってんじゃねーか、と思ったからだ。
だから問題なのは、重要そうに思えるように説得するだけではなくて、むしろそれが本当に留保抜きで重要であるアスペクトをつくりだしてしまうということな
のだ。演技ではなく、というより、演技のくせに舞台から飛び出してしまう回路を持つこと。しかしそれはべつに社会問題へのコミットとかそういう形ではない
ので、だいたいそうなってしまうと、もう、軸足は、外部のことにうつってるので、それならはじめから小説である必要は別になかったのだ。
しかし、重要って何だ?
2002年3月18日(月) つまらないことだけど。小走りの森で。
レイアウトを変えて気がついたのは、どうも私は文字がびっしりとならんでいると安心するたちらしい、ということだ。因果な話で、どうも長所というよりもこ
れは欠陥に違いない。それでも、どうも短い文章というのは、思いつきからなかなか出られないもので、若気の至りという雰囲気がどうしてもつきまとう。と
いってもそれは大部分、自分自身限定の話だ。
小走りの森で、というフレーズが気にいって、しかし思いつきというのは、月並俳句と同じ
で、どんなにブリリアントでも、あまり誉められたものではない。というのは、まだ自分自身になりきっていないからだ。記号は展開されなければ月並みな意味
しか持つことができない。展開されるということはつまりほかと接続されるということだ。
だいいち、森が、木々を指すのか、人を指すのか
さえ定かではない。村の外れには地蔵があり、ねえや十五で嫁に行く。旅芸人の男が娘と地蔵の前で待ち合わせし、疫病で死につつある人々の前では地蔵は無力
かもしれない。だが、生き延びた人にとっては無力ではないだろうけれど。
地蔵が誰に似せて彫られたかというのもひとつの話をなすだろうけれど、しかしどうもこれはあまり気色のいい話ではない。形を残すというのはどこか未練な
ところがあって、執着のそしりを脱し得ない。
学校の教師は標準的な都会との接点で、だから軽んじられて尊敬される。そういえば日教組の小学校の先生は山にとばされた。君が代を歌わないとき、彼女のこ
とをいまでも思い出す。そうはいっても森でプロパガンダをどんなに唱えてもいきつくところは「悪霊」で、耳を澄ませば取り付くものたちの気配さえなまなま
しい。
あぜ道には自転車が乗り捨てられていて、溝に、人型の紙を流す。
もう一度あおうな、そういって誰かが戦死するのだ。
そして、リターン、突然、目が覚めれば高層ビルの誰もいない会議室で寝ていて、自分がこのストーリーでは曖昧ながら悪役に違いないと悟る。そして、誰か
をくどく。
夜が何度も繰り返し、しかし、森は去って行きはしない。なんのメタファーでもないくせに、やけにしつこいイメージ。
名も知れない、幼い頃にたまさか通りすがった少女の、表情のない顔。
絶望をどうやって伝達すべきかが自分のテーマであると、かれは悟るのだ。
2002年3月23日(土) 旅愁が喚く、落下
「何から語ればいいだろうか、と彼女に尋ねたのは三日前の夏、教科書の日々、暑苦しい図書館の窓際で向かい合った、語るべきことがほんとうにあるの?
と反問されて、自殺したい気分になったことは紛れもない」
目が覚めると電話が凛々と啼いていた。糞っ、春だってのにひとを犬みたいに追い回しやがってと苛苛したというにはまだ足りない夢見心地の不機嫌で起きあが
ると、重い水を振り払うように頭を振って受話器を取った。受話器は死にかけの羊のような頼りなさで、冥界通信かと思うほど声は遠い。何度か聞きかえして
やっと相手は分署のライデルだと判った。すると、またくだらない汚れ為事をママに預けて自分はぐっすりおねんねしたいというわけか。おれは急速に立ち上が
る自分のなかの職業的偏執狂性向に身をゆだね、身支度をしながら委しい事情とやらを聞き出した。
地獄の鬼婆のまぎれもない私生児ライデ
ル・フォートワースがなげてよこした腐りかけの餌についていたトレード・マークはその名も高きエンディミオン・インク、お決まりの汚職がらみだった。タウ
ンの首根っこを押さえ、全米の化学産業のトップテン・チャートには常連のエンディミオン・インクの研究員の死骸が、ザ・リバーの左岸に風船みたいにふくれ
あがって見つかったのがそもそもの始まりだった。そいつの名はすぐに警察の連中の地味な働きで判った(ご苦労様)、繊維合成の研究で飼われていた「秀才」
ランドルー・ハロー(28)は前日までうきうきでまわりの不審をかっていたらしいが、やつがどんな汚職に手を染めたのか、「残念だが」(ライデルらしい言
い回しだ)、警察はかけらもつかんじゃいない。
ザ・リバーは不気味な川だ。この町の真ん中を流れるけっこうな大河のくせに、葬式のとき以外、だれもその存在すら認めようとはしない。だから、おれはま
ずここに来ることにした。蒼白の空にはあつらえむきの鴉ども、黒い川にはいまでも死骸が流れているかのようだ。
2002年3月1日 (金)