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04/07 調子わるい

 ので、メモ。

 異論を唱えることと攻撃することは違う。 どんな意見もどこかで聞いた意見への反応だ。経験が意見になるのも、経験が別の人の意見への反応によって形をもってはじめてのことだ。経験そのものが意見 になることはない。だから、ねえ、だから、リアクションではない意見なんてないんだし、声の大きな人のせいで勇気のない人が沈黙するのを惧れてだまれと書 くそのことによって、声の小さな人の声も禁じられてしまうと。考えることそのものが、異論を持つことなんだ。

 コンタクトが体力を奪う……

 ベッキーは文句なくただしい。

  理想は食えない。理想を、そのほうがいいからという、まるで、靴を玄関にきちんとならべておきなさいというような、美意識からとなえるやつにはそういうべ きだ。理想なんてそういう意味では下らない。でも理想という言葉がいけないんだ。理想は、それが実現しないと食えない人の立場から云われるとき、ただし い。そして、理想ということばのイメージはそういうものがかけているけれど、結局、ひとつの利害の主張なんだ。ただ、その利害が、公平に見てもっともなこ とだというだけだ。日本語ではなぜ理想という言葉が道徳になってしまっているんだろう。道徳屋が道徳的に道徳の別名として理想と云うことをいってきたから だろう。ぼくはそういう道徳屋がきらいだ。理想は整理整頓や潔癖性の問題じゃない。実際的な必要の有無の問題なんだ。

 正論なんてない。 もしあなたが正論をおしつけられて不快なら、そのあなたが正論だとおもっている議論は正論ではなく、たんに間違っているんだ。だから、なぜ間違っている か、考えるんだ。その議論が不十分だから、偏っているから、現実とあってないから、あなたはうさんくさいとおもったんだ。だったら、そんな意見を、あなた が、さしあたりきいたとき間違いを見つけられなかったからって、正論だなんていうべきじゃない。だってそれはきっとどこか間違ってるんだから。

 批判は言葉に向けてなされる。だから、説得を要せず、弁明を求めない。異論を併記したいだけだ。

 発話行為論からいって、ぼくは語っているのだから、あなたを信用し、愛しさえしている。
 て、本当かよ、オースチン。

 中澤裕子は美人だ。

 「パロマー」読了。

 懶惰の歌留多。

 言葉責めと文学とアナウンサーと、刺青、言葉が自分を描写して、そして性的興奮が循環的に。

 ふらふらする。

 パルメニデスの存在の不動性はアトムの不変性に受け継がれる。そして、これはイデオロギーの原型だろう。
 ものがそれであるかそれでないかどちらかでしかないとすると、変化は存在しないことが帰結だ。

 アイデンティティなんて気にしなくていいなら気にするようなことじゃない。おまえは誰かと始終問われるような場合にのみ、解毒剤として、アイデンティ ティに抗することが必要になるだけだ。はしごは昇ったらはずせ。

 適当。

04/06 ゼノンとかあけがらす

ソクラテス以前の哲学

  ゼノンの逆理は運動とか時間で説明されることが多くて物理系のひとの説明は微分でやってることが多いんだけど、極限で無限小が零に移行する、その移行が哲 学的にどう正当化されるのかに興味がある人にはうさんくさくうつるような気がする。ヘーゲルの矛盾だからおこらないという理屈がおかしい、という言い方の 方が説得力があるかもしれない。この実在的矛盾というのと、微分から出る、制止しているとしても、各瞬間の矢は静止しているにも拘らず速度と方向を持つ、 ということとつながるかもしれない。こういう、時空座標系の位置としてのみ出てくる外的なものとは別の、内在的属性というのは、けっこう不思議。或る瞬間 の全宇宙の原子の位置がすべて確定しても確定しない世界状態……オブジェクトのプロパティ? 「力」とかも不思議といえば不思議な概念だよなあ、そういう 意味では。

 小説を引き続き。でも、ラフを取敢えずということになりそう。どうせ、リハビリめくのは避けられない。明確なもの、という目 標を出しておく。焦点を、ということ。あと村上龍がほめそうな現代病って現代的なのかちょっと疑問になってきた。失業とかホームレスとか外国人労働者と か、町金とか、中小企業とかのが、キテるんではなかろうか。

 サンデーの勝手に改造の「ダメ絶対音感」に爆笑。声優の声に敏感なひとって たしかにいるよなあ。{カラバオ}はやっぱり帝国主義の幻想としての南方幻想について考えさせられる。あと、モブ・シーンにあーるがいない! これは成長 なのかなんなのか。戦後のぬぐったような南方幻想の消失はおもしろいし、満州というファンタジーもなくなって、海岸線と想像の国境の見事な一致。そういう 意味で、「異人」の起源が、戦後は、抽象的な世界になって、幻想化された現実の世界の何処かということがすくなくなったのではないか。

  あと、戦後云々じゃなくて、最近、八十年代のOVAとかとくらべると、アニメも実写も、物語において、ひろがりの感覚がない。つまり、映っているところ以 外にも世界が広がっているんですよ、という、広い場所にいる感覚、がぜんぜんない。まるで、うつっている場所しか存在せず、そこも、うつらなくなったら消 える、というようだ。それは前衛とか、そういうメタな意識としてはよいことなのかもしれないが、やはりまずしいことではないだろうか。つまり、ページは ページでしかないことは分かっているんだけれど、同時に、錯覚しそうになる、ということにも、意味があるんだから。

 パスワード認証のあるWikiをwebmagazineの作成に使いたいのだが、そういう用途ではweblogsというのがあるようなのだが、 shell権限がないのでインストール大変そう。MySQLとかいわれてもこまるよ!(逆切れ)

 明けがらすというのをなにかの名前に使おうと思ったら、しらべてあんまいい含意の言葉でもないような気がしてきた。あけがらす、かあかあ。三千世界の烏 を殺し、にしようか。

04/05 2nd 

 #イーグルトン「イデオロギーとは何か」読了。相対論の風景というのは確かに蔓延してるよなあ。
 #中山元編「発言」読了。テロ後の知識人の発言をまとめたもの。ローティがいやにうち向きのことしか意識してない発言が印象に残る。そんなんでいいの か。あとは「新哲学者」がいかに駄目かも再確認。
 #哲学クロニクルこのMLとか、田中宇の国際ニュース解説、このMLとか面白い。登録御薦め。後者は最近、陰謀史観めいた感じさえ漂ってきたけど、事実 の方がそうなってきているのかもしれない。
 #武藤さんなんかより海堂さんのがどう見たっていいじゃん! ユリコさん美人!

  ようやくまともに食事してすこし思考力が戻る。起きたのは六時頃、それから外食。食べ過ぎて空きっ腹が壊れる。いつものことで、体調が欲している丁度良 さ、というのがどうも体感できない。今日はあたたかい。無駄にのどかだ、と悪態をついてみる。桜はいわれているように散りはじめ、緑とさくらいろのまぜも の、偸まれた春、といった風情。

 書店はかなりやばいらしい。といってるうちに、近所に書店が出来る。どういうつもりなのか。過当競争で どっかつぶれるんじゃないか。不審だ。作家も食い上げが近づいているらしい。そうはいっても、読者が作家のことを配慮する義理はない、というのは本当だ。 ただ、読者が自由競争の原理にしたがっていてもよいものは残るのだから心配ない、というのは市場原理をあまり根拠なく信用しすぎている。市場は別によいも のを残す装置ではないし、競争に勝つ商品が使用価値において傑れているはずだ、というのは、単に事実に反している。古書店も毎日開けているところは減って いるが、他方で新古書店は大繁盛。古書店と図書館と書店とはほんらいあつかう本が違ったから競合しなかったのだが、いまは、もともと減ったパイをさらに相 手の領域に進出して食い合っている。なんだかなあ、という感じだ。フリー・ウェアみたいに、情報ではなく、サポートや周辺商品で利益を出すとか、シェア ウェアみたいに、ものへの対価としてではなく、開発支援費として金を出す、というふうになればいいんだろうけど。もっとも、とりわけやばいのは文芸書で、 実用書はいつだってそれなりの需要があるものだろうし、回転も速いから、問題はない。実用書のことを文芸書がやばいという議論に含めない方がいいとおもう ぞ。ただ、中間がなくなるという流通の趨勢で、書店の存在意義はうすれるだろうとはいえるか。

 ようやくアメリカはイスラエルにそのへん にしとけ、というメッセージを出した。大統領選のたびにイスラエルが強硬姿勢に出るというのはどうも笑えないジョークだ。アメリカのユダヤ・ロビーはもう 少し中立的な判断は出来ないのだろうか。どうも、イスラエルの方が追いつめられているんだ、という論調が一部にあるみたいだけど、そうかなあ、長期的に見 たらたしかにシャロンもブッシュもおよそ実際的ではない解決策をめざしているくせに、大風呂敷を広げたんだから追いつめられているんだろうが、そのことは これでパレスチナ側が打撃を受けないと云うことにはならない。両方とも悲惨な目に遭う、というのでは、どうなんだ。それに、自爆テロをテロリストと呼ぶの はたしかに間違ってるわけではないけど、地元で、占領下にあって、どうみてもプロとはおもえないひとたちが、自己の死をこみにしてやってる「テロ」を、典 型的な、おそらく実在はしない「狂信者・精神病質者」というメディア・イメージの「テロリスト」と同一視するのはおかしい。「ゲリラ」でもあり「レジスタ ンス」でもあり同時に「テロリスト」でもある、そういうそれぞれ価値的なイメージで色を塗らずに判断すべきだ。そのうえで、一般市民を殺してるんだから、 最終的に支持できないのは勿論なんだけど。だいたい、アラファトに統制力がないというのなら、アラファトにテロを制止する責任があると見做すのも滑稽じゃ ないか。

 読書中の「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」でレッズという火星環境保護派と緑化主義の対立が描かれる。これがおもしろ い、というか隠語を使って云えば脱構築たりえているのは、緑化されない火星の自然を保護することは、緑化と対立すると云うことだ。テラフォーミング(地球 的環境の構築)を嫌悪する立場とは、火星のいわば岩石の、死の風景への愛だともいえる。そして、考えてみれば、自然保護といういう概念と環境保護という概 念の間には、こういうするどい断絶が内包されているのだ。天文学的な視点から云えば、生態系は地球の表面の重要ではない部分で、生態系を保護することと地 球を保護することは全然、別個の営みだろう。人間も当然生態系の外部ではないのだから、環境保護とは、生態系の一部としての人類の自己保存なのだ。地球に 優しく、という標語はそうした側面をおおい隠していて、人類対自然という対立を不毛に強調する。そこからは、まるで、環境運動を、宗教的観点から合理的理 由もなく「自然」を、文明や人間の必要に反して保護しようとする運動と見做す観点がうまれる。いってみれば、このように観念された自然環境保護は、レッズ のそれに似ているわけだ。

 ハッカーになるために、という文書、適切に変更すれば作家の心構えにもなるよな。とくに、「心構えは技術の代わりにはならない」あたり。あとは、ハッ クっていうことば、つまり、器用仕事(ブリコラージュ)ってことだよなあ。

04/05 幽霊なんか何処にもいない

rip service 4/3分。
かっこいいことを書くよな。相変わらず。

  ネットには根源的な二つの神話というか、強迫観念がつきまとっている。ひとつは、ネットを通じてだけの友人、とりわけ、ページの管理者が死ぬというストー リー、そして、もう一つは、ネットでの知人、誰かが、突然、ドアを叩くという夢想。存在と不在。いないいない、ばあ。ありとなし。この二つの神話的なイ メージは、典型的な恐怖に由来する。ぼくらは相手の存在を確信できないし、ましてや不在も確信できない。相手が遠くで存在することを信じることも危うい し、近くに存在してはいないことを確信することも難しい。

 しかしどちらも冷静に考えればおどろくほどレアケースだ。一生のうち、そうい う実例に身近で出遇うかどうかもあやしい。にもかかわらず、どこかで、この神話は、たしかに無意識に存在しているようにぼくには見える。両極だからだろう か? だから、こうした神話は生のままではお話にはできないが、ここから出発することは出来る。だからこそ、ネットでの死者のリアルでの実体を探しに町へ 出る。というストーリーがそれなりに、原型的であり得るのだとおもう。

 さらにたとえば、こんなストーリーを夢想することもできる。むか しのネットでの知人が、それと知らせずに、名を変えてすでに出遇っている、と。こちらのケースはかならずしもレアケースといえないかもしれない。ROMと いう立場はたしかに幽霊の一種だし、そこにはかそけき物語の可能領域がある。そして、日本の古典芸能の伝統では、「勧進帳」のように、なりすましや「やつ し」、そして、相手の正体を知りながら、そして知られていることを知りながら、建前を共犯的に裏切る演技、という人情ものがひじょうに好まれていることも 想起していい。

 wwwの一般化以前、そして知られはしていた頃、ハッカーは反体制の物語学にとって、デウス・エクス・マキナの役割を果 たした。「運動」が体制顛覆をなしうるという確信が退潮するにつれ、そうした少数のウィザードによって、「逆転満塁ホームラン」的に、一足飛びに勝利が得 られると語る物語が増えたのだ。このことはユートピア的希望を表現していると同時に、やはり、ニヒリズムを秘めていた。

 八十年代、独立 国ごっこが町おこしではやり、それはまたテーマパークの時代でもあり、また、同時にネット上での仮想独立国がはやった時期でもあった。いまそれらの諸国、 夢想の中に消滅したイメージたちはどこへ消えたのだろうか。ひとつのコミュニティを創設すること、そして、就中、その神話を構成すること、それはとても興 味深いことだ。(中学生のとき、おおくのひとはファンタジーランドの地図や歴史、言語や神話を構築しはしないだろうか。あるいは、憲法を)

  ネットが世界へ向けて公開することだ、という言い方は、実感として信用を失墜している。しかしそのことには目をつぶって、それをいまでも信用しているよう に語られる。いまでも、ほんのすこし、その気さえあればたしかにそれは世界にむけて公開することなのだが、地縁をネットが超越しているからと云って、ほか のすべてのローカルさを超越しているわけではないのだった。顕著なのは、言語である。英語で読み書きを世界中の人が出来るなら、たしかにネットは実質的に たちまち地縁を越えるだろう。しかし、それは期待できない。また、ポータル別のローカリティもある。つまり、私たちは壁のない広場にいるが、知り合いとし か会話をしないのだ。

 結局、ネットの遊び方には人々は熟達したかもしれないが、そうして形成されたアイデンティテイや人脈を、それ以外 の生活に環流させ、関係させる手だては、わたしたちはまだ修得していないのではないだろうか。ネットでのおたがいに匿名の秘密結社、というような陳腐な妄 想ですら、ほとんど現実化していない。ミステリーではたまに交換殺人のアイディアとして出現するけれど。

04/01 ペルソナ・ノングラータ

/* とりあえず、テキスト庵、ローカルな話題から。リンク先はすべてここ数日の日付を参照。
うだうだ帳
テキスト風聞帳
茶処
テキスト風聞帳という他所の日記にコメントをする場でのぼくの評について、後始末。
「うだうだ帳」へのぼくのコメントは、正直、あんなものいいをする権利はなかった。一方的だったとおもう。
調子に乗っていた側面もあると思う。そういう意味で、過敏でありすぎた。
他方で、擁護論一般を感情論で否定している、という読みが十分ありうる書き方だったという考えは変わらない。
(もっともこれだって弁明としていっているので、いまなお反論すべき立場の所有者と見做しているというわけではない)
と、同時に、排除蔑視を肯定している文章と見做し、名ざしたことは間違っていた。
その点を明確にする必要はあった、という点で、補足を引き出した点でも、無意味だったとは思わない。
が、まさにそうであれば、そのような指摘の仕方をするべきだったが、コメントはそうではなく、曖昧で一方的だった。
その点は弁護の余地はない。

なお、とりあえず別の話だけど、ここの、
泥炭
意見はぼくは過度の一般化というか同一視、というか相対主義があるとおもうけど、こういう視点をきちんと前提にして、そのうえでちゃんと反論できる議論で ないと、あまり信用できない、という気もする。
*/

 イーグルトンの「イデオロギーとは何か」を読んでいる。むずかしい。というか、難解というより、こんぐらがっているので、追うのが大変なんだな。追いさ えすればシンプルな議論なんだけど。

 小説を書く。甘い恋愛小説にしたい。そんな気分だから。

2002年4月1日 (月) 




安吾論


 目次

 序論

 第一章 「風博士」 速度と変身

  第一節 変身

  第二節 分身

 第二章 文学論に於ける女性の位置 「ファルス」と「ふるさと」

 第三章 「白痴」に於ける女性像

 第四章 説話小説の展開

  第一節 説話形式の生成

  第二節 説話形式の意義

 結論 


 序論

  坂口安吾が小説で書く文には断裂があって、しかもそれは高揚した調子の時にも隠すことができない沈鬱さによって裏打ちされている。そのきれぎれの文の隙間 の空白は、かれの書く文が自己対話によって生み出されていくということと分かつことができない。文と文とは、微妙に語りの主体を変えていくかのように組織 されており、或る言い出しに別の声が答え、さらにそれに別の声が答えというふうにことが進む。文と文とのあいだには、対話の二つの主体の間にひらく深淵の ような距離がひらき、そこでは形式的、意味的、物語内容的な連続性が仮設されるにすぎず、なめらかな推移は観測されない。沈鬱さ、というのはさながらその 空白すべてがそこで急激に沈黙に落ちるような気配を示し、かろうじて別の文が続く、という、語りへの奇妙な気の進まなさのごときものが感じ取られる、とい うことだ。主体の連続性のサインが破壊されていながら、しかし坂口安吾という署名を介した統一的な印象は明確に際だっている。
 小説以外の文章で はこの断裂は弱まり、緩和され、文単位ではなく、段落単位に広がっている。そのため、この断裂は見えにくくなっており、論旨の推移が連続的なように見せか け、また読み手がその断裂を埋め再構成することを許す。かれのエッセイの人気の高さと読みやすさにはそうした仮想的ななめらかさを読み手にとって心地よい 仕方で再構成させてしまうという側面に由来するものが多い。すなわち、構文に、論理的な形式がいわば外延的に展開されていて、小説の場合のように内包的に 寸断されておらず、意味の上のかつ構文の上のものでもある予期が、文の推進力となっている。
 こうした自己対話的な文章によって描かれるかれの散 文にはいくつか、その創作の系列をほぼ一貫して変わらない契機がある。すなわち、その反写実的な、観念的ともまた、非描写的とも形容できるような特性と、 女性に対するネクロフィリア的な一方的志向である。この物語内容を決定づける契機と、文体を決定づける契機の協同のもとに、かれは共同体的な約束事の間隙 にのぞく現実の様相を描く。しかしこの主題と物語のモチーフと描写態度の三者はどのような関係に立ち、どのような必然的な、あるいは偶然的な関係を持って いるのだろうか。たとえば、作家論や技法論、主題論を一括するものとして、安吾を他者の一言で括ってしまっても、生産的な議論は期待できない。
 本論の課題は、そのなかでも特に、非描写的な態度と女性への何事かの仮託の関係を明らかにし、もし可能ならばそれらの協同として、現実の小説のメカニズ ムに接近しようという試みである。

  そのために、まず、「風博士」(「青い馬」1931-S6/6/1)を取り上げ、そこに未分化な形で配列されている諸要素を取り上げて論じた。後年のさま ざまな作品に於いてそれぞれもはや同時には必ずしもあらわれない要素同士の関係が、原初的な形で観察されることによって、以後の作品を論じる上での範例的 な図式を手に入れることが出来ると考えたからである。
 次に、こうして得られた認識を背景にして、従来さまざまに論じられてきた文学論的なエッセ イを論じ、それまで相互の関係が解明されたとは言い難かった「ファルス」と「ふるさと」の関係を解明し、両者の概念、及び方法論にとって、女性像はどのよ うな位置にあるのかを考察した。
 ついで、女性像の小説のなかにおける具体的なあらわれを検証するため、説話形式の作品以外から「白痴」(「新潮」1946-S21/6/1)を取り上げ て論じた。
 最後に、「ファルス」と「ふるさと」の方法論の交わる点として、説話形式の作品群を、その生成と展開に即して論じ、そこで女性像がもつ機能を考察した。

 一章 「風博士」 速度と変身

 作家、坂口安吾が牧野信一の推称によって文壇に登録される契機を為したこの小説「風博士」(「青い馬」1931-S6/6/1) の坂口安吾を論じる上 での重要性は、これまで繰り返し論及されてきたことから云っても、すでに一般的な認識となっていると云っていい。
  「風博士」と題されたこのテキストは、安吾のその後の作品の展開を見る上で、ひとつの範例的な価値を持っている。それは第一に、その後も繰り返し現れるこ とになる女性像と男性像が、分身的な対の形をとって造形されているということ、そして第二に、文体と描写態度と物語内容の三つながらに規定する「速力的」 (「文字と速力と文学」『文芸情報』1940-S15/5/20)というべき特性がまともに主題的な形であつかわれていること、などである。

 第一節 変身

  「風博士」は多く、寓意に於いて読まれてきた。そうでなければ滑稽さの機構が分析されるか、物語内容の事実関係が論じられてきたのが大半だった。しかし、 虚心にこのテキストがどのようなテキストかという目で見るとき、特徴的なのは変形を記述することの多さである。単にデフォルメされて語られているというよ りも、次から次へと形象が変化していく、そのめまぐるしさこそ、このテキストを構成していく。
 義経は神吉思汗となり、神吉思汗はバスクの祖となり、バスクうまれの博士の妻はうらわかき花嫁となる。一方で博士は風となりインフルエンザのウイルスと なり、蛸博士は鬘をかぶって変身し風博士の妻を籠絡する。
  こうした変身譚的性格は、とくにその後の説話的作品に多く見られ、「紫大納言」(1941-S16/4/20 『炉辺夜話集』 初出稿は 1939-S14/2/1 『文体』)では大納言は水になってしまうし、「桜の森の満開の下」(1947-S22/6 『肉体』)では女は鬼婆となる。「夜長姫と耳男(1952-S27/6 『新潮』)」では、耳男は馬耳であるし、古釜や青笠などの命名は特徴的だ。この作 品では夢幻的な変身そのものは起きないが、蛇との交感が重要な比重を占めている。問題はそれにとどまらない。非現実の世界を舞台にした作品以外でも、形象 の比喩的な取り扱いや、物語のなかでの位置に於いて、変身譚的な特性はしばしば立ち現れ、安吾の創作の重要な特徴を為している。「白痴」の有名な冒頭の句 では人間が動物たちとあい通いあうことになるし、そこで妊娠した女が家鴨にたとえられ、白痴の女は豚となる。

 その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでゐたが、まつたく、住む建物も各々の食物も殆ど変わつてゐやしない。物置のやうなひん曲がつた建物があつて、 階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしてゐて、この娘は相手の分らぬ子供を孕んでゐる。
(「白痴」1946-S21/6/1 『新潮』)

 という冒頭の文に加え、末尾近くにはこのような記述がある。

  女はかすかであるが今まで聞き覚えのない鼾声をたてヽゐた。それは豚の鳴声に似てゐた。まつたくこの女自体が豚そのものだと伊沢は思つた。そして彼は子供 の頃の小さな記憶の断片をふと思ひ出してゐた。一人の餓鬼大将の命令で十何人かの子供たちが仔豚を追ひまわしてゐた。追ひつめて、餓鬼大将はヂャックナイ フでいくらか豚の尻肉を切りとつた。豚は痛さうな顔もせず、特別の鳴声もたてなかつた。尻の肉を切りとられたことも知らないやうに、たヾ逃げまはつてゐる だけだつた。伊沢は敵が上陸して重砲弾が八方に唸りコンクリートのビルが吹きとび、頭上に敵機が急降下して機銃掃射を加へる下で、土煙りと崩れたビルと穴 の間をころげまはつて逃げ歩いてゐる自分と女のことを考へてゐた。崩れたコンクリートの陰で、女が一人の男に押へつけられ、男は女をねぢ倒して、肉体の行 為に耽りながら、男は女の尻の肉をむしりとつて食べてゐる。女の尻の肉はだん/\少くなるが、女は肉慾のことを考へてゐるだけだつた。

  また、「私は海をだきしめてゐたい」(1947-S22/1/1『婦人画報』)では語り手は「鳥となつて空をとび、魚となつて水をくぐり、獣となつて山を 走りたい」という。「石の思ひ」(1946-S21/11/1 『光 LA CLARTE』)では語り手は石として語る。

 墨をすらせる 子供以外に私に就て考へてをらず、自分の死後の私などに何の夢も托してゐなかつた老人に就て考へ、石がその悲願によつて人間の姿になつたといふ「紅楼夢」 を、私自身の現身のやうにふと思ふことが時々あつた。オレは石のやうだな、と、ふと思ふことがあるのだ。そして、石が考へる。

 また「続戦争と一人の女」(1946-S21/11/1 『サロン』)ではカマキリという老人が大きなウェイトをしめて描写される。一般に安吾のテキストでは、こうした変身は単なる比喩の域を越えて、具体的な内 実と実質的な意味を獲得している。
  このとき、問題になるのは、ではそれはいったいかれの創作の全体のなかでどのような位置を占め、どのような働きをもっているのか、ということである。第一 に考えられるのは、自然への母胎回帰にも比せられるべき帰一願望の一環として、これらの変形を考えるということである。たしかに安吾に於いて出現する変身 はどれも人工物ではなく自然物への変身であり、人間から非人間への変身にほぼ方向が限定されている。比喩のレベルでいうと、安吾は擬人的な表現をほとんど 使わない書き手である。「風博士」のなかでロートレアモン的な突飛な比喩が例外的に読者を地図に例えたり扇風機に例えたりするのが強いていえば、人工物へ の変身のようなものであるが、やはりその比重は大きいとは云えない。厳密に云えば、元素への変化と動物への変化は分けて考えるべきかもしれないが、ここで はひとまず変身ということにだけ着目しておく。

 諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵であるか? 否否否。千辺否。余の生活の 全てに於て彼は又余の憎むべき仇敵である。実に憎むべきであるか? 然り実に憎むべきである! 諸君、彼の教養たるや浅薄至極でありますぞ。かりに諸君、 聡明なること世界地図の如き諸君よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を認容することが出来るであらうか? 否否否、万辺否。余はここに敢て彼の無学を公開せん とするものである。

 賢明にして正大なること太平洋の如き諸君よ。諸君はこの悲痛なる椿事をも黙殺するであらう乎。即ち彼は余の妻を寝取 つたのである! 而して諸君、再び明敏なること触鬚の如き諸君よ。余の妻は麗はしきこと高山植物の如く、実に単なる植物ではなかつたのである。ああ三度冷 静なること扇風機の如き諸君よ、かの憎むべき蛸博士は何等の愛なくして余の妻を奪つたのである。何となれば諸君、ああ諸君永遠に蛸なる動物に戦慄せよ、即 ち余の妻はバスク生れの女性であつた。彼の女は余の研究を助くること、疑ひもなく地の塩であつたのである。

 こうした変化の過程を考察することで明らかになってくるのは、そのめまぐるしい転変の速度である。風博士のもっとも根本的な特性は慌ただしさであり、速 度であった。
  現実的な対立はむしろここでは速度と鈍重さ、同一性と変化の間にある。ただしこの対立も固定的に形象に割り当てられているわけではない。蛸博士は変化を まったく拒絶しているわけではない。むしろ蛸博士は、鬘という仮装によって変化することで得られた外観を、保持し続ける。かれの同一性はそれを可能にする ひとつの変化を前提としている。また蛸博士は風博士の妻を奪うが、この変化もまた一度きりのものであり、風博士のように他の妻を得るという形にはならな い。つまり、変化と同一性というよりも、それ自身としての変身と、同一性のための変身とが対立させられているのだ、というべきだろう。風博士の変身が遠心 的で逃走的なものであるのに対し、蛸博士の変身は求心的で環境適応的なのである。
 その意味では、坂井健が蛸博士と風博士の対立をオーソリティと オリジナリティとして見たことにも一面の真実は含まれている。サティと、ワーグナーやドビュッシーとの差異をかりに考えたときに、コクトーの表現が意味し ているのは単なる権威と独創という対立よりもむしろ、その内在的影響から逃れることが出来ないような、独自の差異を回収して同化してしまうものとして、蛸 のイメージが語られているのであり、求心的で同一的でありながら、柔軟に対応し続ける一面では独創的な権威というべき存在をあらわすものとして、蛸は適切 な形象だったのではないか。

 「蛸博士」が芸術に於ける常識性、すなわち、オリジナリティを阻害するオーソリティであるとすれば、それに 対立する「風博士」の性格も、明瞭になるであろう。「風博士」は常識を超えた独創性、オリジナリティである。「偉大なる」という「風博士」に与えられる形 容は、まさにオリジナリティにふさわしいと言える。だが、独創性を持った芸術は、つねにオーソリティに盲従する世間からは斥けられ、オーソリティの前に敗 れさるものである。「風博士」が「蛸博士」に敗北する所以である。しかも、独創的な感興は、気紛れで、慌ただしく、風のように現われ、風のように去って行 き、定まることがないものである。「風博士」が「甚だ周章て者」であった所以である。(坂井健「『風博士』私論」--「落伍者」の敗北--」 1994- H6/4 『解釈』)

 オーソリティは常識性と独創の「間」にあるものとして理解すべきものと思われる。
 このように理解するこ との直接的効果として、第一にこの小説の悲劇的側面、あるいは悲喜劇的側面を回避しうる。坂井のように「落伍者」の敗北として理解していく限りは、風博士 の失踪は否定的にしか捉えられない。ロマン主義的な主人公の英雄化が、このファルスを悲喜劇化してしまい、そこに意味の裏打ちを生じさせてしまうのだ。風 博士が失踪するのは、その変身の已むことのない過程の帰結なのであって、その意味ではあくまでも肯定的な運動なのである。
 「風博士」は必然的な 敗北を自嘲したテキストなのではなく、ひとつの肯定的な運動を描いている。その意味では、この小説に体制的なものへの「反逆」を読む解釈の多くは、まさに その反逆をただ反体制的なものとして否定的に、体制的ではないもの、単に破壊的なものとしてしか理解ししえていないかぎりで、それ自身としての運動の性質 を捉えていない点においてアイロニーや悲劇性といった「意味づけ」に落ち込まざるを得ず、また風博士の運動を必然的に失敗に終わるものとして見る点におい てその速度を回収してしまう機能を果たしてしまう。

 「戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。ただ、負けないのだ。
 勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。」(「不良少年とキリスト」 1948- S23/7 『新潮』)

  環境適応的な、ホメオスタシーを実践する同一化の運動に対抗することが風博士的な「戦い」ならば、勝ってしまうということはその勝った状態を維持しようと いう志向に於いて、その運動に同化してしまうことにほかならない。それゆえにこそ、風博士は勝つことはなく、ただその速度の運動において、「ただ、負けな いのだ」。しかしまたそれは、別の見方をすれば、無数の暫定的な勝利の集積として、つねに暫定的な敗北を乗り越えていく運動として見ることもできるだろ う。
 
 さらに、第二の果実として「安吾と女性」というテーマ系に対して、微妙な屈折をこのような読みがもたらしうるということである。 従来、提出されてきた寓意的な対に於いては、風博士はジェンダー的な配列に於いて男性側に充当されるべき優位項が割り当てられてきた。しかし、風博士の性 格付けがその速度と変身に於いて捉えられるべきであるとすれば、同一性の項である男性的特性の側に風博士を割り当てることには無理が生まれる。ここではむ しろ、風博士の女性性について語ることが適切なのではないか。勿論、ここで形而上学的な対に於いて出現する、劣位項としての同一性を割り当てられる「それ 以外」の領域の実体化された「女性」や「肉体」が問題となってはならない。そうではなくて、そうした同定を逃れるものとしての、女性化の運動とでもいうべ きものが語られるべきなのだ。

 「僕」は風博士のバスク生まれの妻に一言も触れず、遺書には十七歳の花嫁についての言及はない。ここに風 博士の負い目と「僕」の詐術が隠されていると思われる。遺書は愛弟子の「僕」についてなにひとつ記さないばかりか、不特定の「諸君」に語りかけはしても、 「籠絡」された妻はともかく、その「僕」に呼びかけることさえしない。なぜなら「僕」など、どこにもいないからである。「僕」とは、ほかならぬバスク生ま れの妻である。当局が夫婦共謀説を推理するのに不思議はない。彼女は女ではなく「僕」という男になりすまし、妻ではなく弟子に扮して、自分のことばの客観 性と遺書の信憑性を印象づけ、蛸博士に対する復讐の効果をたかめようとする。それが彼女の、夫のなかの風博士を裏切ったことへの贖罪である。
 (廣瀬晋也「風博士の仮面……坂口安吾覚書」 1991-H3/1 『文学批評 敍説』)

 浅子逸男は、蛸や蛇の「軟体動物」のイメージが安吾の作品に於いて肉感的な女性のイメージと結びつくことを指摘したうえで、次のようにいう。

  蛸博士を女性として「風博士」を考察してみるならば、現在激しい敵対関係にある二人が、実は四十八年前にはパリで行動をともにしていたということも様々な 解釈が可能となってくる。…中略。引用者…このように考えたとき「風博士」とは、男性である風博士による、女性である蛸博士との葛藤と、その果ての逃走の 小説であることが判明する。小説中の「風博士の遺書」とは、作者が女性に対して発した永遠の「闘争宣言」にも見えてくるのである。
 (浅子逸男「風博士論」1985-S60/5/10 『坂口安吾私論--虚空に舞う花--』)

  蛸博士が性的な欲望という視点に於いて考えられるべきものとすれば、それはそこにひとつの空虚を意味ありげに隠し持っているからだ。鬘による禿頭の隠蔽に よって、蛸博士は、ヴェールに覆われた真理として機能すると同時に覆い隠すヴェールとしての機能も持つ。「真理」とは男性的な追求の対象であると同時に、 それ自身としては女性として形象される。ここに、グロテスクなものとしての蛸博士と、常識的日常性としての蛸博士の両義性の振幅が淵源している。
  実際、多くの論者が蛸博士については非日常的なグロテスクなな存在として把握する見方と、権威的で常識的な日常性として把握する見方との二つの矛盾する極 にわかれているのだが、この見解の分裂はやはりこのままでは異様というほかない。ではなぜこのような分極化した見方が生まれるかというと、蛸博士の言説の 常識性にウェイトを置くか、あるいは、蛸博士の風博士によって主張される醜悪さにウェイトを置くかによっているのである。しかし蛸博士はその両極に於いて 存在しているのだから、一方に偏することは不当だろう。蛸博士の両義性は、日常生活の現実のグロテスクさをも孕む内実と、それを覆う日常性という観念との 両義性だとはいえないだろうか。鬘としての常識性によってグロテスクな日常の現実はみずからを覆い隠す。
 禿頭とは完全な表面性であって、むしろなにものも隠されては居ないし、しらじらとした意味を欠いた現実性があるだけだ。その意味で、安吾的な「突き放さ れる」を、この禿頭との遭遇としてモデル化しておくことさえできる。
  意味ありげな、ヴェールにかくされたものへの欲望こそが、つまり、隠された闕所への欲望こそが性的な欲望なのであって見れば、蛸博士とはまさに、意味への 欲望という位相に於いて存立すると言い換えても良さそうである。つまり、背後に意味が隠されてゐるであろういう予期に反して、そこにあるのはただの禿頭の 無意味な表面に過ぎない。
 風博士は鬘というシニフィアンを強奪することで、シニフィエの不在たる禿頭、無意味を露呈させようとしたが失敗した。 そのように読むことは関井光男のグロテスクという論点と重なり合う。しかしそのことは風博士が妻を奪われたことに由来する。となれば、ここにはひとつの交 換関係が存在すると云えそうである。そしてこのどちらに於いても、奪われる項は二重化する。つまり、反復される。ただしその位相はまったく違う。鬘は、別 の鬘によって代替され、この連鎖はおよそ無限に続き、しかもこれらの鬘同士には等価性が存在する。この再現的反復に対して、風博士の妻は、別の婚姻相手の 少女として反復される。すなわち、鬘と異なり、ここでは別のものとして、単独性において反復されるのである。

 義経、神吉思汗、バスクと いう変身の過程に於いて、その変身の系列は、バスクの女性として博士の妻となり、そしてその妻は蛸博士に奪われることで、うらわかい少女へと変身を遂げ る。ここでもこの学説のそれぞれの項はかならずしも任意に選ばれたものではない。義経は頼朝によって体制の建設に利用されながら体制そのものの安定にとっ て障碍であるために排除された戦争的なものの象徴であった。また、神吉思汗は定住民を侵略し、その安定した秩序を破壊しながら何者も建設しなかったといわ れる遊牧民の英雄である。バスクは、イスラム帝国とヨーロッパ世界の境界に存在して、しかもどちらにも属さない存在としてきわめて不安定なアイデンティ ティを付与されている。バスクの孤立性そのものが、イスラム、遊牧民、ヨーロッパの三つ巴の交通の接点に位置するというピレネー地域の性格に由来している だろう。同一性を脅かし、変転きわまりない不確定な、速度的なものとして、これらの変身の各系列は選び取られているのである。
 安吾のこうした戦争的なものに対する両義的な視点は、「日本文化私観」における軍艦や工場といったものの合理性をたたえる視線を見る限り、つねに一貫し ていたと思われる。

  この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。こヽには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美といふものヽ立場から附加へた一本の柱も鋼鉄もな く、美しくないといふ理由によつて取去つた一本の柱も鋼鉄もない。たヾ、必要なものヽみが、必要な場所に置かれた。さうして、不要なる物はすべて除かれ、 必要のみが要求する独自の形が出来上がつてゐるのである。
 (「日本文化私観」1942-S17/2/27 『現代文学』)

 今我々に必要なのは信長の精神である。飛行機をつくれ。それのみが勝つ道だ。
 (「鉄砲」1944-S19/2/1 『文芸』)

 で、あれば風博士の説はたしかに経験的事実としては全くの誤謬にほかならないが、ひとつの安定した制度的同一性を脅かす速度的な流れの歴史に於ける連鎖 を指し示すものとして理解されるならば、単なる荒唐無稽として理解される以上の意味を孕んでいる。
  ここでの真理とは、義経、神吉思汗、バスクという系列を隠蔽する動きに抗するものとして理解される。蛸博士の反論に見られるとおり、この隠蔽する力とは、 時間や空間を区画化して、或る領域での出来事が他の領域へ波及するのをブロックする運動なのである。実際、風博士はあらゆる錠前を解除し、扉を蹴倒すもの として現れる。

 故に余は深く決意をかため、鳥打帽に面体を隠してのち夜陰に乗じて彼の邸宅に忍び入つたのである。長夜にわたつて余は、 錠前に関する凡そあらゆる研究書を読破しておいたのである。そのために、余は空気の如く彼の寝室に侵入することができたのである。そして諸君、余は何のた わいもなくかの憎むべき鬘を余の掌中に収めたのである。諸君、目前に露出する無毛赤色の怪物を認めた時に、余は実に万感胸にせまり、溢れ出る涙を禁じ難か つたのである。諸君よ、翌日の夜明けを期して、かの憎むべき蛸はついに蛸自体の正体を遺憾なく暴露するに至るであらう! 余は躍る胸に鬘をひそめて、再び 影の如く忍び出たのである。

 すなわち、風博士が主張して止まない真理とは、変化の真理とでもいうべきものであって、その形式はつねに実 は何々である何々は実はさらに何々でありという連鎖の形式を取る。最終的な内容を持たずただ変化をもたらす問いとしての真理がここで問題なのである。ここ では実は、という言葉はほとんど、次は、という言葉と等しい働きをしている。そしてこのような真理の形式にのっとって初めて、風博士は蛸博士を無学と呼ぶ ことが出来る。蛸博士は或る真実に事態を同定することを目指しているからだ。

 推理小説的な興味もこの小説の読解に於いてはつよいモメン トをなしてきたものである。ここではやはり速度的なものと変身という観点から、戦後の「不連続殺人事件」などの推理小説への目配りをしつつ論じていきた い。トリックとしてみる限りここで提出されているのは自殺と見られたものが実際は他殺であった、あるいは、そもそも自殺ではなかったという類の古典的シ チュエーションであり、たしかにその意味で定跡からすれば「僕」の証言はきわめて疑念を招かざるを得ない。また、その観点から考察する限り、これは倒叙式 の「アクロイド殺し」と同じ形式をもっていて、信頼できない語り手、という問題系をただちに喚起する。
 実際、提出されてきた論点の多くが、遺書 の挿入という語りの構造の複雑化をめぐるものに集中している。ここでいかなる読みが提案されようと、基本的にはそうした読みを誘発し、またその読みを可能 にしている形式的条件は、なによりもここに、ひとつの引用の関係が存在し、そこに亀裂が、落差、段差が生じているということである。テキストの語りのレベ ルのこの二重化こそが、問題の発生の原因であるとみなしていい。

 小説「風博士」そのものが起源の反復であるという側面を持っている。は じまりの小説としての「木枯の酒倉から」(1931-S6/1 『言葉』二号)を「風博士」は反復し、それをパロディ化する。蛸博士と、酒倉の主人である 幻術師とには強い相関がある。対応というよりも変身における前身というべきだろう。だからこそ、蛸博士を単に常識的なものとして処理することには問題が あったのであって、対比は別の処にある。なにゆえに幻術が狂人によって否定されるのかを考えてみれば、幻術はあくまでも消費であって生産ではないからであ る。幻術は主観的な意味でいわれる経験を与えることが出来る。それは自我の欲求との関わりで定義されるべき諸印象だ。狂人はもとよりそれが非現実であるか らという意味においてそれを批判するのではない。そうではなくて、幻術が与えることが出来る快感やユートピアは、ただ既成の現実からなるものでしかなく、 いかなる意味でも想像力の現象ではないからだ。すなわち、幻術は、狂人が求めるような、あらたな虹の形式を創造することにはおよそ無力なのだ。別の言い方 をすれば、現在としての「経験」を与えないということである。そしてそのことは「風博士」という反復から回顧することでよりあきらかになる。すなわちここ でも狂人は基本的には速度の現象としてたちあらわれているからである。

 芥川と谷崎という対立と友誼をわれわれは想起すべきかもしれな い。芥川のテキストは本質的には速度の現象を孕んでいる。芥川に於ける速度とは、語りの問題として捉えられる。すなわち、反描写ということである。芥川の 文学はかれが「話」らしい話のない小説を称揚したにも関わらず、筋書きという意味で描写と対立する「話」としていうならば、話のウェイトがきわめて高い。 この点で芥川と安吾は谷崎や自然主義と対立するのだが、その視線は事物の同一性には遅滞せず、ひたすらその変化を追う。
 描写はひとつの対象を構 成するものを表現していく運動であり、本質的にはそこには時間性と矛盾するものがある。つまり、描写に時間が介在するとしてもそれは二義的なものであっ て、飽くまでも描写する側に変化の要因は割り当てられる。つまり、何処から描写し始めて、その間に対象は変化したかというようなことは、描写そのものに とっては外的である。描写の時間とは主観的な持続の時間なのである。このことを視線の速度の問題として捉えると、描写の視線はひとつの領土性を構成する。 この領土性という言葉にはつよい含意を認めてもいいだろう。「知る」という欲望によって駆り立てられる「描写」とは「見回り」にほかならないからだ。そし て行文はこの領土性の内部に遅滞する。変化と不連続性として把握されるものとしての速度の概念に、これはきわめて違背する。
 短編作家としての両 者の資質のことも考えるべきであるが、安吾がともかく芥川から速度の現象を受け取ったのだ、と捉えることは可能だろう。そのうえで、この速度の現象は単に 語りの問題ではない。というのは、ここでも速度は作品そのものを総体として規定していくひとつのモメントとして機能しているからである。一般的な意味で、 説話的な小説において、芥川が生の原像としての野蛮さや生活といったもの、或いはより正確に言って一瞬の生の燃焼を求めたことは知られているが、この一瞬 という点に至るまでの生もまた、それにむかって雪崩のように落ちていく速度の現象として捉えられるのであり、もしもそこで安吾的な終結を拒否する速度の運 動との差異を見るならば、芥川は決定的な単一の特異点を目指す雪崩を考えた点にこそ求められるだろう。安吾的な速度の運動はあくまでも複数のものの複数の 点をめぐる散逸として捉えられる。芥川的な他者たちは相互に齟齬し葛藤しつつも、単一の「藪の中」という空虚なブラックホールに集中していくのであって、 安吾の作品のように一瞬すれ違いつつもまったく別の方向へと散乱していくということがない。

 安吾における芥川龍之介、ということは佐橋 文寿も注目しているが、より強い影響があったと考えて間違いあるまい。愛読、反撥、批判をしながらも評価をしていくという変化を考慮にいれつつ、坂口安吾 が、まさに安吾として、炳五ではなく、作家として出発するにあたって、芥川の「不安」を乗り越えることから始められたと考えるのである。そのためにも「風 博士」は書かれなければならなかった。
 (浅子逸男 前掲論文)

 風博士を芥川に比すことが直接に傍証を得られるというのではな く、また谷崎と蛸博士を安吾が実際に想定していたと考えるべきだというのでもない。そうではなく、安吾が書いている時点で、風の運動性と蛸の粘着的な肉体 性ということを文学的な場で対比させて考えるという行為は、まず必然的に、芥川と谷崎が構成した対比を無意識のうちに前提にせざるを得ないだろう、という ことを指摘したいだけである。このことは、資質に還元されがちな安吾の文学的出自の問題を具体的に文脈の中に置き直す価値を持つだろう。

  偉大なる風博士の遺書とその弟子ということを考えたとき、芥川の世評をさらった遺書ばかりではなく勿論、もうひとりの高名な自殺者のことも喚起されずには おかない。すなわち「こころ」の先生である。漱石と安吾は芥川を介して接合される。この組み合わせにおいて、俳諧ということの持つ意義は大きい。俳諧は俳 句になることによって写実を日本文学にもたらしたが、この写実に反対するもうひとつの流れもまた漱石や芥川や安吾によって俳諧からくみ出される。すなわ ち、俳諧的ユーモアと速度の現象である。
 俳諧にとって写実は両義的なものだ。俳諧は一瞬で対象を切り取る。そしてこの切断面が完全には重なり合 わないまま連鎖していく。このとき、この形式的短さと写真のような切断の瞬間性は、それを絵画的に、一つの面の上に、奥行きとして、重ねていく、そして正 確な模写をつくるという形で応用されるとき「写実主義」となるが、しかしこの無数の切断面を映画が写真を扱うように速度の無数の断面として捉えるならば、 そこに出現してくるのは、反描写主義的な速度のリアリズムだろう。
 安吾は繰り返し、「風博士」落伍者の落書きの挿話、「吹雪物語」後記といった ように、「遺書」というテーマに立ち戻っており、その最終的な結実として「狂人遺書」を考えることが出来る。しかも奇妙なことにそのときの遺書の扱いは他 者の言葉というような扱いであるよりもむしろ一貫して、書く側の視点に立っている。遺書はダイイング・メッセージのような謎をはらむ記号として主題化され るのではなく、蘇った死者による弁明、あるいは戯画化のごときものとして現れる。このカーニバル的な想定は、安吾の創作を考える上でつねに念頭に置くべき 夢幻能の系譜にあって、漱石や芥川の遺書の扱いにも見いだされる特性である。近松のような、自分の葬式に臨席する死者のとまどいの笑いが、希釈化されても なお、聞き取ることができるかのようだ。その意味では遺書を記すという行為を、次節を先取りしていえば、分身せんとする意志の一形態として見ることもまた 必要となってくる。

 初期の安吾のなかに濃厚な芥川の影響を見つつ、それから逃れ去っていく契機を同時に見いだすとすれば、「風博士」は 速度という観点から、自分がいま存立している文学的な場を対象化し、パロディ化する試みだったと見ることが可能である。だからこそ、偉大なる風博士の弟子 である「僕」に作家は同一化しつつ語る。安吾は半ば意識的に、芥川の死を、「紛失」として捉え、みずからをその弟子として位置づけたのではないだろうか。
 しかし、もしそうであるとすれば、風博士の弟子である「僕」について、その正体を蛸博士として読むもの、あるいは、風博士の先妻として捉える見方はどの ように整合していくのだろうか。

  風博士はファルスの代表例として考えられてきたが、笠原伸夫の精緻な論が示すとおり、説話形式とファルスとはひとつの本質の両面なのであり、そのことは芥 川の説話形式に遡行することでより明確となる。笠原はその論で語り口の自在さと行動の追跡を説話の特性として上げているが、この両者の特徴はそのまま本論 が速度的なものとして追ってきたものを言い換えたものにほかならない。

 説話的発想とは第一に奇想であり、第二に語りくちの自在さであ り、第三に主人公の行動追跡ということである。坂口安吾の文学おける説話的なものとは、その語りくちにある。語りくちの自在さにある。この場合、<自在 さ>ということを洒脱とか放恣とかと置きかえてはまずいように思う。かれの感覚はむしろ細心であり、緻密である。緻密でありつつも、それが自在に柔軟に語 りだされるところに坂口文学の面目が認められよう。
 (笠原伸夫 「説話的発想 --坂口安吾・主題と方法--」 1973-S48/7 『解釈と鑑賞』)

  自在さ。奇想、行動追跡という規定に共通するものは、不連続なものを短絡させて前進させる速度である。対象の同一性をきわだたせるのではなく、それを運動 の中で描き出すという行動の追跡、形容詞的なものへの動詞的なものの優位ということは、反写実でもあり、速度の現象でもある。
 説話的発想という とき、さらに語り手の不定人称的性格と、その伝承性ということも考えあわせなければいけない。説話は具体的な、しかし無名な誰かが語るものである。語り手 は具体性をもっているし、三人称の近代小説のような、抽象的語り手ではない。しかし語り手が何者かということは必ずしも問われない。それゆえ、説話の語り 手は、誰でもいい誰かとして語る。これはその伝承という存在形態と見合っている。説話の語り手は権利としては、それを経験した誰かであり、権利的なその説 得力は伝播の起点にこの誰かがいることを前提にしている。それゆえ、説話の語り手は、誰であっても説話の内容や語りの様式に対しては関与しないのだが、そ のかぎりでは誰でも良く実際多くの場合は無名なのだが、しかし権利上、それは具体的な生身の実在の誰かであったのでなければいけない。これは、安吾が後 年、巷談について語った「見てきたように語る」という性格である。


 第二節 分身

 風博士と蛸博士との関係は、 勿論分身的な関係であることは云うを待たないのだが、王と、祝祭の間の偽王としての道化、として考えると、事態がかなり整理される。この図式の適用が本論 の全体の中でどのような意味や正当性を持つかは、ひとまず後段にゆだね、この一致をしばらく追ってみよう。
 蛸博士の鬘が奪われるのは、祝祭の間 の儀式的な奪冠として理解すべきだろう。非日常的な「祝祭の時間」の王としての風博士は蛸博士の価値を引き下げ、王と道化を逆転させようとするが、祝祭の 時間の終わりと共に失敗し、どこかへと消え去ってしまう。この祝祭の時間ということを、風博士と花嫁との結婚は意味している。また「時計は十三時を打ち」 というこの十三時も、正規の時間のうちに入らない、余分の、「間の」時間としての祝祭の時間だろう。つまり、ここで主題になっているのは、世界の更新の観 念なのである。風博士は、あたらしい花嫁と婚姻することによって、世界を更新する。他方で、蛸博士は風博士の妻を籠絡することでペルセポネをデメテルのも とから引き離すハデスの役割を果たす。こうした祝祭の観点から云うと、風博士のバスク生まれの妻と17歳の花嫁が別人か同一人物かということは二義的なこ ととなる。なぜなら、象徴的な視点から云えば、この二人は同一の存在の二つの相に過ぎないからだ。同様の観点から云えば、風博士の遺書のなかにその弟子た る「僕」の存在が見あたらないのも当然だということになる。すなわち、風博士も又、「僕」として若い存在に更新され回帰したからである。この視点からいう と、風博士と蛸博士を生と死に単純に寓意させたい誘惑に駆られるが、ことはそれほど単純ではない。なにより、寓意的な二項対立の候補をひとつ付け加えたと ころでそのこと事態はたいした解明をこのテキストに対して与えないに違いない。ともあれ、このような更新再生の観念を仮定して考えてみると、「僕」と「風 博士」が出会った場面というのはドッペルゲンガー同士が出会った場面なのであり、それゆえ、定跡によって、風博士は消え去らねばならなかったのである。

  蛸博士は風博士によって四十八年前から禿げていたと云われる。そして鬘によってつねに若さを装うことが出来る。つまり、変身し、更新されることによって時 間のなかに存在する風博士に対して、蛸博士は時間から超越して不変な存在である。蛸博士は永遠の老年であると云ってもいい。安吾は「青春論」のなかで「青 春いつまでも去らず」と自嘲気味にいっているが、蛸博士の常識性とグロテスクの共存はこの老年性に由来するものと思われる。もっともこの老年性は、むろん 若さにおける内包された老年性であって、身体の衰弱や経験の堆積との関係をただちにもってはないだろう。風博士も老境に入ろうとしているのだが、かれは自 らを更新することによって若さを保つ。というよりも、風の本質は淀まないことであり、蛸はその定着性を本質とする。

 こうした観点から小 説の結末を見直してみると、インフルエンザに侵された蛸博士はどうなったのだろうか。恐らく蛸博士はこの病によって死んではいないだろう。蛸博士は或る意 味で不滅の存在だからである。しかし蛸博士が病に冒されている期間は、今度こそ風博士の支配する一時的な祝祭の時間となる筈である。それまでは風博士は、 自分の室内しか支配し、感化することが出来ずにいた。しかしこの再生と死滅の中間にある祝祭の時間、風博士が死者でもなく生者でもない中有の亡霊として存 在する時間は、小説のなかで描かれることはない。円環的なこの小説の構造は、始まりと終わりが、この語られない時間を介して繋がっており、再び風博士は 「僕」として「その筋」の嫌疑に苦しむ事態となるという回帰がくりかえすことを示している。

 こうして、一般的な神話や祝祭にまつわる図 式によって大ざっぱな補助線を静的なスタイルで引いてみたとき、理解されるのはどういうことか。ここで静的といったのは、もちろん、このような分析は語り の時間性はかなりの程度無視せざるを得ないからである。関連する時間は物語の内容におけるデジタルな継起の時間のみであった。物語を言語のような構造のも のとして分析するならば、当然、実際の作品はそのバリエーションではなく、むしろその言語による語りだろう。言語の分析はその言語によって行われる会話固 有の特性についてはいまだなにも知らせてはいない。

 王と道化の互換性は、静的な象徴的図式としてここで提示されてはいない。王と道化の 対応という「観念」は現実化される。というよりもこの動きの準備のための位置ベクトルとして、この落差は潜在している。従って注目すべきなのは対応ではな く、転換の動作とその効果である。世界の更新の観念は、比喩的なレベルで起きるのではなく、ありとあらゆる場所で、現に王と道化の転換の運動が波及してい き連鎖して普遍化していくことによって、言い換えれば風が至るところで現実に吹くことによって起きる。図式が見いだされるのはこの両者の間のもろもろの騒 動を発生させるべき内在的落差、「動因」としてである。風のアナロジーを続ければ気圧差のようなものとしてある。この永遠回帰、祝祭的な回転運動の二つの 相として王と道化はめまぐるしく転換しあうのであって、分身という観点が有効になるのは従って神話的コードに登記すべき物件を識別しうるという点にあるの ではなく、変身のひとつのバリエーションとして異時同図的な、「共存する一つの形象の二つの相」という観点で分身現象を見ることができるようになるという ことである。つまりここでの分身の意味は、存在の分裂というよりも、二つの相の間の相互転換を際だたせるというところにあり、より進んでいえば複数の時間 の共存ということになる。この意味では一番大枠での物語の回帰的な構造への指摘は二次的な問題にすぎない。無数の周期がここには共存しており、そこにそれ ぞれ応じて、回帰の、いやむしろ素早い相互転換の動きが偏在しているからである。

 以上のことから、「風博士」には三つの範例としての特徴があることが分かる。
  まず、風博士と蛸博士との間のもっとも大きな差異は、その「速度」との関係であり、「風博士」という小説の文体そのものがそのことを反映している。また、 この文体的な特性は、説話の文体と、「行為追跡」という点で共通するものを持っている。同時にファルスの本質である「直情径行性」も、物語内容のレベルで の「速度」の現象形態であるということができる。こうして、安吾の基本的な方法論を規定するものと考えられる「速度」という概念が立ち現れた。
 ここでいう「速度」というのは、より不連続でより大きく変化する力の属性のことである。この意味での「速度」の特性を芥川のテキストは強く持っているた め、作品内容からの影響関係も考えると、安吾は芥川からこうした速度的な属性を受け継いだと考えられる。
 また、この安吾の「速度」や「力感」への嗜好ははるか後年まで持続するのであって、その代表的なものが一個の速度として語られる「信長」である。
  つぎに、「風博士」は、安吾に於いて頻出する変身のテーマの嚆矢であって、神吉思汗義経説も、神吉思汗バスク後裔説も、こうした変身の一種として捉えるこ とができる。安吾にとって、動物や元素になることには、単なる比喩にとどまらない具体性と意味が存在し、その後、繰り返し出現することになる。とくに、後 の説話形式の作品に於ける変身を考える上で、風博士の風への変身と蛸博士の鬘を介した変装とは重要な先例として理解の鍵となる。安吾にとって変身は、自己 の内的、潜在的、内包的組成のあいだのせめぎあいを外的に展開するものであり、後年にうつ経験を経てかたられる「自我の理想的構成」という志向に直結して いくものだろう。
 つぎに、「風博士」は祝祭空間に於いて、王と道化が交代し、世界が新しく更新されるというモチーフを孕んでいる。このように考えると、風博士と「僕」、 そして蛸博士という不均等な分身群と、風博士の二人の妻という分身的対の関係をより整理した形で理解することが出来る。


 第二章 文学論に於ける女性の位置 「ファルス」と「ふるさと」

  エッセイ「文学のふるさと」(1941-S16/7/28 『現代文学』)は、安吾の作品総体の読みまでもつよく支配してきた。言語の不可能性としての「突き放される」体験をパフォーマティヴに経験させる行為とし て、あるいは作品内の人物の経験として表象する行為として、安吾の作品は把握されることとなった。
 さまざまなヴァリエーションはあれ、こうした 読みは、安吾の作品同士の差異をややもすれば平準化する傾向をもったのではないか。ここでは、他者経験を現出させ、あるいは表象することの困難さを克服し た巨匠としての安吾像ばかりが肥大化することとなった。しかしここで援用される他者論はすくなくともテキストの読みに関しては、固有の内在的困難を持って いて、そのことがこうした読みの実践の平板化を導いている。
 突き放される経験に重点を置き、他者を理解不能で表象不可能であると定義づけたた め、この絶対的な他者は語られることができず、また、この関係をもちえない他者との不可能ではあるが現に実践されている関係、いわば非関係についての語り をあらかじめ拒んでしまう。他者はたしかに定義上表象できないものであり、言語の挫折としてしか表現することが出来ない。問題なのは、しかしこの他者経験 がそれゆえに一様に無として同一なもののように語られてしまうということであって、本来一回的で独異的なものであるはずの不可能なものが、実体化されるこ とによって、のっぺりとした同一性の語りになってしまうということだ。外部は窓ガラスに映るほかないかもしれないが、それだからといって窓ガラスの同一性 が外部の同一性を示唆するとはけっしていえない。
 問題は第一に他者を外部性としてのみ捉え、境界にとどまらず内部性を構成するものとして捉える ことを怠ったこと、ついで他者経験の側に視線を置くのではなく、他者経験を産出する表象可能なものと不可能なものの間での生成の特異性へ視線を置くことを しえなかったこと、そして最後に絶対的な、単一の他者を想定してしまい、他者たちという、他者経験に内在する複数性と具体性を見過ごしたことである。第三 者的な、外部からのという視線を想定し得ない以上、主体内部からいわば否定的な形式で他者経験を分析せざるをえないことは間違いがない。しかし他者経験す べてを他者経験であるという理由で統合して、「他者」という単一の主語として扱うことは、すくなくともこの場合には理論的な不毛に至るほかない。他者経験 それぞれは体系的に属性リストを記述することによってなしうるような形式の差異をもたないが、それは差異を持たないからではなくて、属性を記述することか ら逃れるような存在形式をしているからである。だからこそ、他者経験それぞれは少なくとも別のものとして、ただし相互の差異が定義によってうみだされるよ うなものとしてではなく、扱われなければならない。
 これらの理論的な課題は安吾論での具体的な問題としては「文学のふるさと」における「ふるさ と」から「大人の仕事」までの離脱の、あるいはよりはっきりいって「構成」の論理を明示し得ていないということだろう。(城殿智行「無数の蛇を逆さに吊る 男」 2000-H12/5 『早稲田文学』)実践的には、読みにおいて他者論だけではあまりにも解釈行為の必要上貧困であるため、モデルとして、「FARCEに就て」(1932- S7/3/3 『青い馬』第五号)が援用されることになる。しかし、この場当たり的な援用は、「ふるさと」と「ファルス」の間の内在的関係がまったく把握されないまま為 されるために、必然的に、批判を欠いたファルス論の反復たらざるを得ない。こうして、当該の作品は突き放す他者性を体現し、かつ方法としてファルスを用い ているというかたちの論が形成される。勿論、事実問題として、十全な形でファルス論を適用できる作品は少ないため、手際は作品がどのような意味で、或る種 のファルスとも呼び得るのだということを論証することに費やされる。だがこうした論法は結論がすでに決定されているのだからいかなる意味でも生産的なもの とは言いがたい。問題なのはこの読みに於ける分裂を克服することである。
 ファルス論をバフチン(「ドストエフスキーの詩学」原著二版は1963 年 望月哲男/鈴木淳一訳 ちくま学芸文庫 1995/3/7)の対話論とカーニバル文学論を通して理解する限り、それが他者性を隠蔽しないことを前提と した方法論であることは明らかだが、ここでの他者という言葉を「ふるさと」において云われる他者性と同様に使用することは誤解を招く。なぜなら、少なくと も「文学のふるさと」に見いだされると云われる他者は複数性と具体性を欠いているからだ。この絶対的他者は対話的他者の基底にある、より根源的なものかも しれないが、それについて言及するだけでは、少なくとも文学という言語的実在の具体的形式を理解することは出来ない。のみならず、対話的他者の理解を欠い ては、おそらく絶対的他者の理解も漠然として概念的なものにとどまるだろう。絶対的他者が定義上表象不可能なものであるかぎり、絶対的他者という規定はど れほど抽象的なものであってもひとつの規定であり表象であるには違いないのだから、それは名目的に定義されているだけであって、対話的他者という実体を持 たない限り、現実化され得ない。従って、絶対的他者は論理的にさきだっているかもしれないが、経験的には対話的他者が絶対的他者に先立たざるを得ない。
  「文学のふるさと」の各事例を具体的に見ていくと、そこでも主体の側に視点を置いて読む限りは、主体が突き放されるということがこのエッセイの主眼である かのように見えるが、実際にはそれぞれの挿話をそれぞれ総体として見る限り、問題なのは複数の主体の間の共約不可能な齟齬対立が問題であることが分かる。 絶対的他者性を組織立てているのは、対話的他者たちの関係の生成なのである。つまり、「ふるさと」から「大人の仕事」への離脱の論理は、「わたしを突き放 すもの」として漠然と統合して捉えられる幻想的な「悪い対象」の経験を個々の具体的な対話的他者として、形式化する行為にかかっているといえるだろう。こ の対話的他者関係への移行の過程で、たとえ理念的なものであれ、「わたし」の位置の特権性が相対化されることとなるだろう。ほのぐらい絶対的他者の、表象 不可能なものの表象としての「気配」に怯える主体は、対象と具体的で個別的な関係を持つことが出来ないため、決して関係を倫理的に生きることが出来ない。

  第一に「赤頭巾ちゃん」の物語について考察しよう。ここでは少女、狼、お婆さんという三者関係を巡る物語である。とりあえず、絶対的他者の論理に従って、 この物語によって読む主体がつきはなされるのは、モラルの設定という期待が裏切られるからであり、絶対的他者は、事態の進行を律する理解可能な主体の不在 として経験される、と読んでおこう。
 しかしそれではなぜこの物語にはモラルの設定がないと云われるのだろうか。問題は、作者に読者が突き放され るということに尽きているのだろうか。この説明はそれ自体としては間違っていないが、重要なことを言い落としている。読者は、読む行為において、不可避的 に赤頭巾ちゃんの側に立つ。共感する必要はないが、彼女の場所から事態を構成することを強いられ、お婆さんと狼は彼女と関係するかぎりでのみ問題にされ る。そのために、読者が突き放されるのは、想定された知識をもったとした場合の赤頭巾ちゃんが突き放されるであろうという想定と不可分である。狼の立場か ら語られたこの物語はいかなる意味でもひとを突き放さないだろう。お婆さんの立場から語られても、罪悪感を呼びさましこそすれ、突き放すという機能は果た さない。そもそもこの物語でモラルが設定されるとすれば、それは赤頭巾ちゃん、あるいは赤頭巾ちゃんを反復する存在への教訓としてでしかない。
  論理的順序としてはまず作者が読者を物語の進行の規範からの逸脱という形で突き放すのだが、実際の物語の形式に於いては、複数の対話的他者が相互に互いへ の予期をそれぞれ固有のそれ自身としては第三者的観察者にとっては了解可能な意図によって裏切ることによって、読者は共感および了解の安定的中心として誰 かの視点を取ることが出来ないという形で、突き放されるのである。
 ここで重要な点は、従って絶対的な他者の想定は論理的に、作者の審救を呼び出さずにはおかないのであって、そうした読みがいままでひたすら作者論的視点 から自伝的なものへと流れがちだったのは、偶然ではないということである。
  狼の論理としては、なにひとつ不条理なことは生じていないし、むしろ対象としての赤頭巾ちゃんもお婆さんも、まったく了解可能である。狼は赤頭巾を欲望の 対象にし、合理的な策略によって、所期の目的を達成したに過ぎない。ここには他者経験はない。お婆さんにとって事態は純粋な災害としてたちあらわれるので あって、事態は二者関係にすぎないため、突き放される経験をするか何らかの納得をしてしまうかは、彼女がどのような文脈で事態を経験したかあきらかでない ため不確定である。赤頭巾が突き放されるのはあくまでも彼女の無垢と、災害が善行のさなかに訪れるということが前提にされていることに依存している。
 三者の利害対立と、世界理解の対立が、ここでの他者経験の核心を為している。それは必ずしも作者と読者の間の世界理解の対立や利害関心の対立から直接導 かれるものではない。

 愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼に ムシャムシャ食べられてしまう。
(「文学のふるさと」)

  この規定は、実際には他者に対する規定ではない。ナルシスティックな投影の機制によってしか、このような完全性を持った規定はなされえないだろう。それゆ え、このような理解は赤頭巾の無意識の自己意識として理解できる。全く善いか悪いかする対象は、語り手の投影の結果なのであって、語りにとって他者である とは言い難いからである。
 自己は、自己陶酔が非難されるべきものであるということを回避するため、自己の美点に気づかない賞賛される自己と、自 己を賞賛する他者としての自己に分裂する。こうしたナルシスティックなシステムに読者は巻き込まれることによって、この物語に、彼女の観点から参与する。 この観点は、病気の見舞いという善意は賞賛されるべきだという期待を対話的に狼に向ける。しかし狼は自己の論理を貫徹するから、この両者のあいだに「すれ 違い」が生成する。
 このような読みが、絶対的他者と作者のレベルからする解釈に優越するのは、他者を具体的に了解可能な形で語りうるということである。
  この葛藤は、見方を変えれば、「FARCEに就て」のいう「人間それ自身の、どうにもならない矛盾」に根ざした滑稽な「乱痴気騒ぎ」として理解することも できる。老婆に化ける狼は、またしても、鬘をかぶる蛸博士に類比的なのであって、その意味では、「風博士」で固定していた性差はここに来て混乱を示すと いってもいい。ともかく、老婆と赤頭巾と狼の間の葛藤は、全員が勝手な思いこみによって相手の事情を考えず自己の意志を通そうとしているという点で、視点 さえ変えれば十分にファルス的である。同様なことは、「FARCEに就て」で例として挙げられているものについても云える。

 此処は遠い 太古の市、ここにひとりの武士がゐる。この武人は、恋か何かのイキサツから自分の親父を敵として一戦交へねばならぬといふ羽目に陥る。その煩悶を煩悶とし て悲劇的に表はすのも、その煩悶を諷刺して喜劇的に表はすのも、共にそれは一方的で、人間それ自身の、どうにもならない矛盾を孕んだ全的なものとしては表 はし難いものである。ところがファルスは、いきなり此の、敬愛すべき煩悶の親父と子供を、最も滑稽千万な、最も目も当てられぬ懸命な珍妙さに於て、掴み合 ひの大立廻りを演じさせてしまふのである。そして彼等の、存在として孕んでゐる、凡そ所有ゆるどうにもならない矛盾の全てを、爆発的な乱痴気騒ぎ、爆発的 な大立廻りに由つて、ソックリそのまま昇天させてしまほうと企むのだ。
(「FARCEに就て」)

 父親が恋敵として立ち現れると いうことは、きわめて「突き放される」経験ではないだろうか。出来過ぎているほどエディプス的なこの状況において、しかし異様に見えるほど母親の存在が 「消され」ていることは注目に値する。「文学のふるさと」でこの「突き放される」経験が、帰る家もなく彷徨することにも比せられていたことからしても、家 族というものの根源的な他者性の露出として、考えることが出来る。だから全く同様の事態に対して、表現の戦略の差異が問題なのである。想定されている物語 内容そのものは、実際には二つの文学論の間に違いはない。
 「文学のふるさと」ではついで狂言の例と芥川の例と伊勢物語の例が挙げられている。狂 言の例はファルスといっていい。ここで対立しているのは、彼の妻への愛情と、彼のなかに内面化された、あるいはそのものとしての、彼の妻を醜いと評価する 世間とである。突き放される、ということを、読者の期待が、出来事の他者性によって裏切られる、とみなす観点からは、この挿話が例として挙げられているこ との意味は理解しがたいのではないか。しかも着目すべきなのは、単に妻の醜さがここで問題なのではないということである。飽くまでも鬼瓦を見て、という状 況がこの例の本質を為している。赤頭巾の物語がたんに美徳の化身のような少女が食べられるということに於いてではなく老婆に化けた狼との問答の末食べられ るということに表現としての意味があるように、この狂言に於いても、「鬼瓦」という具体的対象を媒介にすることで、可笑しさと切なさが同居しえているので あって、ひとが突き放されるのは、事態の残虐さではなく、かけ離れた意味がひとつの出来事のなかに矛盾しつつ共存し得るということに於いてなのである。
  つぎの芥川の草稿の例に於いても、嬰児殺しそのものはたしかに衝撃的な出来事であるが、ことの本質はそこにはない。そうではなくて、その話をまず原稿で虚 構と思って読み、そこで眼前の男におれがやったことだ、と云われるという状況、すなわち、虚構がいきなり眼前で否定しようもない姿で現実に変貌するという 事態が問題なのである。芥川についてこの草稿に絡んで言及が為されるとき、安吾は芥川が現実からではなく文学的知識から小説を書いていたというかれの考え との関わりで問題にする。この挿話で問題なのは、芥川の、テキストと現実との関係についての態度なのであって、恐らく、単に芥川がこの人物から小説という ことを介さずに事実としてこの話を聞き、そこでおれがやったのだが、あんたはどうおもうね、と聞かれたという話であったら、「突き放される」経験の例とし ては機能しなかったのである。
 伊勢物語の例にはより、明確な限定が存在している。典拠から逸脱してしまっていることでも有名な、「ぬばたまのな にとぞひとの問ひしとき露とこたへてきえなましものを」の歌が伊勢は歌物語であるから本質的な位置を占めてこの挿話を統括しており、単に状況としても、長 年思った女とようやく逢ってそのときあっさり鬼に女が食われてしまったというだけでは、例として不適切なのであって、問題なのはやはり、露のことを女があ れはなにと聞くという所作が介在してこそ、ということである。
 このときひとが突き放されたような思いをするのは、本文中で安吾が解説しているよ うな理由によってでもあるのだが、より詳しく云えば、女がそういう問いをした、ということがクローズアップされることで、彼女の事実認識や予期と、彼女に 降りかかる現実との間の「落差」が強調され、しかもこの落差がほかのどんな論理によっても埋められないままであるからである。
 以上のことから、 「文学のふるさと」に於ける「突き放される」経験というのは、単に他者によって主体が裏切られる他者経験のことではない。そうではなくて、或る具体的な形 象について、一方ではそれがつよい感情的な強度を持つものでありながら、他方ではまったくそれと矛盾するような意味を平然と共存させていて、両者を統合す る論理や意味づけがまったく存在しないという場合におきる経験のことをさしているのである。そしてこのような意味の多重性は必然的に関与する人物の複数性 を要請するのである。 

 第三章 「白痴」に於ける女性像

 小説「白痴」の初出は昭和二十一年六月一日「新潮」誌上で あった。ここで特徴的なのはその不毛性である。つまり、子どもや豊穣性が、その小説世界において、重要な役割をはたすことはほとんどない。「風と光と二十 の私と」(1947-S22/1 「文芸」)におけるような「子ども」は、幼さにおいて子どもと呼ばれ扱われているのであって、家族的、系譜的意味での「子ども」、「息子/娘」として扱わ れているわけではない。もちろん、晩年の「狂人遺書」(1950-S30/1 「中央公論」)などでの「わが子」という形象の重要性は無視できないものではあるが、この子どもも、豊穣性、多産性とは縁遠い形で扱われている。かれは死 にゆく秀吉の妄執の対象であり、ほろび行く豊臣家の最後の跡取りであって、むしろ、最後のものというイメージのほうが優勢だろう。しかしとりわけこの不毛 さが重要なのは、かれの作品の男女関係が、未婚、既婚を問わず、出産というものを抜きにした、あるいは中心としないかたちで描かれているという点において である。作品の周辺部においては、妊娠や出産が描かれはするものの、それは性行為の付随的結果としてであって、その目的なり、達成なりとして描かれはしな い。
 「白痴」においては、仕立て屋に間借りしている家鴨に似た娘という人物が、唯一妊娠中であり、多産性とかかわりをもつように見える。しかし ここでも、娘は「ひどく痩せこけていた」と描かれ、家鴨と滑稽なダブルイメージを与えられることで、母性の一般的理想化とは程遠いといわざるを得ない。少 なくとも女性像として母性のイメージは希薄だといえる。
 主人公の伊沢が交渉をもつことになる白痴の女とのかかわりも、徹底的に不毛なものであ る。白痴の女との交渉によって伊沢がえたものは、なにか積極的な希望なりなにかなりではなく、全面的な白痴状態であるにすぎなかった。むしろ、白痴の女 は、伊沢の人間主義的な外皮を剥ぎ取る機能を果たしたといえるだろう。
 このような不毛さはどこからやってくるものなのだろうか。たしかに伊沢の すむ路地は乱脈をきわめた「交雑」の場であり、秩序がゆるみ、混淆が進行する、カオス的な「不連続殺人事件」の世界と通ずる乱倫の場であると評価すること はできる。しかし、同時にこの「交雑」空間は不毛さにも浸されており、戦後的な交雑、「堕落論」(1946-S21/4 「新潮」)的な「堕落」の健康な楽天性と豊穣性とはきっぱりと異質だといわねばならない。要するに、この「白痴」の時空の戦時下という条件を無視して、戦 後風俗と同一視することは許されないということなのである。ここにはまだ日常にも濃厚に死の影が落ちている。戦争下でも健康にいきていた猥雑な庶民の生態 をえがく、といった評価を不可能にしているモメントもまた、この徹底的な虚無性と不毛さだといえるだろう。
 それでは、こうした猥雑な庶民という 神話と断絶した安吾の物語構築の志向するものはいったい何だったといえるのだろうか。確かにこの小説に人間の原像がえがかれているといった評価には一定の 根拠が存在する。極限状態で伊沢は白痴の女とむきあうことでさまざまな外皮を剥ぎ取られてしまう。安吾にとってはいうまでもなく、庶民性は人間の原像とは 程遠いものとして認識されていた。「小さな善良」は「絶対の孤独」を隠蔽するものでしかない。そのことは同時期の評論から確認することができるが、ではこ の「絶対の孤独」の内実こそが全般的な不毛さにつながっていると見るべきなのだろうか。
 ここで、不毛さを問題にすることが重要なのは、伊沢と白痴の女オサヨとの関係の形式を規定することにつながってくるからである。ここでは女性の形象は不 毛さとそれと対比的な淫蕩さとしてあらわれる。不毛な乱交性が肯定的な価値を持ってくるのである。
  いうまでもなく、この小説の中心的対象がこの男女であるということは動かしようがない。しかし、他方で、前半の路地の描写と、中盤の伊沢の死んだ情熱と映 画会社の描写と、空襲以降の「道行き」(浅子逸男)の部分との有機的連関があまり見えにくいということも確かであるように見える。三つの物語の場としての 路地と会社と空襲とは互いに緩いつながりしか持たない。例えば、大空襲が始まると路地の住人達は物語から姿を消し、非人称的な匿名の群集にとってかわられ てしまう。もちろん、伊沢という主体の内面、意識という場をドラマの実際の場として指定すれば、ある統一的な、たおえば「無表情な白痴を相手にした道化が 己の演技の無効であることに索然とした話」(黒田征「白痴」論-坂口安吾の素顔 1975-S50/2 「解釈」)といった物語を描くことはできるのだが、そうした「魂のドラマ」だけがこの小説の実体であろうかという疑問はのこる。語り手は多くの場合、伊沢 と立場や視線を重ね合わせてかたるために、あたかも小説内の出来事はすべて、伊沢の意識との関係という観点からのみ意味をあたえられているかのように見え る。一個の機能として伊沢という「人物」が、物語を時系列にそって統一するということは、必ずしも物語の焦点がそこにあるということを意味するものではな い。この小説で重要なのはむしろ、伊沢の内面史やその展開などではなく、かれの意識を媒体として立ち上がってくる、ひとつの世界と、そこでおきつつある混 沌とした力の場であろう。「つぎにどうなるのだろう」という興味とはまったく異質の、寸断された葛藤の状況にたちあう感触がこの小説をささえているものと 思われる。
 いいかえれば、いままで多くの指摘があるように、「白痴」は近代小説的な意味での、問題=解決の構造を持たず、寸断された情景の部分 が、暴力的に中心となる男女を介してつなぎあわされた、矢印としての「進歩発展」のない小説として、一見中途半端な印象を与えかねないところがある。事態 は転変するが、それは中心となるテーマが弁証法的にその真理をあきらかにしていく過程などではなく、ただ、没主体的に転変していくといった感が強い。空襲 も、白痴の女の侵入も、大局からみれば無理もないという意味で蓋然的であるが、しかし、実際には全くの無意味な偶発事である。ひとことでいえばこの小説で は出来事は暴力的に侵入してくるので、ひとつの「過程」を形成しはしない。だからこそかろうじて伊沢の自我意識が、かりの統一を、想像的に与える機能をに なうのである。この暴力的に寸断された形で侵入してくるという形式は描写される事物についてもいえる。豊穣な庶民的交雑空間とみえた路地は、むしろこの観 点から見て、交雑というよりも交通の不可能性として現象する。なぜなら、ここで問題なのはむしろ、決定的な関係が欠けていることだからだ。妾や近親相姦と いうかたちでくりひろげられる関係のかたちは刹那的で不毛な、いかにもファシズム=映画的な終末意識の中で、決定的に暫定的なものとして滑りながれてう つっていくだけであって、どの関係も、「女」が増殖することによって多数化したというよりは、寸断されることで多数化したというべき印象をあたえる。
  家鴨に似た娘は妊娠後、痩せこけている事実もこの寸断と無関係ではないだろう。不毛性の印象も、多数化した諸部分を統合すべき全体性としての「大地」の欠 如を明示しているのだろう。ここで注意しておくべきなのは、この寸断の様相は安吾にとって、自然の疎外状況として捉えられているのではないということであ る。そうではなくて、全体性、豊穣性こそが、自然の疎外された様態であると安吾はみなしているのだ。安吾の自然はあらかじめ寸断されている。だがまた同時 に寸断された諸部分は連続していない代わりに交雑しあう。寸断され、複数であるからこそ、間隙と落差が存在し、この二者によって初めて諸事件が可能になる というわけである。
 このときに、やはりそうした近代小説的観点からの逸脱としてまっ先に手がかりを与えるのが、まさにこの不毛さと、偶発性、そ してなにより多数性である。過剰な多数性というのはつまり、この小説が目的論的な一定方向をもたず、過剰な方向をもってしまっているということをしめす。 伊沢と白痴の女の「地獄巡り」には作品構造から予想されるような必然的帰結というものが備わっているだろうか。かれらの空襲下の逃走と全くおなじように、 どちらへ、どこをさしていっても同じ結果になるような、無数の開かれた出口がまっているにすぎないのではないか。通常の小説のようにある結末をあたかも必 然的結果であったかのように読者に遡って偽装することでなりたつ結末(この構造の特徴的な、そしてそれゆえにこそまた、そこからの逸脱ですらある例が探偵 小説である)とはこれはまったく位相を異にする。それゆえにこそ、作者は小説を「休止」「停車場」という結節点的な過渡的「中間点」のイメージで終わらせ ざるを得なかった。決定的結末が、全体性とともに不在であるなら、終わる一瞬前の、可能状態の休止を、終わりの代理物として提示せざるをえない。
  それでは、こうした寸断された世界イメージがこの小説の主眼なのだろうか。そういってしまうことには躊躇いが残る。しかし、かといって伊沢という個人の意 識の物語をふたたび中心にもってくることにはさらに強い違和感がともなう。たしかに伊沢という個性は、本質的には単に受け身の狂言回し的機能しか果たして いないにしても、映画産業とのかかわりでかかれるそのロマン主義的な造形は、かなりの筆を費やされており、なんらかの意味で視点人物であるというだけのも の以上の重要性は持っているに違いない。伊沢の言葉そのものには、やはり陳腐というしかないのであって、やはりかなり相対化された造形であると思われるの だが、かれが重要なのは、出来事がかれの意識におこす波瀾においてではなくて、おそらく、他者、とりわけ白痴の女との関係において逆上してかれが吐く言葉 と、かれの現実の行動との不一致においてである。伊沢の多く地の文と同化した形で語られる感動の水位のたかい発言には、それ自身の意味と同時に、明らかに 伊沢の身体的本心を隠蔽する機能をも果たしている。伊沢という人物が重要、というより興味深いのはその、本能的とまでいえる「いいわけがましさ」、「大仰 さ」なのであって、かれはなんらかの形でそこに意味や積極的意義をあたえて、出来事を聖別せずにはいられない。伊沢のこうした人物造形の意義というもの は、たしかに、道化としての役割も大きいのだが、やはり白痴の女との対において考えるべきだろう。客観的に見た場合、伊沢と白痴の女との関係は、どちらが 主人でどちらが奴隷であるのか容易には結論しがたいたぐいのものだ。伊沢はものいわぬ女に奉仕しているとみても矛盾は出ない。
 この関係は、安吾 の作品史にそって類例を考えてみると、ただちに、その淵源を「風博士」の風博士と蛸博士、それに風博士の白痴的と称しても過言ではないような新妻に見るこ とになるだろう。伊沢はその行動の、意識による後付けの意味付けによっても糊塗しえない突飛で衝動的な無意味さにおいて、「風博士」の後継者としての意義 を白痴の女とともに担っているのである。ではその意義とは何だろうか。
 伊沢は昭和二十年時点で二十七であるから、昭和初期のプロレタリア文学全 盛と風俗的モダニズムを十代で通過し、左傾する間もなく社会に出たときにはもう決定的に軍国化が進行していた世代に当たる。「芸術の独創」といった伊沢の 大正モダニズム的な発言はそれだから、決して身についたものとは言えない。現実から遊離したかれの信念は多分にうえの世代からひきつがれたものだ。おくれ てきた「芸術派」としてのかれの精神性には、だから、裏返しの、過剰化された、予め不在の「純粋芸術性」への憧憬があるといっていいだろう。その彼の造形 がここで作品構造のなかで意義をもつのは、かれの内面性においてではなくて、かれの観念的無鉄砲さが、すでに寸断されている世界に、一本の「逃走の線」 「廃虚を縫う道」をひくからである。伊沢は事態を過剰にややこしくする。考え過ぎるために、仕立て屋の夫妻のように、着実で理性的な対処をとることができ ない。
 その意味で仕立て屋と伊沢の対比は重要である。仕立て屋の理性とくらべると、伊沢の理性は、どこか狂気を孕んだ過剰な理性である。かれの 理性が均衡を失しているのは、単純に、基礎を欠いているからだ。おのおのの判断としては合理的な判断が、全体として見ると不合理なものになるのは、諸判断 を一貫するものがないからである。伊沢はこの意味で、たしかに道化であるし、ファルス論の問題意識とこの作品は遠いところにあるわけではない。しかし、伊 沢が逃走の線をひくというとき、この道化としての造形は、ファルスや滑稽化、相対化という側面において重要なのではない。そうではなくて、あくまでも、そ の観念的無鉄砲さが、かれの過剰で直線的な行動をみちびくという、構造的機能の点において重要なのである。
 この小説は大局的に見たとき、二つの 物語行為からなる。白痴の女の隠匿と、空襲下の逃走である。どちらも、伊沢にとって引き受けられた主体的行為であるが、実際には強いられた、偶発的な出来 事でしかない。伊沢はこの一次の出来事(女の来訪、空襲)に対して、過剰な意味を付与することで、二次の出来事(同棲、逃走、とりわけ群集からの決別)を うみだす。このとき、重要なのは、伊沢があたえる過剰な意味はあくまでも、二次の出来事を誘発するだけであって、かれがあたえた意味やその意味から予想さ れる、たとえば「可愛い女の誕生」といった結果は決して実際にはおきないということである。にも関わらず、かれのさきばしりがなければ、この小説の物語行 為そのものがおきないということは明白である。伊沢の幻想はしたがって疑似餌として作用する。
 では、かれのこのとき体験される幻滅が主題なのだ ろうか。これもまた相当に疑わしい仮定である。なぜなら、このように仮定して読むとき、この小説は曖昧でありすぎるからだ。伊沢は十分に幻滅する間もな く、移り気につぎのことに意識を移らせてしまう。かれの意識はたしかに空襲経験によって、あるいは白痴の女との生活が結局汚辱でしかなかったという体験に よって、幻滅というか、去勢されるのであるが、しかし、この幻滅なり去勢なりもまた相当にそこの浅いものだといわねばならない。正確にいえば、ここでおき ているのは、幻滅というよりも、はりあいが抜け、その気がなくなる、心が移るといったことなのであって、幻滅においておきるような激しい精神のドラマでは さらさらなく、逆説的な、反発といった形の固執もないのである。このような曖昧で意味のない出来事が、この小説の焦点にあると考えるのはやはり無理がある だろう。平野謙の「傑作になりそこねた力作」(小説月評-坂口安吾「白痴」「外套と青空」、1946-S21/10 「人間」)という評価も、こうした遠近法から生じてくる錯覚だろうと思われる。
 問題なのはそれだからあくまでも伊沢と白痴の女の「地獄巡り」の過程がきりひらく、線、その図形なのであって、その結果なり、意識への反映なりではな い。

 白痴の女オサヨは流出する不定型の実体として理解することができる。

 このように潜在的にあったとしか説明のしようのない逃亡願望の体現者として、白痴の女はうってつけであった。オサヨは、気違いの男が四国を行脚したとき どこかで見初めてつれてきた。まさにどこの馬の骨とも知れない女であり、謂わば非定住者である。

  と、浅子逸男は「坂口安吾私論-虚空に舞う花-」(前掲)で述べ、「逃げたい心」などの逃亡願望にむすびつけている。彼女は、「気違い」によってかれの家 に幽閉され、ついでそこから遊離して、伊沢にふたたび捉えられる。逃げさる女アルベルチーヌのように、オサヨは浮遊し流出する。そのオサヨを伊沢は外聞を おそれて絶対的に封印しようとする。このような文脈でよんでくると、東京大空襲は、オサヨという女性的実体の、あふれだす激烈な反作用であるように見えて くる。「気違い」の女房であったときにくらべ、伊沢に幽閉される彼女には、より強大な封印する圧力がかかっていた。もちろん、東京大空襲をそのような形で 神話化することは、物語の専制に身を任せ、伊沢と白痴の女にかかわりのない死者達を、すくなくとも意味の上でテキストから閉め出すことになり、その代償は おおきなものとなるだろう。だからここで指摘しておくべきなのは、いづれやってこずにはいなかったオサヨの溢れだし、流出が、大空襲という契機と、偶然に 一致したということの重大さである。あくまでも偶然でありながら、この一致は、女と伊沢の関係の転変におおきな影響をあたえることになる。つまり、事態に 一気に、強引に神話的次元が付け加わってしまうということである。この点で、夜長姫や桜の森の女を考えてみるべきだろう。いわば「雪女」的な女たちであ り、天人女房系のさまざまな説話の伝統の後裔にも当たっているはずである。
 しかしそれではなぜいままでこのような神話的観点がほとんどなされて こなかったのだろうか。それは主に、白痴の女の恐怖の「顔」が強調されることで、空襲の絶対的な他者性と女の卑小さが印象付けられているからである。まさ にこの点に、「白痴」を「桜の森の満開の下」と対をなす小説として読むときの困難が存在する。白痴の女は桜の森の女のように魔的な加害者としてあらわれて いるのではなく、徹底的な受動性によって刻印付けられた被害者としてあらわれているかのように見える。しかし、この見かけの差異はじつはそれほど重大なも のではない。考えてみれば、桜の森の女も当初は山賊の刀に夫を殺された受け身の被害者であった。ここで、加害/被害の関係、能動/受動の関係は再考をせま るものとして、転倒したかたちであらわれてきている。
 白痴の女オサヨと桜の森の女の存在形式はみかけほど懸け離れてはいない。彼女達は実質的に は男に幽閉され、依存して、受動的に、現実と遊離した「肉体」あるいは「花」として存在しているに過ぎないが、同時に、あらわれとしてはあたかも男のほう が女に従属しているかのような見かけを呈す。もちろんこうした従属は一方的な支配というよりは相互依存的な、鏡像的な状況の表現にすぎない。これは安吾の 妾礼讃とも関連する、非家庭的な、多産性との比較では不毛だがより純粋な、二人称的男女関係である。
 「白痴」の女の虫のごとき自意識を欠いた身 体的、絶対的恐怖の表現は、伊沢にとって、ある「おぞましきもの」としてあらわれる。しかしこれはまた「風博士」の可憐な花嫁の悲劇に対する無邪気さの反 復でもある。まさにこれは無防備に曝された問いかけとしてのリアルな「顔」である。このおぞましさは、桜の森における「首遊び」の表現にも比せられるもの だろう。彼女が空襲に対して激烈な恐怖をあらわすということは、必ずしも、彼女が、空襲と同質の本質を所有しているということを否定するものではない。や はりここでも、「桜の森の満開の下」の女と桜の森そのものとの関係が類比的なものとしてあげられるだろう。ただ、ここでも事態が錯綜してくるのは、すでに 述べたように、空襲そのものを神話化することは安吾は慎重に避けているということである。空襲が起きることはあくまでも蓋然性の問題であり、一旦、空襲が おきればそれが物語の中で神話的な役割を果たすということとは、また別の問題である。従って、白痴の女が、空襲とパラレルな存在性質をもって神話的なあら われをとるのは、あくまでも、伊沢との関係においてであるということは、銘記しておくべきだろう。空襲そのものが神話的なわけではまったくない。
  奥山文幸(坂口安吾「白痴」論-聴覚空間のアレゴリー劇、1991-H3/5「近代文学研究」)が指摘するように、「白痴」の物語には、三月十日と四月十 五日の二つの大空襲が刻まれているため、地久節(皇后誕生日)三月六日前後の「母の日週間」という時間性が象徴的に埋め込まれている、ということを考える ことも不可能ではない。白痴の女と気違いの男が「相当教養深遠な好一対」としてみられ、気違いが「度の強い近眼鏡をかけ」と描写され、訓示をたれたりする ということを考えると、この夫婦が、皇室夫婦に象徴的に擬せられていることは動かしがたいことのように思われてくる。そのように考えたとき、「気違い」の 家が侵入しがたいものとして、路地のどん詰まりに設定されていることも、「禁裏」のイメージと重なりあって理解可能なものとなる。
 しかし一方 で、皇室への参照軸によって損なわれる普遍性と得られる政治性は、すぐさま、そうした神話軸そのものが寸断され、崩壊することで、より高次の統一を獲得し ているかのようにみえる。というのは、結局、王のイメージは、全体性と、統合する自我のイメージと不可分なものとして存在するからであり、この「白痴」と いう小説は、こうした主体性の寸断の物語としてあるからである。神話性そのものは、象徴性の、特殊な形式として存在している。神話性とは、現実を、超越的 秩序の従属的な反映として理解する形式であり、その超越的秩序の「全体性」の焦点として、王のイメージが賎民のイメージとかさねあわされたかたちで存在す る。円環の二つの極がこうして閉じることで秩序は自足的に完成するのだが、象徴性一般はかならずしもこういうものではない。現実が超越的実在と二重写しに されるにしても、超越性全体と現実全体が、対応する必要はないのであって、混沌とし、寸断された超越性と、散乱した形で現実の諸部分が、一対一ではなくば らばらに対応するということも可能なのである。つまり「白痴」は、政治的寓意性をはらみつつも、そのさまざまな見立ては、必ずしも、一貫した体系をなして いるわけではなく、あえていえば、局在しているのである。
 こうした観点にたってふたたび、地久節と天皇夫婦への寓意というものの小説に対する意 義を考えてみると、ともかく問題になるのはやはりオサヨの位置のゆらぎというべきものだろう。彼女は象徴的意味においても、現実の位置においても、きわめ ておちつきのない状態にある。第一、この対応の見かけは一旦、四月の大空襲がはじまるとぬぐい去ったように消えてしまい、「気違い」自体がオサヨの移動と ともに物語から完全に姿を消してしまうのである。この一点からから見ても、ある時点で正しかった読み、象徴的対応がいつまでも正しいとは限らないというこ とは確実なように思われる。ともあれ、路地の場面で仮設されるこの象徴性は、伊沢の映画会社での「二百円の悪霊」の観念との明確な対応を示しているように 思われる。伊沢の現実は、列島内部の日常現実によって強力に規定されており、列島を支配する天皇制神話と、プロパガンダ映画の作成を通じて、強力にコミッ トメントしている。かれと白痴の女との関係は、密通として、伊沢にとっては、もっとも強烈な侵犯を形成する。白痴の女が天皇制的な神話性によって、聖別さ れているからこそ、この内通は、天皇から女を奪うことに象徴的に類比されるのであり、そうであればこそ、かれの倦怠と絶望にみちた現実を内破させるだけの ポテンシャルをはらみうるのである。しかし、伊沢が、無意識にもせよ、この夫婦を「王」として措定したという事実は、小説の作品としての次元にも干渉せず にはおかない。それはしかしきわめて逆説的で繊細な天皇制への批評である。つまり、天皇制的な、「王」の観念とは、密通によってのみ要請され、密通へのア ンチテーゼとしてのみ幻想的に存続しうるのだということである。天皇とはつねに密通されつつ気がつかない不能の善良なコキュとして想定される。特殊な王と しての天皇はつねに、「・・・の本来の所有者」という形式で君臨するからである。この認識はとうぜん、前述の、没主体性、不能性とまっすぐに連絡する。コ キュへの表沙汰にできない優越感と罪悪感の共存こそが臣民をつくる。
 伊沢はこのような認識に立っているわけではむろんなく、むしろこの神話を、 侵犯を聖化することで強化さえしてしまうのだが、しかし、かれが「二百円の悪霊」に象徴的次元で抵抗しようとするとき、主題として密通が必然的に、オサヨ をめぐってあらわれるということそのものは、かれの日常現実においてのリアルを暴露しているといっていいだろうし、かれの観念的過剰性のここでの、批評的 側面からの意義とは、すでにあらかじめ天皇制に観念的に内包されている密通を実際に行為してしまうということだろう。しかしまたこの小説での伊沢の機能が そうであるように、かれの密通は、聖なる侵犯として「新鮮な」別天地をうみだすこともなく、現実を変革するものの、それは決して伊沢が予想するような変革 ではなくつねに、単なる去勢、冷却として結果するにすぎない。これは「二百円の悪霊」とはたしかに観念の神話的な掟でもあるが、それ以上に単なる唯物論的 な、それゆえに他者的な規定だからだ。だから、小説としてのレベルでは、むしろ、より重要なのは、伊沢が白痴の女オサヨの実体を、とらえかねて、てはじめ にかれのはまりこんでいる天皇制的日常性のもつ神話で、処理しようとしているということだろう。

 こうした男女の対が重要なのは、「桜の 森の満開の下」や「風博士」との類比で理解されるような、精神と肉体の二元論にまつわる問題意識、とくに「主体性」の幻想が成立するために必要な、相補的 な男女の側面が描かれているからだが、それ以上に、全体的な視点から重要なのは、この対が、齟齬しあうことによって、はじめて、物語を行う、ということで ある。つまり、かれらは、この組み合わせで始めて、逃走を開始するのであって、しかもそのときどちらかが主体であるということはない、ただ相互作用が結果 的に逃走としてあらわれるという状況になっているのである。
 かれらが、空襲という時点で、天地の崩壊のなかで、無目的に彷徨するとき、読者の前 にあらわれてくるのは、ほかでもなく、切り裂かれた時空のなかで、突然、露呈される様々な部分である。とくに、特徴的なのが、三月の空襲の跡地でみつかる 無数の女の寸断された部分である。ここで、女たちは女とだけ呼ばれ、あたかも、白痴の女の身体が寸断され増殖したかのように、多数性と同一性を付与されて いる。
 過剰に、寸断された部分を一定以上の強度で、おしながすとき、それらの諸部分の、隙間に、背景の「白」が、無言の強烈な差異と力のせめぐ 空間としてのぞけてくる。それは意味がそこからたちあがってくる基質とでもいうべき、背景の白さであるが、「白痴」の意識のホワイト・アウトでもあり、夜 の白む白さ、境界の裂け目からのぞく白さでもある。白さという色彩はあらゆる色彩をなかにひそめる天然白色光でもあり、白熱する発光体のもつ色彩でもあ る。この白さが、小説「白痴」のなかに、「気違い」の発心の白衣などのように特徴的にあらわれるということも示唆的であるが、その象徴的意味が、部分を羅 列することで構造を破壊する「白痴」の男女の道行きと、対応しているということもまた、決して、偶然ではないと思われる。
 端的に、解釈すれば、 伊沢は、白痴の女オサヨと対になることで、単独で逃げている場合とは全くちがう反応を空襲に対して示している。それは、高揚し、逃げることに積極的な意味 をあたえているということだろう。この視点と行為だけが、空襲下の廃虚空間に、「現実」の基礎にある、象徴的には白さとして、そして意識のありようとして は「白痴」として表現されるような、リアリティーを露呈させることができたのだった。なぜなら、過剰に観念的な視点だけが、生命の危機における知覚の寸断 にもっとも敏感に反応し、その影響を受けるからである。仕立て屋のような主体は、戦争状況における知覚の寸断でさえも、現実的な再構成を無意識のうちにほ どこし、編集してうけいれやすい連続性と全体性をつくりあげてしまうだろう。また、過剰に饒舌でありながら、決して合理的とは言えない伊沢のような行為者 だけが、外部の混乱だけではなく、内部でも生じる、意志の去勢をあらわにするからである。伊沢のように落差のおおきな失敗を、主観的には合理的で意志的な 行為において経験してはじめて、読者は、物語世界が内的にも外的にも、主体性が壊れているのだということを実感する。
 従って、ここでは女性像は もはや憧憬の対象としてではなく、寸断された廃墟的な現実を一方では動物的で死体的な様相で表象すると共に、他方でその破壊のあたかも主体で在るかのよう に描かれることで異様な白さをおびたおぞましさを露呈するものとして扱われているのである。女性は、蛸博士の禿頭のおぞましさと、流出し一瞬たりとも同一 ではいない風の速度を内包するものとして、ひとつの結節点を構成しているといえる。ただし、女性はあくまでも速度的な場を出現させる、というものとしてと らえられているのであって、彼女自らが速度の行為者となるわけではない。

 第四章 説話小説の展開

  一般に安吾の作品で説話的な作品として挙げられるのは「閑山」(1938-S13/12/1 『文体』)、「紫大納言」、「桜の森の満開の下」、「夜長姫と耳男」である。福田恆存が銀座出版社版の「坂口安吾選集」の第三巻解説(1948- S23/4)で、

 人間存在そのものの本質につきまとう悲哀---それを追求しようとして、素材の持つ現実性が邪魔になり、坂口安吾は「閑山」「紫大納言」「桜の森の満開 の下」のごとき説話形式に想いいたったといえよう。

  と系列化して以来、その後に書かれた「夜長姫と耳男」を加えて「説話形式」としてひとつながりのものとして考察されることが一般化したと言っていい。これ らの作品には、「今昔物語集」などの説話文学との形式や内容のうえでの類似のみならず、互いにテーマ的にもストーリー的にもかなり大きな類縁関係が認めら れる。「閑山」に関しては女性があらわれないが、他の三作品は孤独な男と美しい異界の女との関係を描き、消失や死を結末としている。「閑山」に関してもそ の結末に限って云えば「桜の森の満開の下」ときわめて類似しているといわねばならない。

 どよめきは光と共に掻消え、あとは真の闇ばか り。ただ自らの笑声のみ妖しく耳にたつことを知つたとき、むんずと組みついた者のために、旅人はすんでに捩ぢ伏せられるところであつた。必死の力でふりほ どき、逃れようと焦つてみたが、絡みつく者は更に倍する怪力であつた。精根つきはてて抵抗の気力を失つたとき、組みしかれた旅人は、毛だらけの脚が肩にま たがり、その両股に力をこめて、首をしめつけてくることを知つた。
 ふと気がつけば、草庵の外に横たはり、露を受け、早朝の天日に暴されてゐる自分の姿を見出した。
(「閑山」)

  男の背中にしがみついてゐるのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落とさうと しました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくひこみました。彼の目は見えなくならうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その 手の隙間から首をぬくと、背中をすべつて、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、 彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えてゐました。
(「桜の森の満開の下」)

 雪女の昔話や、浅茅が宿の物語と同様、説話形式にあって問題なのは或る移行の経験だということがいえそうである。

 第一節 説話形式の生成

  説話形式の作品系列の生成を考察する上でまず考えねばならないのは「閑山」である。この小説はのちに書かれることになるこの系列の作品に比べて笑劇的要素 が強いことと、女性形象の不在とによって特徴づけられていて、一見して、同列に論じることを躊躇わせる物がある。その意味では狭い意味での「ファルス」と 説話作品との結節点にこの作品が位置するとみなしていい。
 しかし「閑山」にいわゆる女性的なものが全く欠けているわけではない。「閑山」で問題 になるのは「花」である。すでに安吾は「FARCEに就て」で、世阿弥の「花」を取り上げ写実に対立させて述べているが、しかし元来、「花」の観念は男性 にとっての女性の華やぎや美しさといったエロティックなものを基盤として結晶化されたものであった。従って、ここで問題なのはむしろ、「閑山」に女性が欠 けているということよりも、その表現のなされ方である。この小説で主題の一つになっているのは無論「放屁」を巡る身体が精神を裏切る様相と、そこからうま れる滑稽味である。しかし他方では変身譚としての幻想的な「花」のイメージにも彩られている。また、放屁とは身体が個人的に完結しようとすることの不可能 を示すものでもあるだろう。
 こうしたことがどのような論理でつながっているのか、ということは、これから書かれていく説話形式の作品群を考える 上でひとつの鍵を与えるものといえる。デフォルメとの関わりで造形されていくグロテスクな側面をも持つ美がその後の作品では重要なモメントを占め、そのこ とが孤独や切なさを裏打ちとして持つという構造の生成が、「閑山」の構造からの変異として理解され、またその変異の必然性がそこで明らかにされるからであ る。実際、この説話形式の作品の系列を見ていて明らかなのは、滑稽な要素がだんだんと希釈化されていき、ついに「夜長姫と耳男」ではほとんど認めることが 出来なくなるということである。
 「閑山」は、或る意味で「風博士」の結末から書かれた蛸博士の後日譚という側面を持っている。花の文字はまた風 博士の変身したインフルエンザのウイルスの類である。即ち、六袋和尚と団九郎狸との間には隠された分身的関係を見ることができるのではないだろうか。団九 郎狸が、晩年の六袋和尚の孤独が結晶した幻想の産物であったとすれば、かれは和尚が抑圧し、みずから済度することができなかった獣性である、ということに なるだろう。むしろ獣性と精神の矛盾を一身に体現した存在として、呑火和尚は存在する。
 この点で重要なシーンは結末近くで小坊主たちが舞うシー ンだろう。このシーンは一見して素通りしそうな普通の調子で書かれているが、考えてみると不可解なところが多い。これは団九郎狸の遊戯のごときものだった のだろうか。狸の性としての幻惑として理解するならば、のぞき見しているものの存在に気がついた途端に消失してしまうことが不可解になる。しかも、この時 点ではすでにかれは死去している筈であって、旅人をまどわしたあやかしはいったい何者の為したことかと疑わざるを得ない。まして、なぜ、この怪異は旅人の 首を絞めつけようとするのか。生前の団九郎狸は厭世的で一途に出家遁世を願ってこそいたものの、そうした行為に走るきざしはかけらもなかった筈である。

  そこは広大な伽藍であつた。どのあたりから射してくる光とも分らないが、幽かに漂ふ明るさによつては、奥の深さ、天井の高さが、どの程度とも知りやうがな い。さて、広大な伽藍いつぱい、無数の小坊主が膝つき交へて蠢いてゐた。ひとりは人の袖をひき、ひとりはわが口を両手に抑へ、ひとりは己の頭をたたき、ま たひとりは脾腹を抑へ百態の限りをつくして、ののしり、笑ひさざめいてゐた。
 (「閑山」)

 この舞いの空間は、まずなによりも 「桜の森の満開の下」に於ける花の下との関係で理解すべきものであると思われる。幻想的なこの二つの空間は、その花と複数性と速度と無際限さによって特徴 づけられている。一方には滑稽さが、他方には虚空の恐ろしさが割り当てられているが、しかし畢竟この両者の強い関係性は見まがいようもない。つまり、この 二つの空間の関係は、恐らく、「ファルス」と「文学のふるさと」の間の関係に類比的なのである。実際、「閑山」の結末部では、桜樹の林が団九郎狸の塚のま わりにつくられることになる。
 
 「閑山」から「紫大納言」への変遷を理解する上で何よりも重要なのは、「閑山」での団九郎狸は飽くまで も外面的に、その心理に立ち入らない形で描かれており、小説の後半になればもはやその視点からではなく寺を訪れるひとの視点から客観的に描かれるだけと なっており、その点で飽くまでも内面に即して語られる「紫大納言」と異質だということである。これは一方では説話という形式にその後の作品よりも忠実であ るための現象で在るともいえるのだが、同時に、この客観的な扱いが、ストーリー性をあまりもっておらず、断片的なエピソードの連鎖で出来上がっていること とも即応している。主人公と女性形象との緊張感を孕んだ対峙という契機を欠いているために、この小説はたしかに幻想性とユーモアをふくんだ佳作となり得て はいるが、後の作品に於いて展開されることとなるような、団九郎狸の内面的葛藤や孤独といったものを描き出すことはしていない。従って、読者にとっては、 途中までの放屁に悩む求道の主体として団九郎から、後半になって現れてくる不可思議な幻想的存在としてのかれへの変化がやや唐突に映る。勿論かれはことの 始まりから変身や幻惑の通力をもった存在として立ち現れるのであるが、その内面を追っていくことが困難になってくるために、同じような行為であっても不可 思議な、幻想的な現象としてしか把握されないことになる。物語のなかではいちおう、後半のかれが人間を幻惑するのはその干渉を厭ったからだという理由付け があるのだが、飽くまでも事件は外面的に描き出されるに過ぎないので、その一々の場に於けるかれの具体的な動機は曖昧な推定による他はない。
 こ うした特性そのものは説話形式の小説としての「閑山」そのものにとっては瑕疵となってはいない。内面が直接描写されないということがそれ自体として欠陥で あるということはありえないからである。ただ、その後の展開から遡行的に見たとき、こうした心理的な側面への関心の欠如は際だって映る。近代的な心理劇と は勿論違うものだが、その後に展開していく説話形式の小説群はどれも、心理に於ける出来事が物語の大きなウェイトを占めており、その為に語り手はかなり踏 み込んで人物の内面を直接描写する。
 ここで問題になってくるのは、ではこのような遷移はどのような必然によって生み出されたものなのか、という 点である。説話形式という点からいえば、「閑山」のような形式が自然なのであって、たしかに芥川の説話形式の小説のような先行の試みはあったものの、心理 的な内容を組み込むということには方法的な意識と必然性が想定される。
 「閑山」という作品に具体的に即してみていく限り、やはりここで問題とし て見出されるのは、さまざまなエピソードを統一する原理のようなものが欠けていて、そのために、作品の展開の論理がたどりにくい、ということではないだろ うか。それは本来存在するはずのドラマが後景にひいて見えにくくなっているということでもある。いったん、「閑山」を書き終えた安吾がつぎに説話形式の小 説を書くとき、きわめて異質な方法をとったのは、この「閑山」のなかにありながら、意識化されなかったがために不十分なままにとどまった論理なり志向なり をより意識的に展開させようという意図があったのではないだろうか。
 「閑山」は、動物が発心する物語であり、花塚という塚の縁起譚であり、六袋 和尚についての高僧伝でもある。またそれは怪異譚でもあるのだが、同時に滑稽譚でもある。しかし、素材に於いてはともかく、安吾の作品化の方向としては、 何よりも精神と肉体の葛藤の物語としての性格が強い。と、同時に幻想物語としては、孤独な思索者の経験する幻想としての面をも持つ。団九郎狸の出現の仕方 から夜中に舞い騒ぐ小坊主たちの映像まで、何処か官能的な、分裂症的なイメージとしてとらえてよいのではないか。これらのイメージはむしろ、「田園の憂 鬱」のなかで主人公が経験する幻想に近い性格を持つものとして捉えるべきものであるように思われる。
 このように見てくるとき、その後の説話形式 の作品群によってより自覚的に追求されることになる、「閑山」の秘められた志向、論理とは何だったかということが次第に明らかになってくる。それは即ち、 端的に言って、「花」の一字として現れるエロス的なものの過剰さや暴力性とどのように関わっていくか、ということではないだろうか。元来、団九郎狸が発心 したのは、六袋和尚をからかったために手にしるされた花の一字が機縁だったのだが、以後はこの発心の情熱が物語の表になってあらわれ、花の文字は結末にい たってようやく再び現れるに過ぎない。しかし、冒頭と結末に現れるということはやはり重大な事であって、団九郎狸の営為の基本を規定していたのがこの花の 一字だったのではないか、ということを示唆している。つまり、彼の仏道発心の熱情は、この花の文字とのかかわりで理解されなければならないのだ。
  一体、この花の文字とは何なのだろうか。花の一字を記されるという経験は、「紫大納言」でいえば天女の笛を手に入れ、その美しさに心奪われつつもそれまで なかった痛みを感じるという経験であるし、「桜の森の満開の下」でいえばふと女の夫を切り捨てて、女の美しさに魅入られ、桜の森の下の謎に囚われる経験に 類比されるべきだろう。主体が、官能的な経験のなかで突き放され、自己のそれまでの一貫性や統一性に亀裂をきざまれ、「絶対の孤独」と向き合うことになる という経験を花の一字は意味しているとは言えないだろうか。それゆえ、団九郎狸の悟りへの希求はこうした苦悶から逃れるための無意識の代償行為であったと 考えることが出来る。
 実際、かれが悟りに求めているのは飽くまでも一身の救済であって、しかもそれは、「参禅の参摩地を味ひ、諷経念誦の法悦を 知つてゐたので」というように官能的な経験への志向が強い。決して、慈悲や他の救済ということはここでは問題になっていないのであって、観念的で孤独な修 行が志向されているのだ。こうした一面は独善的な傾向は物語のなかで幾度となくからかわれ、相対化され、価値を引き下げられるのだが、それはそれとして、 かれ本人にとってそこに深刻な問題が潜んでいることにかわりはない。
 孤独の空間を確保し、侵入者を忌むという姿勢はのちの「夜長姫と耳男」にお ける耳男の創作の姿勢と通い合うものであって、安吾の作品のなかでのひとつの典型を為すと言ってもいい。ただここではそうした孤独者の視点からではなく訪 問者の視点が優越している点が特異なだけである。
 花の一字はたしかに表面的には洗うことで落とすことが出来、その呪力もひとまずは払うことが出 来た。しかしのちに明らかになったとおり、皮膚の下ではその痕跡はぬぐい去ることも出来ずに刻印を残していたのである。このような刻印の効果は、主体に 「絶対の孤独」をひとつの恒常的な不安として経験させることだった。「桜の森の満開の下」での女の苦笑が男にとって持つ意味をも参照すべきだろう。
  「紫大納言」との関係で云えば、「閑山」の結末部の小坊主たちのシーンと、老爺の如き顔をした童子が「ゆくへも知らぬ、恋のみちかな」と歌い、茸に変じ て、四方に笑い声を聞くシーンとの類似性も指摘しておくべきだろう。「閑山」のシーンにはユーモアがあったが、こちらの方にはもはやほとんど笑いの要素は なく、グロテスクさが勝ってきている。ここで突然噴出する幻想性は、「紫大納言」の内部だけで考えている限り、かなり唐突で不可解なものとしてうつるほか ない。いったい、この幻想性は何を意味しているのだろうか。

 幻想性は第一には、内的な分裂が対象化されて現れるということを意味し、そ の限りでは主体の統一性の壊れがある段階を超えたことを意味する。しかしまた同時に、幻想は内的な分裂に「形象」を与え対象化する限りで、意識化しそれに 対峙する契機を為す。このことが、「夜長姫と耳男」の耳男の創作主体としての形象に結晶していくのであって、対応する複数の、エロティックな契機を孕んだ 幻想的なものとしては、蛇をそこでは考えるべきである。もしも耳男が自律した創作主体として振る舞うことが出来なかったら、この蛇の形象は、主観的な幻想 として立ち現れたであろうと思われる。すでに引いたとおり、安吾にとって軟体動物は女性の肉体の連想をつよく帯びていた。かれの蛇を裂いて生き血を呑み、 天井に吊すという儀式的な行為は、内的な猥雑でグロテスクな衝動やイメージに形式を与え、それらを仏像というひとつの焦点に結集させる役割を持った。それ は蛇の生き血を呑むという行為が、そうした猥雑で無意識的なものを象徴的に自分の身体に還流させる意味を持ったからである。これに対して、「閑山」や「紫 大納言」では主体はこうした猥雑なものの噴出に対してほとんどなすすべを持たない。これらの作品ではこうした幻想は、作品内的な物語の進行に寄与するとい うよりも、読者との関係で主人公を「表現」する役割を果たしている。
 「桜の森の満開の下」はこの点についていえば、やはり「花の下」に座る経験 と「首遊び」が対応する場となるのだが、山賊は桜の森がひきおこす狂気に対してなすすべを知らないし、女の首遊びは男の現実と関わることのない空虚な記号 の戯れでしかなくなっている。女は永遠に退屈な同一のパターンを反復し続けるが、何ら創造的な対象化を行うことが出来ない。つまり、男と女の間のこの小説 での分裂は、女を完全な消費者へと疎外しており、男はみずからの心に女によって刻まれた亀裂を、神話的な「以前」の想像されたイメージに回帰しようとする ことでしか、対処することが出来ない。男は「以前」へ過剰に同一化しようとして、背中に負ぶった女に「以前」の、最初に同じ峠を登った時点を反復しようと 迫るが、こうした幻想的な事態への対処は、却って現実と幻想との乖離を激化させ、事態を悪化させることにしかならない。

 第二節 説話形式の展開

  「夜長姫と耳男」という作品が説話形式の系列の最後を飾っているということの意味は、いったい何処にあるのだろうか。従来、この作品については「桜の森の 満開の下」の亜流に過ぎないという見解と、芸術家小説として、説話形式の作品群の最終的な達成として評価する見方とが対立してきた。たしかに、この二つの 作品は非常に多くの類似点を持っているため、あえて「桜の森の満開の下」を書いてから数年後にあらためて取り組んだ意味というのは見えにくい。しかしま た、そのような作品であるからこそ、これまで論じてきた説話形式の作品の意義を考える上で有利な意味を持っているものと考えられる。最終的な達成としてで あれ、また反復としてであれ、そこには説話形式の作品群の特徴が、それまでの作品と対比したときはっきりと浮かび上がってくる筈だからである。
  つまり、ここで考えたい問題というのは、一体安吾はなぜこのような作品群を、しかも単なる空虚な形式としてではなくテーマ的な連続性を持ちながら書きつが ねばならなかったのか。いったいそのことによって、何を表現しようとしていたのか、という問いである。これまでの議論をふまえていうならば、説話形式はま ずなによりも、女性的な、官能的で、残酷な経験によって自己完結することの出来ない「傷」を負った主体が、この「傷」によって生じる不安や恐怖を解決しよ うと苦悶するなかでますます孤独をあらわにしていくという過程を表現するものとして理解できた。しかし勿論、厳密に云えばそれぞれの作品で、結末部の形式 は似通っているものの、この主体の葛藤が解決される様相は異なっており、あらかじめどのような結末を迎えるかが定まっているわけではなかった。「夜長姫と 耳男」に於いても基本的には事情は変わらないのだが、はじめてここで男性主体である主人公は、自らの意志を表現し、この葛藤を対象化することが出来るよう になる。耳男は、姫との出会いという外傷的な経験によって、受動的に変化してそれまでの作品の主人公のように破滅への道を進むのではなく、姫の存在に対し て対抗しようとしている。

 「夜長姫と耳男」という作品の本質的な特徴は恐らく、「世界そのものの危機」が主題になっていることである。 また、もうひとつの主題として、ホームではなく、ハウスとしての「家」の問題、すなわち部屋・小屋の問題があるはずである。「紫大納言」では個人的な危機 が問題になっているに過ぎなかったし、「桜の森の満開の下」では二人の男女の危機が問題であるに過ぎず、たとえば「都」はいくら山賊が殺人を行ってもその 共同体の存立には何の危機も及んではいなかった。部屋を儀式的に閉じることでひとつの世界を成立させる、という行為は創作には或る程度不可避であるが、ま た完全な自己完結など不可能であることも見え透いている。このことはそもそも創作の場としての小屋の段階で、明らかになってくるといえるのではないだろう か。
 つまりはじめて「夜長姫と耳男」では説話形式の作品系列で、共同体が主題になっているのである。このことはこの作品が芸術家小説であること とも無関係ではない。仏像が共同体のなかで価値を持ってはじめて作品となったように、表現行為は何らかの形で共同体を前提にするからである。それゆえ、 「桜の森の満開の下」でひたすら物語を退屈することもなく反復する、首遊びをする女はけっして芸術家ではないのだし、そこで起きていることは空虚な記号と しての、首や物語の原型の、数学的といってもいいような順列の組み合わせでしかない。ここにあるのは、いわば「酒倉」での幻術と想像力の対比に等しいもの なのである。 

 他に比べ、「夜長姫」には権力関係がはっきりとあらわれている。夜長姫を溺愛し恐れているとはいえ、権力者とは夜長の長 者そのひとのほかにはない。かれからみれば、他の人物はていどの差はあれ、かれの権力に隷属する存在に過ぎない。エナコも耳男も、長者の恣意の下にある。 エナコの処刑も、身勝手な、権力の事情、つまり、かれの権力がないがしろにされることはないということの誇示のために行われるのであって、そこに実際に介 在する、固有の耳男、エナコ、ヒメの関係は無視される。或る意味で、擬似的に、俗化されたかたちではあれ、姫と長者の関係は、巫女とさにわという、神権政 治の原型的関係にほかならない。このとき、権力の宗教的源泉としての巫女は、実際には代弁者にしてさにわである男に隷属している。
 もしもこのよ うに、長者の権力の源泉が巫女としての姫にあるのだとしたら、このとき、禁忌そのものである姫が、アナーキーな暴力と化すのは、潜在的な必然であるといっ ていいだろう。原初的な力そのものが権力へと変更されるのは、代理としての長者の「言葉」による解釈を通じてであるが、しかし力そのものは共同体を維持す る方向に働くか破壊する方向に働くかに対して中立的だからである。その意味で、この姫の暴力性は、第一章で論じた「風博士」の暴力性や戦争的なものと通じ るところがある。
 夜長姫という主体に視点をうつして物語を考察することはそれに対してきわめて困難であるといわざるをえない。夜長姫の言動には 無数の矛盾が存在するが、その動機はつねに明確ではない。しかし、ともかく彼女が、力、あるいは切迫性において他者を評価することはいちおういえる。つま り、彼女はそこに賭けられたもの、強烈さにおいて、その言を聴く。権力者ではなく、権力の源泉そのものである夜長姫は、その自己のちからに対して主体では ない。彼女が破壊を切望しているのは、彼女の生が破壊としてしか機能しないからだ。
 一度目の疫病は、長者に権力をもたらした。二度目の疫病は、 その権力の基盤さえ廃絶する。したがってこの二度の疫病の質的差異を明確にしておかなければならない。そのことは、耳男の仏像の有効性の問題として語られ ることだろう。一度目の疫病は、耳男の弥勒によってにらみかえされる。このとき、この疫病は、労働を廃絶はしない。むしろ、秩序再編的な、祝祭として見る ことが出来る。つまり、鎮圧されることにより、疫病は祭りへと変成したのである。この意味では耳男の行為そのものが祭りに組み込まれているというべきだろ う。つまり、他界よりやってきたひとつの過剰なちからが、もうひとつの過剰なちからによって鎮圧される。しかしそれは、神が人間の味方をするからではな い。あくまでも、二つの対立的な力の均衡によって、過剰性がうすめられたにすぎないのだ。
 女系と男系の問題も此処では重要である。安吾は、「道 鏡」で孝謙女帝について、家の虫という言い方で小説化しているが、夜長姫の母親はすでに死んでおり、その形見の懐剣でエナコが耳男の耳を二度目に削ぐ。こ のとき耳男はうちなる父権制をそがれ、去勢されたのだといえるはずだ。この去勢の意味は、「桜の森の満開の下」でいちど扱われた主題である。去勢とは、記 号の中の記号であるファルスを奪われることだ。
 耳男が桜の森の盗賊と異なるのは、表現者である点だ。主人公が表現者として現れるということの萌芽はすでに、「閑山」での団九郎狸の発心のシーンに現れ ていた。

 六袋和尚は和歌俳諧をよくし、又、折にふれて仏像、菩薩像、羅漢像等を刻んだ。その羅漢像、居士像等には狗狸に類似の面相もあつたといふが、恐らく偶然 の所産であつて、団九郎に関係はなかつたのだらう。
 いつとなく、団九郎も彫像の三昧を知つた。木材をさがしもとめ、和尚の熟睡をまつて庫裏の一隅に胡座し、鑿を揮ひはじめてのちには、雑念を離れ、屡々夜 の白むのも忘れてゐたといふことである。

  耳男を道化の一種として把握し、そして、作品史的な把握からもたらされる、長者と耳男の、追い求める男としての同一性と並列して、道化と王の倒錯的対応性 を見れば、物語の重要なマトリックスの一端は把握できたことになるだろう。そしてそこに、水の女としての、たなばたつめとしての姫とエナコの同一性、対応 性をおくとき、機能の図を描くことができるようになる。
 しばらくこの観点を追ってみると、あきらかになるのは、王、道化と、いう一方の軸は明ら かだ。さて他方の軸を見いださなくてはならない。エナコと姫との関係もまた、貴賤ではあるのだが、貴賤にはとどまらない。垂直軸と水平軸というふうに分析 することも可能だが、そこで、単に、男女といってのけるのもためらわれる。また、ここでは、主要な男女、耳男と姫に副次的人物として、長者とエナコが加わ る、二重化されるという構図に、さらにそれを二重化するようにして、この四人の構造に、それぞれ副次的人物が存在する。
 耳男の師匠、姫の母、エ ナコの母の月待、長者の使者アナマロである。女系が、母子関係であるのに対し、男性は上下関係である。この両者の差異は、自然と作為として勿論、父系的視 点からは構造化されうる物だが、しかし、この差異は、性的に区分されているモノの、本来的には性的な差異などではなく、また、この二つの形式は並列される ようなモノでもない。師弟、母子、君臣の三類型に関して、四組がいることも構造的欠損を感じさせて興味深いが、たとえば師弟関係には、唯物論的な知識の問 題としての師弟と、観念論的な疑似養子関係との側面が存在する。或る、観念化においては、伝達される知識を、名詞的なモノとして本質存在と化し、それを、 系譜的な意識において、養子相続のモデルにおいて理解することがあり得る。しかし、これは勿論、きわめて恣意的な系譜意識による操作である。
 知識は、系譜的に伝達されるモノではないからだし、また知識は自己同一性と価値源泉をもつ実体ではないからだ。
 だから、元来、師弟は養子関係ではない以上、そこに母の欠如という問題を見いだすこと事態が恣意的なのだし、そこには別に、じつは謎などない。
  他方、長者とアナマロの関係性は、一言でいえば、意を酌む、意を呈す、という権力の関係に集約される。これは象徴関係でもあり代理関係でもあり、そして責 任回避の構造でもある。この関係と、エナコ、ひめにおける母子関係とを対比すると、非常に重要なものが見いだされてくる。つまり、権力関係であれ、継承関 係であれ、そこには何か伝達されるモノが、関係に内在的に存在し、そして、その本質的形象によって、関係そのものが同定されるのに対して、母子関係は、な にものも伝達しないということである。母子関係とは継起的関係であり、そこに伝達される母系的系譜性の本質、遺伝性といったものを見いだすのは、父権制の 常套であるにすぎない。母子関係は、父権制においては、あたかも、父系的エッセンスの、単なる運び手として把握される。しかし、これは大きな誤解、虚構で あって、母子関係は、本質的には継起的なモノでしかない。
 エナコが耳男と取り結ぶ関係は、きわめて歪められた愛情関係であって、それゆえにこ そ、悲劇的なモノとして自己を構成することを許す。しかし、そこにひめはきわめてユニークな介入を果たす。エナコの愛は、エナコの真実であることを、長者 の命令に反して自己破壊することでしか示すことが出来ない。つまり、ここには、制度の外部で想像を構成する、あるいは、ひめのように、その基底にある無限 定性までおりていくということができずに、内部の言語で、事態を把握し、導くことしかできない。ひとつの疑問として、耳男は、エナコを愛したのか、そして かれの動揺は、どのような本質を分有しているのかという問いがある。
 耳男は、憐れみ、ついで驚き、それから怒り、嘲る。後半の感情は長者に対するものであることは明白だ。
 それから、憎しみをうけて、憎しみをわかせるのだが、考えてみれば、こうした感情はすでにして愛である。怒りは奴隷を与える事への怒りであり、人間の自 由への冒涜へのいかりである。そして、職業的な誇りでもあるだろう。
  また、嘲りは、それを望まない、そして、そのような思惑に対して反逆するおのれのめぐりあわせからくる、あてはずれの長者の傲慢さへの嘲りであるだろう。 憎まれることから憎しみをかえすのも、すべて、かれが、エナコの側の視点、奴隷化されるものの視点にたっていなければおきようがない。

  説話形式の小説群を基本的に規定しているのは、女性的なものとの関係で、主体に強いられる受動性と分裂の契機とそれに逆らう意志との内的な葛藤をどのよう にして解決していくかという問いであった。安吾にとって説話という形式はこうした一見抽象度の高い問題を追求する上で好都合であったように見える。勿論、 これは単に「素材の持つ現実性」だけの問題ではなく、説話形式の持つ「行動追跡」すなわち描写よりも行為に重点を置く描き方と、幻想性を違和感なく導入で きるということが、かれの課題にとって必要だったからである。それはまた安吾の観点から云えば、「堕落」することはひとつの「風博士」的な速度を意志する ことに他ならず、現実的なものは描写の対象である同一性ではなく、動作の切片としての差異であったからだろう。したがって安吾がファルスが「概念的」にな り云々というとき、念頭にあるのはこの純粋な運動の相に於いて捉えられた対象なのである。従ってこれらは飽くまでも運動の相に於いて捉えられているからこ そ、描写の対象であるような属性を欠いているけれども、抽象の結果として属性を欠いているわけではないから、十分に現実的なのである。


 結論

  静止している物体ではなく、その軌跡を追うということは、不可避的にその空間の変化を追うということになる。軌跡は静的な対象と異なり、空間そのものの属 性だからだ。このとき、空間の無数の不均等な気圧の相互関係の変化として、この動きを記述することができる。このような無数の立体的で不均等で複雑な等圧 線を持つ空間にあっては、その空間での運動が制約を持つためには、いってみれば無規定でないためには、かならずしも周囲を囲む壁は必要ではない。均等な、 あるいは真空の空間にあっては、周囲をかこむ壁のない無限空間では運動は無制約であり、壁に囲まれた空間では、壁の形態によって定義される圧力から制約を 受ける。こうして、両極的な観点がとられ、あたかも無限空間では、運動を外的に規定するものはない、と考えられがちである。しかし、実際には気圧の様々な 程度と、そのさまざまな無数の点の間の相互制約が存在し、それがたとえ以下無限にすすむ、としても、決して無効にはならない。たしかに、三分の一に値する 少数の最後の三を見つけることは決してできないし、それに三をかけたとき、最後の一も決して見いだされはしないが、そのことが、三分の一の少数表示に三を かけても一にならない、ということにはならない。この失われた、光速度で逃げ去り、往還する一というものは重要なのではないか。ともかく、中間が何らかの 位置に定位するためには、かならず両端が固定されなければならない、というのは錯誤なのである。能の舞もまた、機が満ちて空間そのものの内包的な等圧線の 関係の変化を、示すもののようにして舞われるのだという。

 安吾が書き残した散文のなかで女性の形象がとりわけ説話系列のもので特異な性 格を帯びるとき、考えに入れなければならないのは、権力といおうか、むしろ力の釣り合いの多様な変化というものがつねに思考されている場面なのだ、という ことである。それは卑俗な意味での心理の力学のごときものから、不意に魔が差すように均衡が破られる「桜の森」での不安定で無意識に流動する「関係」のよ うなものでもある。ここで女性は、この不均等な空間が、とりわけ不均衡、不安定になっている「場」としてその身体を表す。

 しかしこの、 「花の下」のような不安定な力の場は、必ずしも、その女性の性的魅力によって起因されるわけではない。むしろ、つねに物語のもう一つのモチーフをなし続け る、この過剰な場がたちあらわれるのは、その場を安吾によってになわされる女性たちにとって、外的な事情に依ることが多い。たしかに、いったん、こうした 関係の場として現れてしまえば、彼女たちは不可解な魅力によってロマンチックに語られもするが、夜長姫にも見られ、また、たとえば外套と青空においてもそ うであるように、こうした不可解な魅惑というものは、この「場」の原因というよりも結果、効果である。

 この奇妙な場は、むしろ、男た ち、分身的な、より本質的には変身的、相互転換的な男たちのあいだの、葛藤ではなく、遭遇、転換、交換、通過、ともかく何であれ運動量の激しさによってつ くられる。その極端な例が「白痴」の戦争であり、またこのとき、かならずしも、この場をつくりだす相手は、男である必要もない。長老、エナコと耳男、「い づこへ」での語り手とその女、アキ、という関係もまた、そうした場を生成する側の関係である。こうした場を体現してあらわれる女性はしかし、どこかその 「場」に対して偶然的でもある。なにかしら中心的女性の形象がそこにあらわれるということは必然であっても、その女性像、その女性であると言うことには何 ら必然がない。その意味で、彼女たちはこの関係性の産物だとは決していえない。

 しかし彼女たちは期待される幻想と二重写しになっている というようなことではない。なぜなら、彼女たちの関係においてはすでに体系的なものが壊れているので、関係者たちがそれぞれ望むものは全くばらばらだから である。このとき、単になぞめいているわけではなく、ひとりの自分の都合のある他者として介在するだけで、幻想的な眩暈をつくりだすのに十分なのである。

  説話的な小説や、それに準じてこうした中心的な女性形象があらわれる作品においては、安吾はたとえば、「桜の森」と「女」のあいだの親和と齟齬のように、 分身的、ファルス的な人間関係の「内部」の葛藤にさらに付け加えられたひとつの過剰として、「女」と「諸関係の力の場」という次元を構成しようとしている ものと思われる。つまりこうした社会的な人間関係の葛藤と、複数の他者の交錯は、ひとつの不在の登場人物をつくりあげる。そしてこの不在の人物を介在させ ることで、関係は一定の規則性を得る。安吾にとっての「女」の形象は、この人物を臨席させる試みなのではないだろうか。それが「女」であるのは、そのよう な不在の人物の原型が、安吾の想像力にとって、たまたま母であった、ということなのである。たとえば、このような奇妙な本人の臨席、という意味では「母の 上京」という作品が典型的だろう。このとき見逃してはならないのはやはり、この女性たちが、突き放す、以前に自分自身がいわば、突き放され、とまどっても いるということではないだろうか。

2002年4月8日 (月) 

FARCEに就て 坂口安吾

 藝術の最高形式はフアルスである、なぞと、勿體振つて逆説を述べたい わけでは無論ないが、然し私は、悲劇《トラヂエデイ》や喜劇《コメデイ》よりも同等以下に低い精神から道化《フアルス》が生み出されるものとは考へてゐな い。然し一般には、笑ひは泪より内容の低いものとせられ、當今は、喜劇といふものが泪の裏打ちによつてのみ危く抹殺を免かれてゐるくらゐであるから、道化 の如き代物は、藝術の埒外へ投げ捨てられてゐるのが普通である。と言つて、それだからと言つて、私は別に義憤を感じて茲に立上つた英雄《ナポレオン》では 決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しようとする――つまり之が、即ち拙者のフアルス精神でありますが。
 ところで――
  (まづ前もつて白状することには、私は浅學で、此の一文を草するに當つても、何一つとして先人の手に成つた權威ある文献を渉獵してはゐないため、一般の定 説や、將又フアルスの發生なぞといふことに就て一言半句の差出口を加へることさへ不可能であり、從而、最も誤魔化しの利く論法を用ゐてやらうと心を碎いた 次第であるが――この言草を、又、フアルス精神の然らしめる所であらうと善意に解釋下されば、拙者は感激のあまり動悸が止まつて卒倒するかも知れないので すが――)
 扨て、それ故私は、この出鱈目な一文を草するに當つても、敢て世論を向ふに廻して、「フアルスといへども藝術である」などと肩を張る ことを最も謙遜に差し控へ、さればとて、「だから悲劇のみ藝術である」なぞと言はれるのも聊か心外であるために、先づ、何の躊躇らふ所もなく此の厄介な 「藝術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一樣に芝居と看做し、之を創る「精神」にのみ觀點を置き、あは せて、之を享受せらるるところの、清淨にして白紙の如く、普く寛大な讀者の「精神」にのみ呼びかけようとするものである。
 次に又、この一文に於 て、私は、決して問題を劇のみに限るものではなく、文學全般にわたつての道化に就て語りたいために、(そして、私は言葉の嚴密な定義を知らないので、暫く 私流に言はして頂くためにも――)假りに悲劇、喜劇、道化に各々次のやうな内容を興へたいと思ふ。A、悲劇とは大方の眞面目な文學、B、喜劇とは寓意や泪 の裏打ちによつて、その思ひありげな裏側によつて人を打つところの笑劇、小説、C、道化とは亂痴氣騒ぎに終始するところの文學。
 と言つて、私 は、A・Bのジヤンルに相當する文學を輕視するといふのでは無論ない。第一、文學を斯樣な風に類別するといふことからして好ましくないことであり、全ては 同一の精神から出發するものには違ひあるまいけれど――そして、それだから私は、道化の輕視される當節に於て(敢て當今のみならず、全ての時代に道化は不 遇であつたけれども――)道化も亦、悲劇喜劇と同樣に高い精神から生み出されるものであつて、その外形のいい加減に見える程、トンチンカンな精神から創ら れるものでないことを言ひ張りたいのである。無論道化にもくだらない道化もあるけれども、それは丁度、くだらない悲劇喜劇の多いことと同じ程度の責任を持 つに止まる。
 そこで、私が最初に言ひたいことは、特に日本の古典には、Cに該當する勝れた滑稽文學が存外多く殘されてゐる、このことである。私 は古典には通じてはゐないので、私の目に觸れた外にも幾多の滑稽文學が有ることとは思ふが、日頃の愛讀する數種を擧げても『狂言』、西鶴(『好色一代 男』、『胸算用』等)、『浮世風呂』、『浮世床』、『八笑人』、『膝栗毛』、平賀源内、京傳、黄表紙、落語等の或る種のもの等。
 一體に、わが國 の古典文學には、文學本來の面目として、現實を有りの儘に寫實することを忌む風があつた。底に一種の象徴が理屈なしに働いてゐて、ある角度を通して、寫實 以上に現實を高揚しなければ文學とは呼ばない習慣になつてゐる。寫實を主張した芭蕉にしてからが、彼の俳諧が單なる寫實でないことは明白な話であるし―― 尤も、作者自身にとつて、自分の角度とか精神とか、技術、文字といふものは、表現されるところの現實を離れて存在し得ないから、本人は寫實であると信ずる ことに間違ひのあらう筈はないけれども――斯様に、最も寫實的に見える文學に於てさへ、わが國の古典は決して寫實的ではなかつた。
 又、『花傳 書』の著者、世阿彌なぞも、寫實といふことを極力説いてゐるけれども、結局それが、所謂寫實でないことは又明白なところである。私は、世阿彌の『花傳書』 に於て、大體次のやうな意味の件りを讀んだやうに記憶してゐる。「能を演ずるに當つて、演者は、たとへ賤が女を演ずる場合にも、先づ『花』(美しいといふ 觀念)を觀客に興へることを第一としなければならぬ。先づ『花』を興へてのち、はじめて次に、賤が女としての實體を表現するやうに――」と。
 私 は、このやうに立派な教訓を、さう澤山は知らない。そして、世阿彌は、この外にも多くの藝術論を殘してゐるが、中世以降の日本文學といふものは、彼の精神 が傳承されたものかどうかは知らないが、この、「先づ花を興へる」云々の精神と全く同一のものが、常に底に流れてゐて、鋭く彼等の作品に働きかけて來たや うに思はれるのである。俳諧に於ける芭蕉の精神に於ても其れを見ることが出來るし、又、今この話の中心である戲作者達の作品を通しても(狂言は無論のこ と)、私は此の精神の甚だ強いものを汲み取ることが出來るのである。
 尤も、この精神は、ひとり日本に於て見られるばかりではなく、歐州に於て も、古典と稱せられるものは概ね斯樣な精神から創り出されたものであつた。單なる寫實といふものは、理論ではなしに、理屈抜きの不文律として本來非藝術的 なものと考へられ、誰からも採用されなかつたのである。近世たまたま、藝術の分野にも理論が發達して理論から藝術を生み出さうとする傾向を生じ、新らしい 何物かを探索して在來の藝術に新生面を附け加へようと努力した結果、自然主義の時代から、遂に單なる寫實といふものが、恰もそれが正當な藝術であるかのや うに横行しはじめたのであつた。
 この事は單に文學だけではなく、音樂に於ても、(私は音樂の知識は皆無に等しいものであるが、素人《アマチユ ア》として一言することを許して頂ければ――)私は、近代の先達として、ドビユツシーの價値を決して低く見積りはしないが、しかも尚この偉大な先達が、恰 かもそれが最も斬新な、正しい音樂であるかのやうに、全く反省するところなしに單なる描寫音樂を、例へば「西風の見たところ」、「雨の庭」と言つた類ひの 作品を、多く殘してゐることに就て、時代の人を盲目とする蠻力に驚きを深くせざるを得ない。そして現今、洋の東西を問はず、凡そ近代と呼ばれる音樂の多く は、單なる描寫音樂の愚を敢てしてゐる。斯樣に低調な精神から生れた作品は、リユリ、クウプラン、ラモオ、バツハ等の古典には嘗て見られぬところであつ た。單なる寫實は藝術とは成り難いものである。
 言葉には言葉の、音には音の、色には又色の、もつと純粋な領域がある筈である。
 一般 に、私達の日常に於ては、言葉は専ら「代用」の具に供されてゐる。例へば、私達が風景に就て會話を交わ、と、本來は話題の風景を事實に當つて相手のお目に 掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が無いために、私達は言葉を藉りて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の寫眞を示すに如か ず、寫眞に頼るよりは、目のあたり實景を示すに越したことはない。
 斯樣に、代用の具としての言葉、即ち、單なる寫實、説明としての言葉は、文學 とは稱し難い。なぜなら、寫實よりは實物の方が本物だからである。單なる寫實は實物の前では意味を成さない。單なる寫實、單なる説明を文學と呼ぶならば、 文學は、宜しく音を説明するためには言葉を省いて音譜を挿み、蓄音機を挿み、風景の説明には又言葉を省いて寫眞を挿み、(超現實主義者、アンドレ・ブルト ンの”Nadja”には後生大事に十數葉の寫眞を挿み込んでゐる)、そして宜しく文學は、トーキーの出現と共に消えてなくなれ。單に、人生を描くためな ら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
 言葉には言葉の、音には音の、そして又色には色の、各々代用とは別な、もつと純粹な、絶對的な領域が有る筈である。
  と言つて、純粹な言葉とは言ふものの、勿論言葉そのものとしては同一で、言葉そのものに二種類あると言ふものではなく、代用に供せられる言葉のほかに純粹 な言葉が有る筈のものではない。畢竟するに、言葉の純粹さといふものは、全く一に、言葉を驅使する精神の高低に由るものであらう。高い精神から生み出さ れ、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、之を純粹な言葉と言ふべきものであらう(文章の練達といふこ とは、この高い精神に附隨して一生の修業を賭ける問題であるから、この際、ここでは問題とならない)。
 「一つの作を書いて、更に氣持が深まらな ければ、自分は次の作を書く氣にはならない。」と、葛西善藏は屡々さう言つてゐたさうであるし、又その通り實行した勇者であつたと谷崎清二は追憶記に書い てゐるが、この尊敬すべき言葉――私は、汗顔の至であるが、葛西善藏のこの言葉をかりて言ひ表はすほかに、今、私自身の言葉として、より正確に説明し得る 適當な言葉を知らないので、先ず此の言葉を提出したわけであるが――この尊敬すべき言葉に由つて表はされてゐる一つの制作精神が、文字を、(音を、色を) 藝術と非藝術とに分つたところの鐵則となるのではないだらうか。
 餘りにも漠然と、さながら雲を掴むやうにしか、「言葉の純粋さ」に就て説明を施し得ないのは、我ながら面目次第もない所とひそかに赤面するところである が、で、私は勇氣を奮つて次なる一例を取り出すと――
 「古池や蛙飛び込む水の音」
  之ならば、誰が見ても純粹な言葉であらう。蛙飛び込む水音を作曲して、この句の意味を音樂化したと言ふ人もなからうし、古池に蛙飛び込む現實の風景が、こ の句から受けるやうな感銘を私達に興へようとは考へられない。ここには一切の理屈を離れて、ただ一つの高揚が働いてゐる。
 「古池や蛙飛び込む水の音、淋しくもあるか秋の夕暮れ」
  私は、右の和歌を、五十嵐力氏著『國家の胎生並びにその發達』といふ名著の中から抜き出して來たのであるが、五十嵐氏も述べてゐられる通り、ここには親切 な下の句が加へられて、明らかに一つの感情と、一つの季節までが附け加へられ説明せられてゐるにも拘らず、この親切な下の句は、結局芭蕉の名句を殺し、愚 かな無意味なものとするほかには何の役にも立つてゐない。言葉の秘密、言葉の純粹さ、言葉の絶對性――と、如何にも虚假威《こけおどし》に似た言ひ分では あるが、この簡單な一行の句と和歌とで、その實際を汲んでいただきたい。言葉をいくら費して萬遍なく説明しても、藝術とは成り難いものである。何よりも先 づ、言葉を驅使するところの、高い藝術精神を必要とする。
 文學のやうに、如何に大衆を相手とする仕事でも、その「専門性《スペシアリテ》」とい ふものは如何とも仕方のないことである。どのやうに大衆化し、分り易いものとするにも、文學そのものの本質に付隨するスペシアリテ以下にまで大衆化するこ とは出來ない。その最低のスペシアリテまでは、讀者の方で上つて來なければならぬものだ。來なければ致し方のないことで、さればと言つて、スペシアリテ以 下にまで、作者の方から出向いて行く法はない。少なくとも文學を守る限りは。そして、單なる寫實といふものは、文學のスペシアリテの中には這入らないもの である。少くとも純粹な言葉を持たなければ、純粹な言葉を生むだけの高揚された精神を持たなければ――これだけは、文學の最低のスペシアリテである。
 兎に角藝術といふものは、作品に表現された世界の中に真實の世界があるのであつて、これを他にして模寫せられた實物があるわけではない。その意味に於て は、藝術はたしかに創造であつて、この創造といふことは、藝術のスペシアリテとして捨て放すわけには行かないものだ。
 ところで、フアルスであるが――
 このフアルスといふものは、文學のスペシアリテの圈内にあつても、甚だ飄逸自在、横行濶歩を極めるもので、あまりにも専門化しすぎるために、かなり難解 な文學に好意を寄せられる向きにも、往々、誤解を招くものである。
  尤も、専門化しすぎるからと言つて、難解であるからと言つて、それ故それが、偉大な文學である理由には毫もならないものである。スペシアリテの埒内に足を 置く限りは、よし大衆的であれ、將又貴族的であれ、さらに選ぶところは無い筈である。(尤も拙者は、斷乎として、斷々乎としてフアルスは難解であるとは信 じません!)それはそれとしておいて、扨て――
 一體が、人間は、無形の物よりは有形の物の方が分り易いものらしい。ところで、悲劇は、現實を大 きく飛躍しては成り立たないものである(そして、喜劇も然り)。荒唐無稽といふものには、人の悲しさを唆る力はないものである。ところがフアルスといふも のは、荒唐無稽をその本來の面目とする。ところで、荒唐無稽であるが、この妙チキリンな一語は、藝術の領域ではさらに心して吟味すべき言葉である。
  一體、人々は、「空想」といふ文字を、「現實」に對立させて考へるのが間違ひの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらゐは空想に 費してゐるものだ。人間自身の存在が「現實」であるならば、現に其の人間によつて生み出される空想が、單に、形が無いからと言つて、なんで「現實」でない ことがある。實物を掴まなければ承知出來ないと言ふのか。掴むことが出來ないから空想が空想として、これほども現實的であるといふのだ。大體人間といふも のは、空想と實際との食ひ違ひの中に氣息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚い生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげ で、この篦棒な儚さのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸ひにして人である、と言ふやうなものである、人間といふものは。
 單に「形が無 い」といふことだけで、現實と非現實とが區別せられて堪まらうものではないのだ。「感じる」といふこと、感じられる世界の實在すること、そして、感じられ る世界が私達にとつてこれ程も強い現實であること、此處に實感を持つことの出來ない人々は、藝術のスペシアリテの中へ大膽な足を踏み入れてはならない。
  フアルスとは、最も微妙に、この人間の「觀念」の中に踊りを踊る妖精である。現實としての空想――ここまでは訪れもなく現實であるが、ここから先へ一歩を 踏み外せば本當の「意味無し《ナンセンス》」になるといふ。斯樣な、喜びや悲しみや歎きや夢や嚔やムニヤムニヤや、凡有ゆる物の混沌の、凡有ゆる物の矛盾 の、それら全ての最頂點《パラロキシミテ》に於て、羽目を外して亂痴氣騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物が、愛すべき王樣が、即ち紛れもなくフアルスであ る。知り得ると知り得ないとを問はず、人間能力の可能の世界に於て、凡有ゆる翼を廣げきつて空騒ぎをやらかしてやらうといふ、人間それ自身の儚なさのやう に、之も亦儚ない代物には違ひないが、然りといへども、人間それ自身が現實である限りは、決して現實から羽目を外してゐないところの、このトンチンカンの 頂天がフアルスである。もう一歩踏み外せば本當に羽目を外して「意味無し」へ墜落してしまふ代物であるが、勿論この羽目の外し加減は文學の「精神」の問題 であつて、紙一枚の差であつても、その差は、質的に、差の甚だしいものである。
 フアルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとす るものである。凡そ人間の現實に關する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニヤムニヤであれ、何か ら何まで肯定しようとするものである。フアルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に關する限りの全てを永遠に永劫に永久に 肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦らめを肯定し、溜息を肯定し、何言つてやんでいを肯定し、と言つたやうなもんだよを肯定し――つまり全的に 人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決す ることにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定し續けて止まない所の根氣の程を、呆れ果てたる根氣の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけ のことである。哀れ、その姿は、ラ・マンチヤのドン・キホーテ先生の如く、頭から足の先まで
 Ridicule に終わつてしまふとは言ふものの。それはフアルスの罪ではなく人間樣の罪であらう、と、フアルスは決して責任を持たない。
  此處は遠い太古の市、ここに一人の武士がゐる。この武人は、戀か何かのイキサツから自分の親父を敵として一戰を交へねばならないといふ羽目に陷る。その煩 腦を煩悶として悲劇的に表はすのも、その煩悶を諷刺して喜劇的に表はすのも、共にそれは一方的で、人間それ自身の、どうにもならない矛盾を孕んだ全的なも のとしては表はし難いものである。ところがフアルスは、全的に、之を取り扱はうとするものである。そこでフアルスは、いきなり此の、敬愛すべき煩悶の親父 と子供を、最も滑稽千萬な、最も目を當てられぬ懸命な珍妙さに於て、掴み合ひの大立廻りを演じさせてしまふのである。そして彼等の、存在として孕んでゐ る、凡そ有ゆるどうにもならない矛盾の全てを、爆發的な亂痴氣騒ぎ、爆發的な大立廻りに由つて、ソツクリそのまま昇天させてしまはうと企らむのだ。
 之はもう現實の――いや、手に觸れられる有形の世界とは何の交渉もないかに見える。「感じる」、あくまで唯「感じる」――といふ世界である。
  斯樣にして、フアルスは、その本來の面目として、全的に人を肯定しようとする結果、いきほい人を性格的には取扱はずに、本質的に取扱ふこととなり、結局、 甚しく概念的となる場合が多い。そのために人物は概ね類型的となり、筋も亦單純で大概は似たり寄つたりのものであるし、更に又、その對話の方法や、洒落や プローズの文章法なぞも、國別に由つて特別の相違らしいものを見出すことは出來ないやうである。
 類型的に取扱はれてゐる此等の人物の、特に典型 らしいものを一二擧げると、例へばフアルスの人物は、概ね「拙者は偉い」とか「拙者はあのこに惚れられてゐる」なぞと自惚れてゐる。そのくせ結局、偉くも なければ智者でもなく惚れられてもゐない。フアルスの作者といふものは、作中の人物を一列一體の例外無しに散々な目に會はすのが大好きで、自惚れる奴自惚 れない奴に拘りなく、一人として偉いが偉いで、智者が智者で、終る奴はゐないのである。あいつよりこいつの方が少しは悧巧であらうといふ、その多少の標準 でさへ、フアルスは決して讀者に示さうとはしないものだ。尤も、あいつは馬鹿であるなぞとフアルスは決して言ひはしないが。又、例へば、フアルスの人物 は、往々、「拙者は悲惨だ、拙者の運命は實に殘酷である――」と大いに悲歎に暮れてゐる。ところがフアルスの作者達は、さういふ歎きに一向お構ひなく、此 等の悲しきピエロとかスガナレルといふ連中《てあい》を、ヤツツ放題にヤツツケて散々な目にあはすのである。フアルスの作者といふものは、決して誰にも (無論自分自身にも――)同情なんかしようとはしないものだ。頑として、木像の如く、木杭の如く、電信柱の如く斷じて心臓を展くことを拒むものである。そ して、この凡有ゆる物への冷酷な無關心に由つて、結局凡有ゆる物を肯定する、といふ哀れな手段を、フアルス作家は金科玉條として心得てゐるだけである。
  一體フアルスといふものは、何國に由らず由來最も哲學的(出來損ひの――)なものであるが、西洋では、近世に近づくに從つて、次第にフアルスは科学的に ――と言ふのもちと大袈裟であるが、つまりフアルス全體の構成が甚しくロヂカルになつてきた。從而、その文章法なぞもひどくロヂカルにこねくり廻された言 葉のあやに由つて、得體の知れない混沌を捏ね出さうとするかのやうに見受けられる。プローズでは、已にエドガア・ポオ(彼には
 Nosologie, Xing paragraph, Bon-Bon
 と言つた類ひの得體の知れない作品がある――)あたりから、此の文章法にかなり完璧に近いものがあるし、劇の方では、佛蘭西現代の作家マルセル・アシア ルの「ワタクシと遊んで呉れませんか」なぞは、この方面の立派な技術が盡されてゐる。
 ところが日本では西洋と反對で、最も時代の古い「狂言」が最もロヂカルに組み立てられ、人物の取扱ひなぞでも、これが西洋の近代に最も酷似してゐる。
 で、西洋近世のロヂカルなフアルス的文章法といふものは、本質的には實に單純極まりないもので、「A は A であるか」と、「A は非 A
  でない」と言つた類ひの最も單純な法則の上で、それを基調として、アヤなされている。語の運用は無論として、筋も人物も全體が、それに由つて運用されてゐ ると見ることも出來る。マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んで呉れませんか」をどの一頁でも讀みさへすれば、この事は直ちに明瞭に知ることが出來よう。 が、このロヂカルな取扱ひは、非常に行き詰り易いものである。アシアルにしてからが、已に早くも行き詰つて、近頃は、より性格的な、より現實的な喜劇の方 へ轉向しようとしてゐるが、フアルスと喜劇との取扱ひの上に於ける食ひ違ひが未だにシツクリと練れないので、喜劇ともつかずフアルスともつかず、妙にグラ グラして、彼の近作は概ね愚作である。
 が、然し何も、このロヂカルな方向がフアルスの唯一の方向ではない。フアルスはフアルスとして、フアルス なりに、性格的であり現實的であり得るのである。西洋の古代、並びに、特に日本の江戸時代は、フアルスはフアルスなりに餘程性格的であり、かつ現實的であ つた。『浮世風呂』、『浮世床』であるとか、西洋では、”Maitre
 Pathelin”(佛蘭西の十五世紀頃の作品)、なぞがさうである。私 達のフアルスは、この方面に尚充分に延びて行く可能性があるやうに考へられるし、又この逆に、概念的な、奇想天外な亂痴氣騒ぎにしてからが、まだまだ古來 東西にわたつて甚だシミツタレなところがあつた。なまじひに科學的な國柄だけに西洋の方に此の弊が強く、例へば、オスカア・ワイルドに「カンタビイルの幽 靈」といふものがあるが、日本の落語に之と全く同一の行き方をしたものがあつて――題は忘れてしまつたが、(隱居がお化けをコキ使ふ話)、私には、その落 語の方が、はるかに羽目を外れて警抜であつたために、ケタ違ひの深い感銘を受けたことを覺えてゐる。と言つて、日本のフアルスといへども、決して自由自在 に延びきつてゐたわけではないが。
 一體に、日本の滑稽文學では、落語なぞの影響で、駄洒落に堕した例が多い(尤も外國でも、愚劣な滑稽文學は概 ねさうであるが)。いはゆる立派な、哲學的な根據から割り出された洒落といふものは、人間の聯想作用であるとか、又、高度の頭の働きを利用し、つまりは、 意味を利用して逆に無意味を強めるもので、近世風な滑稽文學(日本では「狂言」が――)が皆この傾向をとつてゐる。ところが、江戸時代の滑稽文學や、西洋 の古典は、之とは別な方向をとり、人間的であるために、その洒落が駄洒落に堕して目も當てられぬ愚劣な例が多いのである(『八笑人』を模して『七偏人』と いふ愚作が後世出たが之なぞは駄洒落文學を知る上には最適の例であらう)。かういふことは、フアルスを人間的に取扱ひ、浮世の風を滲み込ませようとする時 に、最も陥り易い短所であるが、しかし之も見樣に由れば、技術の洗練されないせゐで、用ゐ樣に由つては、一見短所と見える斯樣な方向にさへ尚開拓の餘地は あるやうである。私は時々落語をきいて感ずるのであるが、恐らく文學として讀むに堪へないであらう愚劣なものが、立派な落語家に由つて高座で表現される と、勝れた藝術として感銘させられる場合がある。技術は理窟では習得しがたく、又律しがたいものである。古來輕視されてゐただけに、文學としての「道化」 は、その技術にも多くの新らしい開拓を必要とするであらう。
 私は深い知識があるわけではないので良くは知らないのであるが、當て推量で言つてみ れば、「道化」は、その本來の性質として、恐らく人智のあると共にその歴史は古いやうに思はれるし、且又、それだけに特別の努力も佛はれたことはなく、大 して新生面も附け加へられて來たやうに考へられてならぬのである。もつと意識的に、フアルスは育てられていいやうに私は思ふのである。せめてフアルスを輕 蔑することは、これは無くてもいいと思ふが――
 肩が凝らないだけでも、仲々どうして、大したものだと思ふのです。Feste!

 底本 銀座出版社 堕落論 2版

2002年4月8日 (月) 

いつとはなしに

 目がさめると下水のながれる地下道を歩いていた。しばらく歩いていると、なにかき んいろに光る女の人が口からつぎからつぎへと縞の猫を出しては向こう岸に放り投げているのを見た。身なりは尋常のもので、落ち着いた黒のワンピースだ。熱 心にやっているので、邪魔をしてはならないのだろうと考えて目礼して通り過ぎようとした。すると女の人が口から猫を出すのをやめてこちらを手招きした。何 であろうと思ったが、無視をするのも失礼なので近づいていった。すると女の人は口を後頭部まで花が裂けるようにひらいて、顔中口のようにして、なお手招き した。口の中をのぞきこんでみると、どこかの世界が下のほうに見える。ひたひたと水の音がして、これをどうしろというのだろうかと思うまもなく女の人が足 をもって飲み込んでしまった。口の中は生暖かいかと思ったが、意外に寒かった。しばらくは真の闇だったが、やがて落ちていくうちにぽっかりと明るくなっ た。明るくなったと思うまもなく、草地に投げ出され、視界が広がった。立ち上がってあたりを見回すとどこか非常にたかい山の頂のようだ。眼下に雲海が見 え、そこへと下っていく山並が見える。草地はかなりひろく、白い名も知れぬ花がまばらに咲いていた。

 降りていくしかないのだろうかと近 くの断崖まで歩いていったが、足がすくんで途中で立ち止まってしまった。そこで座り込んでしまい、目を閉じて耳をすませた。するとどこからかぎったんばっ たんときがきしむ音が聞こえてきたので、そちらのほうを探した。なにか非常に遠いところが動く点があるように思えた。そこでそちらのほうへ歩いてみること にした。

 歩いて小一時間もしないうちに見えてきたのは、のっぱらに広げられた莫大な面積の紙だった。正確にいうと非常に細長い紙のシー トがえんえんと広げられているので、しかもそこでなにかごそごそいうのだろうと思ってみると、ヤギが三匹、銘々勝手にこの紙をでたらめなところから食べつ づけているのだった。どうしてこんな間の抜けた旺盛な食欲にもめげずに紙はむしろ増えているのだろうと思ってみると、どうやら向うのほうに人影が見えるの だった。近づいてみると、そこにいたのは筋骨隆々でタンクトップの兄弟で、ひとりは一生懸命にタイプライターで紙のシートにえんえんと文字を書いている。 それで滝のような汗を書いているのだ。そしてもう一人の男はその兄弟に紙をどんどん渡している。ではこの紙はどこからくるのだろうと思ってその先を見る と、一匹の牛がいて、その牛からながれでた乳が小川のようになった溝を流れるうちに固まって紙になっているのだった。

 「なにをかいてらっしゃるんですか」

 と汗だくでタイプライターにかじりついている男に聞いてみた。向こう側ではヤギにもしゃもしゃ食われているのに何の目的でこんなことをしているのかさっ ぱりわからなかったからだ。

 「たまごだ、たまご、もう間に合わない!」

  男は振り向きもしないでそういうと、相変わらずかたかたと紙に何かの文字をタイプしつづける。困ったなと思ってともかく何を書いているのか確かめようと、 手近な断片を持ち上げて読んでみることにした。ところが、何度読んでも、読んでいるときは何が書いているかわかっているし、理解もしているのに、顔を上げ た瞬間にはもう何が書いてあったのかさっぱり思い出せないのだった。ただ、なにか、とてもうつくしい感じがするばかりだった。

 顔を上げ ると、もう誰もいなかった。よい匂いがしていて、誰もいない草地に風が走っていた。ふりかえって、がけまで全速力で走り出した。そうするとどうなるだろ う、ということは念頭になかった。がけを思いっきり踏み切ると、蒼空をいつまでもいつまでも落ちていった。あまりに落ちていく時間が長いので、そのあいだ にそれまでの人生を十分振り返ることができたくらいだった。下のほうにはミニチュアのような世界が見えたが、それがだんだん近づいてきて、まず、山に囲ま れたみどりの町が見え、それからその町並みに一角の屋根が見え、そしてあるいている人間たちの頭まで見えてきたなと思うと、あっという間に井戸に落っこち ていた。

 ものすごい水しぶきをあげておっこちた井戸からは空しか見えなかった。死ぬ前に見る青に似ている空しか見えず、まわりは暗い喉 のような井戸で途方にくれて、声をあげることにした。誰か気づいてくれるかもしれないと思ったからだ。小一時間ほど好きなことを叫んでいると、不意に誰か の顔がのぞいた。妹だった。こんなところで何をしているんだい、とたずねると妹は、おしおきをされているのというので、なにをしたおしおきなんだい、とい うと、妹は、大切なものを盗ってしまったのだというのだった。それで悲しくなって、いっしょに謝ってあげるから、上まであげてくれないかといったら、妹は いなくなっしまった。なにかいけないことをいったかと思って悔いていると、妹がまた現れて桶を投げ入れてくれたので、それにつかまって上まで上がって井戸 から出た。

 妹はそのままどこかへいこうとするので、いったいひどいことをするのは誰なのかとたずねようとしたところ、スーツ姿がなにか よこしまな男が広場の向こう側からやってきて、妹をどこかへ隠してしまった。何をするんだ、というと、スーツはとぼけた顔でもう帰ったほうがいいというの で、妹を助けなければならないのだとがんばると、おまえにははじめから妹などいないではないかとスーツが言うので、ああ、そうだった、妹はいなかったの だ、となくなってしまった妹にすまない気持ちが胸を切り裂いた。

 そうかもしれないが、いないものへの情愛がどうしているものへの情愛に 劣るだろうかとスーツにいうと、スーツはまったく聞いていなくて近くの家にかじりつくと、どんどん食べてしまってやがてすっかり食べ尽くしてしまった。そ してそのまま間もおかずにつぎの家へと取り掛かるのだった。こうして世界がすっからかんになってしまうといやになって、どうしたらとめられるだろうとあた りを見回した。するとバケツいっぱいの塩が捨ててあるのが見つかったので、それをひっつかんでスーツに投げつけた。塩を浴びたスーツはこの世のものではな い叫び声を上げて小さくなっていき、声もどんどんかぼそく甲高く
なってとうとう消えてしまった。

 妹などいなかったことを思い出 してしまった罪を悔いながら広場を出て、町外れまで行くと、墓場があって、墓場の入り口で墓守がにやにやとこちらをみているので、なにがおかしいのかと聞 いた。すると墓守は何もいわずにスコップを投げてよこしてから手招きした。しようがないのでついていくと、墓場のまんなかあたりにあたらしい墓穴が掘られ ている途中だった。そこでかれは仕事のごくふつうの続きというように穴を掘り始めたので、いっしょに手伝っているとやがて汗だくになった。いい感じにほれ たころになると、墓守は棺おけをずるずるとひきずってきて穴に放り込んだ。中身がないじゃないか、といおうとおもった瞬間、背中を墓守にけりつけられて、 棺おけの中に入ってしまった。いいタイミングでふたが閉まり、上からのびりと土をかけているようだった。

 抗議しようにもふたがどうして も開かないのでしばらく困っていたが、目が慣れてくると、棺おけの中が意外と広いことに気が付いた。そこでみまわしてみると、立派なドアが棺おけの中には あるのだった。それで、しようがない、とおもってドアを開けると、どこかのビルの屋上だった。目の前には突然現れたのに驚いたような飛び降り自殺をする姿 勢ではじに靴を脱いで立っている女の人がいた。真昼で、かなり風が強く、よく晴れていた。そこで、彼女のほうに近づいて、手を取ったが、驚いていたせい か、別に抵抗もしなかった。そうして、ぼくは彼女をお茶に誘った。長い話を覚悟して。


2002年4月9日 (火) 

全部、話題のソースがインターネット作家協会絡みなのがあれなんだが、まあ、いいや。引用はNAMから。

 以前、利子について書いたこと(利子の根拠は長期的な生産性上昇だとおもう、ということ、つまり、文明の配当@)を書いている人がいたので、びっくりし たというか、同じ様な発想ならより精緻なものを前提にした方がいいだろうと思ったので紹介しておく。@

  ついでにいうとこれは地域通貨のゲゼル絡みの話しである。ということは「エンデの遺言」にそういうことが書いてあったのかなあとおもったんだけど、どうも 思い出せない。まあ、思考に関してそうそう偶然と云うことはないから、書いてあったんだろう。エコロジーと経済を一緒に考えると、どうしても外部経済を考 えることになるから、それが原因かもしれない。、

 また、「売れ残り」商品としての芸術、という論考もあり、考えてしまった。@

  中間的な状態にあるものが、不確定であるが故に無制限の極端において表象される、ということはよくある。罪悪なんかもそうだ。無限に猶予される負債は怖 い。俗に言えば、用心に越したことはない、ということだろう。たいていのオーラはそれで説明が付くと思える。たしかに、芸術性というのは、享受経験の個々 の描写としては語られない。これが私の芸術の経験で、これは通俗的な経験だ、とは云われない。そういう意味で、「芸術性」というのは、たしかに享受経験を かたるさいの属性ではない。

 では、芸術というカテゴリーの有用性はなんなのだろうか。市場開拓的、あるいは欲望構成的、あるいは誘惑的 ということだろうか。むしろ対概念はなにかということ、どういう区別の必要をぼくが欲するべきかということなんだろうか。大量販売を目的とした、マーケ ティングと一般感覚を主要な構成原理にした作品との区別? しかし、特殊であるということを価値として述べることはうさんくさい。また、特殊嗜好商品とい う概念があればそれでいいだろう。また、売れない理由として、需要をもつ少数集団の存在を知っているが、かれらと出会えていない、という場合、これは流通 の機能不全の問題に過ぎない。同人的なものはそういう意味で、量的にマスな芸術と区別はないだろう。

 既知の市場ではなく、しかし合理的に構成、予定可能な市場を想定すること? 市場創出的機能。しかし、問題なのは、それでは、「芸術的」であることは、 市場情況の関数であるということになる。いや、実際そうなのかな。

  芸術という概念を保存して、芸術的というあいまいな概念をやっかい払いすればいいのか。これはたんなる疑問なんだけど、芸術というカテゴリーの歴史は、近 代以前以後とでどう違うのかしら。て、ああ、イーグルトンの「芸術のイデオロギー」でもよめばいいのか。さいきん死んだブルデューも本出してたなあ。い や、読めばいいって云われてもさ。ぶちぶち。

 概念的な問題構成というか、作品を構成するものとしての読者への意識をどういうふうに立ち 位置をおくかって、ことで、基本的に実践的で具体的な話しだと思う。いっそ、ロマン主義みたいに、芸術が、あるいは芸術史が、人間を道具として自己実現し ているんだ、というような考え方をすれば、とてもラクチンなんだが。

 或る意味で、主体を廃棄して相互引用性を強調しすぎると、そういう結論になってしまう。決定論じゃないか? 

 ところで、先日の日記で、コンタクト、と書いたのは接触ではなく、コンタクトレンズです。

 急に寒さがぶりかえしてきた気がする。

2002年4月10 日(水) 

http://hiroshima.cool.ne.jp/ogaman/haka/fairplay.html

 魯迅のエッセイである。べつに現下の政情を云々する気はないのだが、連想して、あまりにぴったりなどしているので笑ってしまい、もともと好きな文章なの で、あげておく。

 http://www.e-novels.net/hyoron/sijifos-under.html

 あと、探偵小説。これは、undergroundがらみ。

 探偵小説は引き算で、事件編と解決編の二部構成だおもう。つまり、過去と現在は分離されていなければならない。そして、事件編の情況は、有限の可能性を 発生する演算装置だ。ここでの眼目は、有限性ということ。

  可能な解決が無限であれば、あるいは、可能な痕跡が無限であれば、解決は不可能だ。無限から引き算で唯一にたどり着くことは出来ない。この「分離の要請」 と「有限の要請」からいうと、ハードボイルドは前者からの逸脱だろう。推理小説を偽装する現代小説は後者からの逸脱を意識することが多い。

  つまり、現在は現在であり、同時に痕跡であることは出来ない。これが分離の要請であり、悪無限の回避である。これは、なぞがなぞをよび、ということではな く、たとえばひとつの謎の解決が別の謎の解決を前提とするが、その謎は前者を解決しないととけない、というような、循環的な、あるいは相互前提的な事態で ある。

 また、本格探偵小説は、あきらかに犯人から探偵へのラブレターであるから、言語学のコミュニケーション・モデルで考えることは簡 単だ。それが役に立つかは別だが。この場合、小説の主体、人格を構成するのは、物語の真理は、この二つの親密ささという「神話」である。記号扱いされた死 者の名は呼ばれない。いいつらのかわで、もうすこし死者のことを考えてあげればいいのに、とぼくは推理小説を読むといつもおもってしまうのだが、小説は勿 論、そんなことには拘泥せずすすむ。

 だから、探偵小説にけむたいのは、つねにべつの事実を発見し、別の解釈をうむ人物だろう。しかも以前の解釈を排除せず、可能な解釈を減らす要素は肯定さ れるが、ふやすのはよくないのだ。

  別の視点をざっといっておくと、人間は履歴を持つ個人であり、非合理的な動機から理性的に行動し、主体として選択の自由を持ち、共通の言語、コードを持 ち、「神の手」によって、意図せざる協調のもとにある。これは探偵小説と、近代経済学の共通の仮定であるように、見える。参照、合理的期待形成仮説。


2002年4月11 日(木) 

 前回、推理小説についてかいたものが、あまりにも分かりにくいし不徹底なので気が差し、なんとかしようとす ることにする。なお、ぼくが推理小説というときかなり不用意にクリスティなんかが念頭にあるらしい。

  とはいえ、それほど深遠なことではないので、単純に、なぜ解決にたどりつくのか、という疑問を考えてみたと云うことなのである。たったひとつの真実にたど りつく、ということが、小説の構造として、可能になっている、とすれば、そのためには、小説は、どういう形式的必要にしたがわねばならないか。(周知のよ うに、推理小説以外の謎を扱う文学は、そのように一点にすべてが収束していく構造を持っていない)

 で、念頭にあるのが、数学で、数列が収束するか、発散するか、ということで、勿論、これは比喩でしかないけれど。

  「事件」というのは、謎を発生させる装置とみなすことができる。で、謎というのは、いいかえれば、複数の可能な現実を発生させるのだ、と、みなせる。した がって、この観点からすれば、推理というのは、可能世界を殺戮して、唯一の現実に収束させる行為だ。この意味で、推理小説は「引き算」的だ。線形の演算が 成り立つわけである。

 証拠及び推理からみちびかれる「部分的事実」が、可能な現実の総体を限定していって、ついに唯一にいたるんだ、と いうこたえがすぐにうかぶけれども、一般論としてそういうことが必然なわけではない。「部分的事実」の集積は、可能な解釈を限定すると同時に、ふやしもす るからだ。したがって、安定して、現実が、収束していくためには、総体としてつねに、「部分的事実」が解釈をふやすことよりも減らすことの方が多い傾向を おびていないといけない。

 もちろんそうだ、しかし、それは、そうした証拠、痕跡が、ひとつの原因、秩序からうまれたことの当然の結果で はないか、ということになる。つまり、事実からみちびかれる解釈への「支持票」はばらけるのではなく、特定の解釈を支持するように、あつまる傾向を持つ。 ここで疑問視したいのは、この収束である。なぜ、発散しないのだろうか。

 そこで、第二の特徴があらわになってくる。推理小説では、事件 は已に起きてしまっている。しかし、考えてみれば、これは、小説の問題としては、けっして当然な発想ではない。物語内容としては、過去は完了しているのは あたりまえだけれども、書き手にとっては、あるいは読者にとっては、まだあかされていない謎は、たとえ過去でも、書物のレベルでは、まだおきていない。む しろ、推理によって、事後的に起きるのだ。だから、意識的に、事件があたかもすでにおきてしまったように書かない限り、そのようにはならない。

  つまり、ひとつの現実の結果として、複数の痕跡や事実があるからこそ、複数の部分的事実から導かれる解釈は、ふたたびその一つの現実に収束して行くんだ、 とひとは考えがちだし、物語内部の理屈としてはそれはただしいけれども、物語そのものをいったん外部から問題にしてみれば、実際には、そうした部分的事実 の集積が、ひとつの解釈へと収斂していく、ということのほうが、ひとつの現実がはじめにあったということを構成しているんだ、ということである。だから、 ひとつの現実があった、ということで、収束を説明することは出来ない。それはむしろその結果だからだ。

 しかしここでなぜ、と書いているのはやはり便宜的なもので、むしろ収束するとすればどういう形式に従わねばならないか、ということが問いたいことで、そ れが推理小説を形式的に定義する一助になるような気がするからだ。

  そこで、まずいえるのは、どこかで、謎の発生装置である「事件」は完了形のものでなくてはならない、いったん確定した事件という出来事と、それへの対処、 という推理行為は分離されていなくてはならない、ということがいえる。これが、分離の要請となづけてみたものなんだけど、しかし、これは、別にホームズも ののように、事件が進行中で、探偵がそれを阻止する、というのでもいいのである。それは、あたらしい事件を発生させてはいても、ふるい事件の謎をそれ自体 が深めるわけではない。そういう意味で事件が完了していないといけないのではなくて、「何が不明で明らかにすべきことで、何が既知で分かっていることか」 ということがいったんは確定可能でなくてはならないということだ。問いそのものがなければ、解くことは出来ない。これはシンプルな話で、もし、すでにか たったことを作者が言い直したりしたら読者は怒り出すだろう。匿すことは許されても、変えてはいけない。あるいは、不確定な状態においてはいけない。決定 されていない事実は、未知なのであって、未決定なのではないのだ。その意味でも、事実は過去完了である、という性格が明らかになっている。

  仮に、推理そのものによって、推理の正否の基準が変化するならば、事態は根源的に恣意的なものになってしまう。従って、ある事件が解決したかどうか、とい う基準は、事件に対して、あるいは直接の関係者たちの思惑に外的に決定されている必要がある。事実のレベルだけではなく、事件の枠組みそのものが、決定済 みなのだ。だから、司法というものが外見よりもふかく物語を規定しているので、なにが犯罪で、なにが正当な司法権のもちぬしか、そして司法権力は信用でき るか、という問いが介在してしまうと、もはや、何を知り、それをだれにはなすことが、事件の解決であるか、という外的基準はなくなり、より不確定な判断に さらされてしまう。事件はそもそも起きたのだろうか。だが、なにをもって事件と呼ぶべきなのだろうか。

 完全に整合的な複数の解釈が最後 までとけあうことなく残り、そしてなぞはひとつも残らず、最後の一票、一方だけに帰属可能で、他方には絶対的に帰属できない事実、という特権的な事項を欠 いている、「現実」とはそのようなもので、そのような不確定さのなかで、「慣習」と「利害」が事態の解釈を決定する。科学は復た別の形式で事実の唯一性を 否定し、仮説主義をとる。したがって、この「最後の一票」、「特権的な解決の時点」の存在が、推理小説的なものを成立させている、ともいえる。ご都合主義 的なものでは、それは「自白」だったりするわけで、純粋に事実が論理的に確定しているかどうかあやしいものは、その最後の一票の機能を自白に負わせてお り、その意味で特異点というしかない。

 だから探偵の「無私」という点も復た特異なんだけれど、分離の要請ということにもどると、それは 犯人の利害と探偵の利害が関係を持たない、ということでもある。なるほど、認識は利害とは独立しているものだ、というかもしれないが、なにが知るべき真実 か、ということは、客観的に決定可能ではない。探偵は唯しることを望んでいると云うけれども、何もかも知ることは出来ないし、またそれを望んでいるわけで もない。だから、そこには取捨選択があり、意志がある。では、探偵はなにを望むのか。司法は、共同体の安寧の回復であるが、探偵はそれとは微妙にずれてい る。この事件へのフェティッシュを考えるとき、事件を事件たらしめるのは、その自己完結性だ、といえる。

 ちょっと混雑してきたけれど、推理の時間は「一旦停止」の祝祭時間で、身分や肩書きは、程度の差はあれたなあげにされている。容疑者としての平等社会で ある。他方で、事件の時間と解決の時間は、その祝祭時間が平常と接するへりの点だ。

  事実の解釈がひとつに収斂する、ということは、ひとつの部分的事実を確定することが、全体の解釈には影響しはしても、他の部分的事実からは或る程度独立し ておこなえる、ということを前提にしている。(ルービック・キューブのようなことを想像している。しかし、なぜ、ルービック・キューブは解けるのだろう か)たとえば、全員のアリバイが、相互に前提しあっていて、ひとりとして、他人のアリバイの真偽に独立に確定できる人がいないとしたら、すくなくともアリ バイに関する限り、事実は決定不可能だろう。ただし、勿論この場合、恣意的にだれかひとりをただしいと決定して為舞いさえすれば、簡単に事実の全体像があ きらかになってしまうのだが。この事実の正当性にはたいした根拠はない。

 こうした事態が、物的証拠のレベルで起きないためには、なぜな ら、まさにそういうことがおきれば、ある種のカタストロフィであり、「悪無限」となざされるべき、ドグラマグラのような、循環論法の内部から脱出できなく なるからだ、物的証拠の意味は確定可能である、ということが前提になる。科学捜査は一義的な答えを出す。それは迷ったりしない。また、容疑者グループ以外 のひとは、動機もなくうそをつかない。公的記録は原則として事実を伝える。

 うーん、どうもはっきりした、とはわれながら思えないんだけ ど、分離、独立の要請というのは、探偵が、被害者ではなく、第三者として介入することの必然と関係しているのかもしれない。いのちをねらわれていて、それ をふせぐ、というような事態は、犯罪や解決や、謎や認識の問題ではないだろうから。そこでは、たしかに実際的な必要から、相手の仮面を剥ぎ、欺瞞を暴露す ることは要請されるだろうけど、そのことそのものが、そうした知識や暴露がなにか重大な区切りとしては意識されないだろうし、むしろそうした知識が、ひと の状況を悪化さえさせるかもしれない。

Posted by jouno @ 05:40 AM JST [投票: 4 (+/-)]


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  多分、真相暴露で、暴露される真相というのは、物語の順序で言えば、事後的に付加されるものだ。だから、それが、付加ではなく、以前にあったものだ、とい う説得をしなければならない。推理の手続きとは、「それはべつのかたちですでにかたられていたことであった」という形で、「以後」に語られるものが「以 前」なのだと主張するための、時間の問題なのだ。

 事後に語られるものを、事前として構成すること、これが課題だ。

Posted by じょうの @ 04/18/2002 01:44 AM JST

2002年4月15 日(月) 

 http://www.easter.ne.jp/rip/index.htm

 彼女の才能をぼくは知っている。というか、小説いまネットでは読めないんで日記で彷彿してもらうしかないんだけどね。
 女の子文体だからコバルトっぽく内容がないかと思ったら侮ることになる。実はとても古典的な、というのは勿論賞め言葉だけど、正統派のものを書く。とき どき不意打ちにやってくる切れ味の鋭い付き離し方で分かるはず。

  さて、べつの企画もとりあえずサイトを立ち上げて、メルマガの記事を考えて、とちょっと、いろいろ、考えないとな、という情況、とりあえず、いま気になっ てるのは、寺社縁起、通俗、地域通貨、竹取物語、木を植えた男、緑化、地下水道、利子、後悔、維新、満州、あー、まとまりがない。

 イスラム哲学も気になるんだけど、立ち読みしたらそんな楽しそうではなかったんだよなあ。

  竹取物語で、御門とかぐや姫は、つきあってるわけでもなく、ふみをかわして三年、たがいのこころを慰める。考えてみれば、御門が執着した相手は、なんのこ とはない、ペンフレンドだ。そしてにもかかわらず、この物語を貫く痛みは、そうした瞬間が永遠ではないこと、喪失の痛みなのだ。

 言葉の 次元と出来事の次元が複雑にまじりあっていて、言い回しや単語や地名の起源譚がつけあわせみたいに出てくるけど、ここまで出てくると云うことは、このはな しにとってこれは重要なのだ。記憶すると云うことと、うけつがれるということ、それから、話は騙られるもので起きるのではない、ということに自覚的でもあ るんだろう。もともと、漢文との混合的な言語として物語が成立していることも忘れられない。

 月を見ても、月が鏡であるからには、見いだされるのは、失われたものではなく、ただ、自分の顔だけだ。

 そして富士山では、不死のクスリが煙をたてている。

2002年4月15 日(月) 

フェアプレイについて、メモ。
 競技において、競技が成り立つと云うことは不平等を前提にする。
 オリンピックのドーピングを念頭に置いてもいい。
 だから、フェアプレイとは、たんに平等というようなことではなく、
 なにを競うのか、その範囲を確定する理念である、ということだ。
 そして、この範囲そのものは外的に、慣習や理念によって決定されるので、
 それ自体としての基準は持たない。

 クスリがフェアではないとされるのは、クスリ込みの選手を競うのではない、
 という範囲確定がされているからにすぎない。義手義足、サイボーグを考慮せよ。

 実際、F1ではチーム力も混みで競争がなされることをフェアではないとひとはいわない。

 ただ、競技が競技として成り立つ必要から、フェアプレイを規定するこの範囲確定、
 が従わねばならない基準はある。オッズの問題である。

 この場合、ことはまったく理念の問題ではない。勿論、参加者の外延、範囲を
 きめる段階では理念は介在しているが、いったん参加者の範囲が確定すれば、
 この必要はかなり自動的に極る。

 つまり、ルールを、オッズが、平均するようにきめる必要、である。

 フェアプレイは実践的にはこの二つの要請に従う。問題は道徳自体ではない。
 なぜなら、ルールが極らなければ、フェアであることは出来ないからだ。
 
 経済的自由主義について考えれば、
 自由競争や資本主義がフェアであると考えるかどうかは、
 初期資本、身分、出自、教育、人種、エスニシティといったものによる有利、劣位を、
 競争にふくめるかどうかに依存する。
 (勿論、近代経済学はそもそもそんな差異がないかのように語ることでフェアの概念の難点を回避するんだけど)
 
 もっともこれについていえば、経済活動をギリシア的な競技パラダイムの延長で
 考えることこそ、問われるべきだろうけど。

 ついでにいうと、フェアプレイは十九世紀イギリスで成立した観念で、近代スポーツの
 成立とつながっていて、それは見せ物、賭事としてのスポーツからの遷移と関係する。
 だから、ここではオッズの要請としてのフェアから、理念としてのフェアへ移行がある。
 しかしそういうことが成り立つのは、「人間」としての理念、或る程度の、
 ブルジョワジー同士での同質性と余暇が成立し、競われるべき「差異」はその「余暇」の
 用法と才覚にのみ依存するという情況に関係するだろう。

 アマチュアリズムやフェアプレイは、均等に分配された余暇の活用の差異としてのみ、
 競われる差異が想定できる、という理念上の状態が前提にある理念ではないだろうか。


Posted by jouno @ 11:34 PM JST [投票: 2 (+/-)]


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個性、内面というのも、この「余暇の活用」ということに準じて理解できるだろう。それはつまり「投資」と同様の概念であり、それ以外での「同質性」と、差 異が余暇の活用にのみ依存する、という情況でのみ、ひとは、競争を賛美でき、個性を後天的なものとして語れるはずだ。

Posted by jouno @ 04/18/2002 01:22 PM JST

2002年4月16 日(火) 

下らないやつが下らない理由で支持しているからといって、その支持されているものが、
 下らないと云うことにはならない。まして、その下らない連中が世論だったり権威だったり
 すると、その下らない理由を反駁したい欲望は強い。

 が、正義や常識や道徳屋が嫌いだからといって、逆の行き過ぎをしたらやはり駄目じゃん、
 ということになるし、自分でもあまり信じていない意見を主張しているようなことになるだけ
 逆にもっと無責任なことにもなりかねない。

  第一、その事柄そのものについて詳しくないのに、それに関する或る意見のあらを見つけたからといって、その件に関する別の意見を支持する理由はならないだ ろう。だって、その件についてよく知らないんだから。ある根拠付けが駄目駄目だということは、そんな理由で支持しているやつの駄目駄目さを意味するだけ で、その支持されている事柄の駄目さを意味することはないからだ。

 誰だったかが、主張するときは、それを世界中の人がしたらどうだろう と考えよといってたらしい、それはむちゃくちゃだが、自分の意見に、人々が、盲目的に従っても大丈夫だろうという、そういう穏当さの基準というのは必要で ある。なぜなら、聴く人がぼくの意見を真に受けないことあるいは信じないことを前提に主張される意見なんて、くだらないからだ。

 つまり ぼくがいいたいのは、アンチ・テーゼとしてしか意味のない主張は、たしかに通用している主張の誤謬や一人よがりさを指摘することは出来ても、かならず別の 行き過ぎをしているのであって、それは対抗している、想定している意見の欠陥との関係でしか思考が働いていないからだ。そういう意味で、アンチ・テーゼで しかない主張は、相手に依存しているのだし、甘いのだ。つねに、二正面作戦が必要なので、実行可能であるように、少なくとも意志すべきだと思う。

  第一に非難されるべきなのは、道徳家、裁判官よろしく、常識や権威を縦に異論を「叱責」する連中だとしても、そうした主張に、アンチ・テーゼとしてしか意 味のない、いいかえれば、そうした大文字の意見の欠陥を指摘して、そこから飛躍して正反対の意見をとなえるという方向でたてられた思考は、そもそも事柄の 実態にねざしていないという意味でも、有害なのだと私はおもう。つまり、この意見は、アンチ・テーゼとしていわれているので、それが想定している反論とこ みにして、バランスを回復したい意図で云われているので、もちろん落ち着いて考えてみれば、両方の中間あたりを常識的に勘案したあたりがいいとはおもうん だ、という意見は、おかしいとおもう。なぜなら、そう思うなら、はなからそう云うべきで、たとえ過激なことをアンチ・テーゼとしていっても、聴く方は、 ちゃんと、本当はうんぬんといま書いたような意図なんだとうけとってくれるだろうというのは、単なる根拠のない期待でしかないからである。

  いきすぎた賛成をされたり、文字通り受け取られた場合、ということは考慮してあるべきで、たしかに、読者がみょうな反応することまでうけあえないよ、とい うのは、確かだけれども、文字どおり受け取られたり、非常に賛成された場合、というのはそういう例外的なケースとは違う。なぜなら、たしかに実際に、たと え文字通りうけとられる意図ではなかったとかいっても、そう書いてある、そう主張している、というのは重いからだ。

 たしかに自分はこの 件では少数派でだから多少過激なことをいってもバランス上ありだろうというのは、しばしばひとが考えることでたしかに実際その通りなこともおおいけども、 ほんらい主張してもいない、責任のとれないことを実際に効果として主張してしまっていることにはかわりはない。みながこの自分がいおうとおもってる意見を いうようになり、それで世の中動くようになり、という場合に、それでもありかどうか、という基準で、自分のいおうとしていることが、アンチ・テーゼという 立場によりかかった安易さをもっていないかをあらかじめ検証する、というのはぼくにはとても必要なことだとおもう。

 勿論、正論屋はそも そも正論なんてものがあると思ってる段階で好きになれないが、そういう居丈高な論法に有効に議論で反発するためには、返す刀でまちがった仕方で自分に味方 するやつや、尻馬に乗る意見にも対決する必要があるのである。そうでないと、結局、むかつく正論が、いつのまにか自分の主張のがわにかわっただけで、ミイ ラ取りがミイラになることになる。

Posted by jouno @ 05:57 PM JST [投票: 1 (+/-)]


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つ いでにいうと、この意見も、そういうアンチ・テーゼが有効であるような局地的な文脈、あるいは必要を無視した一般論である、という点では欠陥を免れない。 とはいえそれは撤回すると言うことではないのであって、アンチ・テーゼとして意図され、アンチ・テーゼとしてのせまい有効範囲しかもたない意見が、いつの まにか正論になってしまうような場合には、つねに、それをもとの文脈にもどしたりするような方法も含んで、批判が必要なのだとおもう、ということである。

Posted by じょうの @ 04/18/2002 02:22 PM JST


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2002年4月17 日(水) 

 毎回タイトルはかなりいい加減。

 遊覧船紀行

 見逃していたんだけど、達意の文 章だとおもった。ので、メモ。www上のエッセイやコラムのよくある文体というのは、文章そのものは、平明で、キャラクターが出ているようなものが多いけ れども、こういう言葉が賦活されている書き方というのは、当然、いいよな、と思った次第。

 Xanadu

 ちょっと様子がおかしい天才テッド・ネルソンの考えた、ハイパーテキストというアイディアの原型的なもの。ぼくとしては、こういうアイディアがとっとと 実装されてほしい。分散処理がずっと進歩してるんだから、けっこう簡単だと思うんだけど。

 wikiwiki、 とくにTikiなんかは、ページが変更されても履歴と差分が残るし、InterWikiでほかのサーバとも連携できるし、リンクがすべて逆リンクでもあ り、リンク切れの心配がない、という特徴もかなり達成されている。別個に進化したものではあるけれども、ちょっと加工すれば十分、Xanadu的な機能は つけられるんじゃないだろうか。

 そういえばぼくはオカルトにはちょっと偏っているくらい否定的だ。科学万歳。というかSF少年だった後 遺症か? 神秘体験は全部ほんとにあったことでもかまわないし、そんなにいうんだったらそれは本当に起きたんだろう。と思っている。でもそれに対する解釈 に距離を置く。たとえば、幽霊が見えるんだとしたら、それは幽霊が物質だということに違いない。だって、見えると言うことは光が反射したということなんだ から、定義上。ということは、もしも幽霊が死者であるとしたら、しかし、幽霊が物質で、精神をもっているなら、それは生物と呼ぶべきだから、そのときのぼ くの反応は、「へー、人間て死なない、或は死んで幽霊という生物に変化するのかあ。それは奇妙で面白い物理現象だなあ」であって、死んで幽霊になるんだ、 ではなかったりする。と、ことほどさように、ぼくは頑くななのである。てか、物理でどれだけのことが説明できるのか考えもしないで物理で説明できないなん ていわないでほしいよなあ。

 なんてことを、ひとが怪談をもちだすたびに言い出すほど、しかしぼくはいやなやつではない。というか、SF 少年は、不思議なことは大好きだし、不思議なことが本当であってほしいとすらねがっているのであって、それを卑俗なプラグマティズムで処理されちゃうのは いやなくらいなんだけど、不思議で感動的なのは世界の物質的な理の精妙さとつくしさだと思っていると云うだけなのである。星が岩の固まりであるというの は、十分にロマンチックなことだと思うのだが。

 とはいえ、ひとが幽霊を見る、ということはとても面白いし、ときには感動的なことでもある。人間のファンタジーと執着とつくりだすおはなしと日常の営為 とがからみあうさまは、どれだけながめていてもくみつくせない。

  (じつをいうとオカルトがつまらないのは出来のわるいSFだからである。天国があってそれが物質的なものではないというのなら、色とか触覚とか見た目と か、そういう物質的な形容をするのは、変だ。すでに椅子といっておきながら、これは物質ではない椅子で、物質ではないもので出来ているのだ、とひとがいう とする。一寸待て。その文章は意味をなしてないぞ。というのは、この場合、物質ではないとはどういうことか、なんら基準も定義もないからだ。だからこの場 合、この言明は実際には、これは椅子っていうより、ちょー椅子なんです、といってるのと殆ど変わらない。ちなみに、この基準や定義というのは、物理の問題 ではなく、言葉の問題だから、科学の発達がどうこうとかそういうこととは関係ない。定義上、主観に対して独立な外的対象を物質というんだから、神様が見え たとしたら、それは妄想であるか、神様は物質であるか、どっちかである。)

 そういえば、タイムマシンのことを書いた本で、理系のジャー ナリストが作者なんだけど、わけわからんことを書いていた。全部が全部とは云わないけど、これはクローンのことが云われるときにも似たような馬鹿なことが いわれるけど、どうも理系の人が哲学したとき素朴なことをいうもんだな、とちょっとおもってしまった。

 つまり、タイムパラドックスの話で、時間を戻って、昔の自分にあったとしたら、魂はふたつにわかれているのか、どっちがどっちなのか、同時に二つの場所 にいることになるのか、これが哲学的なパラドックスを構成するというのである。

 ええと、これがおかしいことはすぐ分かる。変だ。あと、クローンとかでも、魂は同じなのかとかいうやつがたまにいる。

  過去の自分とあったとき、なんら哲学的な問題は起きていない。ましてや魂などという意味不明なものを持ち出す必要もない。わたしと、子供のときの私は、単 に別の人間だからだ。わたしの記憶や人格も混みで(ついでにいっとくと、クローンというのは本来、というか実際には、たんに双生児の、身体の問題でしかな い。ここでは仮にSF的な仮定をしている)クローンを作ったとしよう。そして、技術的に、どちらがオリジナルとはいえない、としよう。あるいはオリジナル が保存されるのではなく、分裂させるという形式でおこなわれたため、論理的にもどちらがオリジナルとはいえない、としよう。

 さて、ここ に魂の同一性やそれに似たなにかの哲学的問題は生じているだろうか。まったくない。この二人は、まったく同じ資格で、過去のオリジナルに対しては、同一人 物である、といっていい。社会的にだけでなく、哲学的にも。しかし、そのことは、この二人がおたがいに、単に性格と記憶と身体が同じだけの別の人間であ る、ということをさまたげない。

 ここでおきている混同は「同じ」という言葉の二つの違う用法である。つまり、同じ属性を持っているとい う意味での「同じ」と同一のものである、という意味での同じ。前者の「同じ」ということは、後者の意味で「同じでない」もののあいだにしか成り立たない。 なぜなら、二つのものについてしか、「同じ」であるとはいえないが、二つあると云うことは、それとそれが、「同一のものではない」ときだけだからである。

 ではでは。

Posted by jouno @ 08:53 PM JST [投票: 0 (+/-)]

2002年4月19 日(金) 

 松本恵が松本莉緒(りお)と改名して復活していた。ちょっとびっくり。引退して美少女なのにもったいないと 思って いたので、とりあえずよかったなあ、と月並みな感想。しかし、ここんとこ漫画やテレビはリサイクルばっかりという感もある。もちろん、リサイクルされるほ うの咎ではない。リサイクルが目立つのは、新規が駄目なせいで、よいものが復活するのはいいことだ。

 フェミニズムというとセクシャルな ものとは対決姿勢、というイメージが強いと思う。それで、清教徒的な潔癖のイメージから、きらわれる、ということも起きるし、妙に批判が説得力をもってし まう、ということもあるとおもう。つまり、人間の自然を否定するイデオロギー的なひとたちというイメージだ。こういうイメージは、まったく根も葉もないも のとはいえないけれど、公平に見れば、間違っている。

 ポルノグラフィが批判されるのは、それが暴力や男性優位を強化するイメージ、メッ セージを多くの場合内包しているからだ。少なくとも、それが女性に対して、積極的に肯定されていいようなありようはしてこなかった。ここで重要なのは、こ れを、性的にお上品であることを強要する道徳的コンテキストと関連させて考えるべきではないということだ。「セックスは穢い」というような上品な価値観は むしろ男性的なもので、フェミニストがポルノを批判するのは、たんに、女性がなぐられたり意に反しておかされたり、完全に男性的な幻想によってものあつか いされる女を見るのは不愉快だからで、それはごくごくあたりまえの感情だろうし、それが曖昧な形であれ実際の社会的な関係にも反映していくとすればなおさ らだ。だがもちろん、そのことは性的妄想やその表現が、道徳的に禁圧されるべきだという主張にはまったくつながらないのである。

 しか し、リブが幸福な男女の性的関係、あるいは肯定的なイメージを提出できなかったことも事実で、性的主体としての女性が自分を、自分の欲望を肯定するのがむ ずかしかったのも事実で、そこから、禁欲的な潔癖症フェミニスト・イメージも、勿論、安易にそういうイメージにのっかることのおろかさも指摘されるべきだ けど、うまれてきた。

 でも、実際のところ、フェミニズムが、女性がセックスを肯定的に考えることと対立している、ということはないのである。そのへんの事情が、とくに日本で はあまりに知られていない、という気がする。

 総括的な情報として、
 (e)merging

 特に、
 リサ・パラックの記事

 また、国内では、
 ラブピースクラブ

 といったものがある。

 ついでに、話題の夫婦別姓については、
 夫婦別姓(Apendix内)
 がくわしくて、

 国会議員の
 水島広子さんが活躍しているらしい。

 あと、まったく関係ないけど、ブラウザには、Mozillaがいいですよ。


Posted by jouno @ 10:52 PM JST [投票: 2 (+/-)]


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Comments
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これがうわさのLisaのページ。英語。
Lisa Palac

Posted by jouno @ 04/20/2002 11:04 PM JST

2002年4月 20日(土) 


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メモ:母系制、母権制、戦争
04/25/2002 posted by jouno


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母系制、母権性、戦争、などなどについての資料と少しだけ考察。

しゃべりたがる私 4/23
ねこのしっぽ 4/23
ひるねこ手帳 4/24
人間城の主な日々

資料。
母性

母権制
ぼけんせい / matriarchy

  女性が社会において重要な地位をもち、家族内での権威や政治権力を握っているような社会体制をいう。かつては、人類社会の進化史上、父権制の成立に先だっ て普遍的に存在していた社会体制であると信じられていた。母権制の存在および母権制先行説は、19世紀の後半にバッハオーフェンやモルガンらによって、社 会進化論の立場から提唱されたもので、当時の支配的な学説の一つとなり、20世紀に人類学者により決定的な反駁(はんばく)が加えられるまで、数多くの論 争を生んだ。モルガンの影響を受けたエンゲルスによって、マルクス主義の教義にも取り入れられたことは有名である。(抄録) 出典

母系制
ぼけいせい

親 族カテゴリーや親族集団への帰属権が母を通じて継承され、こうした母系出自集団が社会的、政治的に重要な機能をもっているような社会を母系制社会とよぶ。 母系制はしばしば母権制と混同されてきたが、権威や権力の所在に関する限り、母系制のもとでもその集団の男性が握っているのが普通である。同じ母系制と いってもさまざまに異なった形がみられるが、大別すると三つの型が区別できる。(抄録) 出典

<引用>

【第五・六回】 5/6 性差と文化 ─男性優位の社会は、なぜ広くみられるのか─
■はじめに
・性差による行動パターンや分業、地位の違いなどが現実に認められる。これは何に由来するのだろうか。生物学的
な性差、文化的な性差、いずれか一方があるのか、それとも両方の側面が存在するのか。
・「男性優位の社会」が歴史的・地理的にきわめて広く存在するのに対して、「女性優位の社会」の例というのは、
なかなか挙げるのが難しい。どうしてなのか。これらは本能に由来するものか、それとも文化や環境要因から説明可
能なものか。
■初期の進化主義人類学理論による母権→男権移行論
・モルガン、エンゲルスの母権社会論:初期の人類社会が性的に平等もしくは母権的だったと主張。
■生物学的な性差
・形質・体力、味覚・嗅覚・触覚・視覚など、あらゆる身体能力において性差は認められている。また、かかりやす
い病気の種類や数も異なる(モンターギュ)。ホルモンの分泌量の違いにより、行動パターンや能力に差異が生じ
る。
■通文化研究
・マードックによる比較研究(1179の社会を通文化比較):夫方または夫の父系親族への妻の居住を規範とする社会
が4分の3。これに対し、妻方あるいは妻の母方居住を規範とするのは10分の1。また、父系制は母系制の5倍の頻
度でみられる。さらに、母系社会のうち、母方居住は3分の1(残りは母の兄弟とともに住む─アバンキュロカリテ
ィ─出自は母系でも財産のコントロールは男性による)。逆(アミタロカリティ)は存在しない。→歴史的・文化的
に「男性優位の社会」は広く認められる。
・レヴィ=ストロース:「婚姻とは集団間で交わされる女性の『贈与』である」
■未開社会における事例
(1)父系社会で、かつ男性優位の社会:ヤノマミの事例→戦争と男性優位の深い結びつき
(2)母系社会の事例:母系社会=女性優位の社会か?
・多くの母系社会では、子どもにとって、父親よりも母方のオジ(つまり母親の兄弟)との結びつきが強い。また、
畑などの財産管理は、母親よりむしろ母の兄弟の手にゆだねられる。
・ヤノマミの事例において、戦争と男性優位の結びつきを指摘したが、じつは母系制・母方居住の社会にも戦争が頻
発する社会に多くみられる(北米先住民のイロクォイ、プエブロなど)。これはなぜだろうか?これらは、男性優位
の社会が戦争とは関係ないという結論に結びつくだろうか?→母系社会の戦争は対外戦争がひろくみられ、逆に父系
社会では近隣の集団との戦争が頻発するケースが多い(ウィリアム・ディベイル)。→やはり母系社会においても、
男性優位は広く認められ、またそれは戦争と結びついていると考えられる。
(3)父系の牧畜社会
・逆に、家畜に最大の価値をおく牧畜社会(東アフリカのマサイ、ヌエルなど)では、対外戦争が頻発するにもかか
わらず、強固な父系制が保たれる。(財産は遠征部隊とともに移動する。)
■人口調整とマチズム
・女児殺しによる人口調整
■誤った考え方のいくつかの事例
・生物学的性差は存在しない
・生物学的性差は存在するがゆえに、男性優位は必然である。
・攻撃性は男性の本能であり、ゆえに男性優位の社会が普遍的にみられる。(cf. フロイト理論)
・女性の社会進出が現代社会の諸矛盾を生み出している
■まとめ
・生物学的な性差は存在する。
・男性優位の社会は歴史的・文化的にかなり広くみられる。しかしそれは「生物学的な差」によって説明するより
も、文化的な諸要因によって説明する方が多くを語ることができるように思われる。
・男性優位社会が広くみられることと、「男性優位社会が今後も永遠に続くかどうか」を考えることは、別の問題で
あろう。「なぜそれが今まで続いてきたか」という存続の条件を考えることは、性差やジェンダーに関してどのよう
な立場をとる人にとっても、必要かつ有益なことと思われる。
■参考文献
・西田利貞『人間性はどこから来たか』京都大学学術出版会、1999年。
・上野千鶴子『女は世界を救えるか』勁草書房、1986年。
</引用> 出典


以下は、世界大百科事典


母権制 ぼけんせい matriarchy

(1) 財産や集団の成員権などが母系をたどって伝えられ (母系制), (2) 婚姻生活が妻方の共同体で営ま
れ (妻方居住婚), (3) 家族内外で女性が優越的地位を有する (家母長制) という一連の要素を内包する
社会制度をさす。 《母権論》(1861) を著し原始母権制説を唱えたバッハオーフェンによれば, 人類
の最も原始的な段階では乱交的性生活が営まれ, 血縁関係は母系的にたどられた。 子どもは母方に
居住し,確実に知られる唯一の親として母親が尊敬された。 母親への尊敬は女性が社会的・政治的
に権威を有する〈女人政治制〉を形成し, このような社会が父権制成立以前の原始段階に存在した
という。 だが未開社会の調査資料によれば,母系制や妻方居住婚規制を有する社会でも男性が家族
の実権を握っている場合が多く, 家産の管理運用権は母の兄弟から姉妹の息子へと継承される。 さ
らに女性が政治権力を専有し,世襲的に継承する社会は現存せず, 真に母権制と言いうる社会の存
在は疑問視されている。 ⇒父権制‖母系制

谷口 佳子

世界大百科事典


母系制 ぼけいせい matriliny

狭義には母系出自のもつ規制をいう。 すなわち集団の成員権が母親を通じて代々子供に伝えられて
いく出自の規制をいい, このような規制にもとづく集団を〈母系出自集団matrilineal descent group〉
と称している。 自分が所属するところの母系出自集団の成員を図示すれば, 図 のようになる。 自
分 (EGO) とおなじ出自集団の成員は, 図中黒印で示された者たちであり,自分 (EGO) の母親 (●印)
を通じて関係づけられた者たちである。 ただし成員権はかならず女性 (●印) を通じて伝えられるの
で, 母方親族でも男性 (▲印) の子供は自分 (EGO) とおなじ出自集団の成員とはなりえない。 また母
親を通じて伝えられた成員権は, 兄弟姉妹のあいだでは異なることはない。 すなわち母方親族は,
母親を通じて関係づけられる血族のすべてを含むが, 母系出自集団の成員は自分 (EGO) より上位世
代の女性を通じてのみ関係づけられるということである。 このようにして,母系出自集団の成員
は, さらに図中矢印の方向へと関係を拡大しうる。 統計析出方法に問題はあるが,アメリカ人類学
者G.P.マードックの統計にしたがえば, 母系出自を採用している社会は調査された 563 社会のうち
84 社会である。 母系出自規制にもとづく集団は,組織された単位やレベルに応じて, 〈母系家族〉
〈母系親族〉〈母系リネージ〉〈母系氏族〉などと称される。

 〈母系制〉という概念はまた広義にも用いられることがあり, それは出自の母系性 matrilineality
を含むだけでなく, 母系相続,母系継承,母方居住,母族の権威等々の諸規制をも随伴するような
諸規制の集合を意味するよう用いられ, 母系制の〈理念型〉とされてきた。 しかし出自規制が他の
諸規制と相関するかいなかは, 統計上の問題であり (〈父系制〉の項参照), また個別社会の事例に
照らして考えねばならないことである。

 〈母系制〉の問題で 100 年来議論の多かったのは, 母族すなわち母系出自成員の公的権威の問題
であった。 女性が社会の公的権威を掌握し,男性を支配するという権力形態である〈母権制〉が,
〈父権制〉に先行する古代社会の一般的社会形態であったという説は, 母系制社会にさえみられな
いということで否定されつづけてきた。 母系制社会においても公的権威は男性が掌握しているこ
と, 母系制を採用している社会は,人口支持力のある定住農耕民社会にかなり集中してみとめられ
ることなどが, 〈母系制〉は〈母権制〉ではなく,かつ古代社会の形態とはいちがいにいえないこ
との根拠となってきた。 〈母系制〉は〈母権制〉ではなく,J.J.バッハオーフェンらの唱えた〈母権
制〉は存在しないということは, 今日文化人類学上の定説となっている。 しかし今日〈母権制〉と
は言わないまでも, 母系制社会における女性の公的権威がないわけでも弱いわけでもなく, 女性が
経済的役割の中心を占めていたり, 首長の任命権などをもつなど,男性とはちがったきわめて強い
公的権威をもつ社会があり, 女性の公的権威については今後再考が加えられ, 議論が今後におよぶ
余地はけっして少なくはない。 ⇒出自

渡辺 欣雄

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父権制 ふけんせい patriarchy

厳密にいうと,(1) 地位や財産が父から子へと〈父系的に〉伝えられ, (2) 結婚に際し妻が夫のも
とへ移り住む〈夫方居住婚〉が支配的婚姻形態であり, (3) 父が家長あるいは族長として権力をも
つ〈家父長的な〉社会制度をさす。 しかし一般的には第 3 の要素を強調することが多い。 ヨーロ
ッパでも 19 世紀まではこのような父権的家族形態が有史以来不変の自然な形態であると考えられ
ていたが, バッハオーフェンの《母権論》 (1861) 以来, 人類は原始乱婚時代より母権制へと進
み, その後古代文明社会において父権制が確立したとする発展段階説が優勢になった。 だが人類
学的研究の進展にともない, 真に母権制と言いうる社会や原始乱婚時代の存在が疑われるように
なるにつれて, この学説の勢力は衰えていった。 現在では包括的概念としてではなく, 父権制
の諸側面をそれぞれ独自に考察する傾向が強い。 ⇒父系制‖母権制

谷口 佳子

...引用ここまで。


Commnet:

  母系制というのは婚姻制度の問題で、必ずしも母権制とは限らない。そして標準的な人類学の見解は、母権制が存在したというたしかな証拠を見いだしていない ようだ。もっともこのへんはたしかな資料を見つけられなかったので、印象である。が、母系制の社会が実際には男に権力があった、つまり母系かつ父権であっ たということもたしからしい。左翼系の議論で、いまなお主張されているエンゲルス由来の原始乱婚制、母権制、家父長制という進化論は現在では基本的に否定 されている、というのはまあ、自信を持っていってもいいだろう。もっとも、家父長権の、女性の権利の程度は文化によって多様だから、対等に近い、あるいは かなりつよい女性の権力を認める文化類型がかつてはかなり分布していたのが、次第に抑圧されたと云うことはあるだろう。しかしそのことは抑圧前をユートピ ア的に語る理由とはなりえないだろう。むしろ、文化のヘゲモニーに対抗する姉妹たちのネットワークはつねに存在してきた、そしてその価値を評価すべきだと いうふうにいったほうが、かつて権力は女性のものであったと語るよりいいのではないだろうか。

 原始母権社会から父権社会への移行という 「ストーリー」はインターネットでながめていても非常によくみるし、議論の余地のない前提として語られていることが多い。実際かなり議論の争点になってい るところでもあるらしい。とくに民俗研究、神話研究では、原始母権社会を想定する議論が多い。もっとも母系と母権の混同もかなり多いけど。

  しかし女神崇拝や地母神崇拝をもって女性的な文化、あるいは男性優位ではない社会の存在の証拠と見做すのはおかしい。マザコンは男の属性でもあるだろう。 女王陛下の007、天照大神、マッチョやジェントルマンこそ、観念的に母を崇拝し、現実の女性を蔑視するのではないか。

 べつのいいかたも出来る。母性崇拝は農業との関係で考えるべきで、それは抽象的な一神教が砂漠や草原、牧畜との関係で考えるべきだ、ということにもなる だろう。

  母親=生む性ということから一方的に賛美する理念が、国家主義に利用されてきたのはつねに想起されなければならないし、まさにそうして理念の上だけで賛美 されることで特定の役割を押しつけられ、抑圧されてきたのもとうの女性たちであった、とすれば、子を産むことという現実と乖離してそこになにか理念やロマ ンを見いだす視線には注意が必要だろう。

 ついでに、というかこれが本題。
 笙野頼子「母の発達」
 傑作。おすすめ。

Posted by jouno @ 04:33 AM JST [投票: 1 (+/-)]


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Comments
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http://www.mag.keio.ac.jp/~fumika/concon1/text6.html
母性信仰とか。

Posted by jouno @ 04/25/2002 05:33 AM JST


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非常に興味深い資料をありがとうございます。
何の気なしに投げたボールが、思いがけずたくさんの人に受け止めてもらえてうれしい限りです。

母系とか母権という言葉から連想したのは、オランダ映画「アントニアの食卓」です。ご覧になったことありますか?
あれも一種の母系ユートピアですね。
落合恵子が絶賛していました(笑)

Posted by とこり @ 04/26/2002 03:31 PM JST


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コメントありがとうございます。
http://www.asmik-ace.com/Antonia/
これですね、アントニアの食卓。残念ながら未見です。
母権については、そういう関係性はつねにどこにもあったと思うんです。
しかしひとつの社会がそういうふうに運営されてきたことは多分なかっただろうと。
母系という言葉について補足しておくと、母系というのは、そのひとが、どの一族に
属するかを母方の系譜で決める、という以上の意味はないわけです。で、母方の叔父が、
基本的には権力を持つ。
母というのは微妙なテーマでマッチョな保守主義者とフェミニストがともに、
もちろん別な意味でですが、よりどころにしてきた。
しかし、母がひとつの理念となってしまうと現実の母は抑圧される。
あと、戦争との関わりで云うと、女性が本質的にどうこうという理由ではなくて、
もっとも皺寄せを食う、そういう利害の、立場の問題として、女性の方が平和志向で
ありうるとおもいます。だから、具体的なその女性の社会的位置によっては、好戦的でも
ありうるだろうと。

Posted by jouno @ 04/26/2002 04:07 PM JST


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手違いで消してしまったので再掲。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/hsc/nurse/nursing/child/miyazato/kougi01.html
母性と社会。

Posted by じょうの @ 04/26/2002 04:15 PM JST


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も ちろん、もちろん、母権社会、というものの存在や、母系社会での女性の権力のつよさに疑義をはさむからといって、そういう認識が、女性に社会的、政治的能 力が欠如しているという帰結にゆくべきではないのであって、そういうあやまった概念への反論として母権論というのは出てきたのだけど、それが事実によって 反駁されているとすれば、反論も別のやり方でしないといけないだろうと。
そういう意味で
窓のとおくの論法は面白かったです。

Posted by jouno @ 04/26/2002 04:53 PM JST


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Comments





2002年4月25 日(木) 

切れ切れに。内輪受けがぼくはきらいだ。括弧笑いもあまり好きではない。顔文字は一度も使ったことがない。ぼ くは客 観的真実があると当然のように信じている。理性は感情よりただしい。説教はゆるせない。大人のホビーとやらの意味が分からない。ライターとかにこるのはど うかしている。アウトドアとかバイクとか、何のつもりだとおもう。ロートレアモンが好きだ。芸能人をひどく嫌うのはなにか過剰だと思う。想像力がだらしな く奔放なのだ。知らない人はきらいになるはずもない。説教が嫌いだから、杉良太郎や岩城こういちがふるくさい説教をするのをほめたたえるような風潮は嫌悪 する。啓蒙も許せない。おんなのひとを古風だからといってほめるのも醜悪だ。というか、教えてやるというスタンスではなされる筋合いはだれにもない。異見 があるといえばいい。勿体振った口調で「おしえてやる」男という類型。しかも口調は必ず文人風、漢文めいた口調。軽薄な現代の風潮を「嗤う」というスタン スほど、ゆるしがたく軽薄なものはない。というか「嗤う」という文字を使った段階でぼくは色眼鏡で見るぞ。なんでもかんでも趣味の相違に還元してしまえば 大事な自分はまもれるが、はたしてそれだけの価値があるのか、自分らしさなんてものに。権力というやりかたではなく、人間同士の行動の相互の調整は可能な はずだ。一流と二流はたしかに断絶がある。そこにはわるいけど議論の余地はない。一流というのは、こちらで大目に見たり、あわせなくても成立していると云 うことだ。それは教養が鑑賞者にいらないということではない。きらいなものだらけだ。すぐにあやまるのは面倒だからだ。叱られたと異論を受けたとき表現す るのは傲慢だ。

2002年4月26 日(金) 

遊覧船飛行
04/19
04/22
04/25

暗幕日記 4/26

窓のとおく 04/25

  何時も思うのは、女性は差別談義なんかしてないで実力でのしあがればいい。そういう努力もしないで、という口吻がいかに間が抜けているかということ。だか ら、いま、まさにあなたにむかって、そういう努力をしているではないか、という反論をまったく予期しないらしい。いまここのほかにどこに戦いがあるという のか。女性に課された偏見や不利を是正するためには、そうした偏見の是正の必要を認めさせることもまた活動の一環であるにきまっている。実力さえあれば、 社会の偏見など関係ない、というのは、第一にそうした偏見に対してほかならぬあなたはどう考えるのか、どうすべきだと考えるのか、という問いから巧妙に逃 げを打っている点で卑怯だし、実力が公正に評価されるかどうかを問うていない点で非現実的だ。(競争主義の社会という価値観そのものだって当然、問われて いいはずだ)そのうえ、女性の方が余計な努力や才能を男性より要求される筋合いが何であるのか、という問いにもこたえていない。多数派だとは思わないが、 男性優位のシステムのなかでのほうが生きやすい女性、そういう大勢の要求する女性らしさゆえに仕事面での能力にかける女性だっているだろうが、まさにそう した「教育」こそ男性優位のシステムの結果なのであって、あたかもそれが原因や理由であったり、女性が本質的にそうだというような論調は、よくいってもご まかしでしかない。

 ひとこといいたい 不公平感

 家族手当が必要なのは、専業主婦という制度や、扶養家族の養育費を個 人で負担するシステムだからで、養育費が何処からも出なければ、単に育てられなくなるだけでしょう。家族手当がつくからといってそのひとが贅沢をするわけ でも得をするわけでもない。企業が負担するというのは、結局、子育てや家事という不払い労働の受益者だからです。働きに応じて、というだけではなく、必要 に応じて、という原則だって重要なのだとおもう。社会福祉的なこういう「働きに応じて」から逸脱する手当について反対する人は、そういう家事労働、子育て という不払い労働への手当の問題も当然、考えるべきだとおもう。それに、直接、価値を生まないが、社会的にする必要があることはたくさんあるわけで、そう いうもののために政府があるのだから、等価交換の原則から見れば市場的に価値をうまないものにつかうおかねは、すべて不公平にみえるが、いったい市場的に 価値を生むと云うことがそれほど絶対の基準なのか、ということを問うべきではないのか。だいいち、独身者は家族手当が付かないからといって損しているわけ ではないし。


Posted by jouno @ 07:13 PM JST [投票: 0 (+/-)]


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Comments
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うーむ、とはいえ、とはいえ、遊覧船飛行でかいてあるみたいに、なにより、具体性なんだよなああ。

Posted by じょうの @ 04/26/2002 09:08 PM JST


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遊 覧船飛行からリンクされているbbs(ぼくとしては議論目的で書き込みに行くことはあまり推奨できないのでリンクしない)で、情理ととのったコメントが管 理人さんからなされている。で、それはそうだとおもうし、「攻撃」しても仕方がない、ともおもっているんだけれど、少なくともぼくはこのさい、ある型のも のいいに反駁しておきたかったので持ち出したので、そういう意味では下手に実例にリンクしない方がよかったかもしれない。発言をした方そのものにどうこう ということは思いもしなかったし。ただ、そういう扱い方の感情的な波紋というのはたしかにともなうんだよな、というのは盲点で気がつかされた次第。あと、 関係ないけどむかしなつかしシダくんをこんなとこに発見。はろはろ。

Posted by jouno @ 04/27/2002 04:09 AM JST


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触発されて、メモ。

憎しみとは外的原因の観念を伴う悲しみである。

「エチカ」スピノザ

参照 みんなのエチカ

やっぱりスピノザはおもしろい。

Posted by じょうの @ 04/27/2002 05:05 AM JST


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2002年4月26 日(金) 

制度のいいとこ取りは出来ない、という議論に関して。これはありとあらゆる改良の努力を嘲笑する類いのものな ので、きちんとした反論をしておくことは必要だとおもう。根本的なのは、変革可能性を無視していると云うことだろう。

  制度によってあるメリットを、あるデメリットと引き替えに得ている、としよう。しかしまずこの前提こそうたがわねばならない。私たちがある制度によってう けるデメリットは、その制度のほかのメリットと引き替えに、つまり、セットでなければならないのか。また言い換えれば、そのメリットをうける資格として、 そのデメリットをひきうけることが前提になっていなければならないのか。このようなことをその両者が同一の制度に属するという理由によって一般的に云うこ とはできない。

 もちろん、一方をうけいれることが必然的に他方をも受け入れることである、という場合はある。だがそのことを何の権利も なく、ひとつのシステムを全体として肯定するか否定するかということを強いるほど一般化する根拠は何処にもない。ひとつの制度に属している、ということ は、なんら、その要素同士が必然的にむすばれているということにはならない。部分が変更されれば全体は単に配分や関係がかわるだけで、無効になったり崩壊 するわけではない。ひとつのメリットとひきかえにされうるデメリットはつねに複数ありうる。

 じつをいえば、そんなことは明白なので、無意識のトリックとしてしばしば、制度のいいとこどりをするのはいけないという議論と、できないという議論がま じりあってつかわれる。では、いけないという議論の方を検討しよう。

  つまり、あなたがそのデメリットを引き受けるという約束の元に他者はメリットを与えたのだから、改革と称してデメリットだけを除去するのは卑怯だ、という 議論である。メタ・レベルのコメントをまずつけておくと、これがただしいのなら、あらゆる変革は内容を問わず不正と云うことになり、世界は不動であるべき だということになる。

 ひとつの出来事にかかわるモラルは複数ある。あるモラルの見地から禁止されることが、べつの徳目からは推奨される べき事でもある。義理人情の対立などを卑近な例としてあげておく。だから、ある徳目の見地からまちがっているということがあきらかにされたからといって、 そのことが直接、モラルのうえでの判断を決定できるわけではない。これが前提である。

 約束を守るのはよいことだ。だが、そのほかのモラ ル上の問題にもかかわらず特権視されるほど、約束を守ることが重視されるべき訳ではない。仮想される社会契約が不正なものであったなら、そのような契約は 当然破棄されるに値する。また、このような議論で想定される社会契約は自由な意志の元に選択可能なものではないから、個人を制約する程度も制限されて考え られるべきだ。(バリエーションとしてモラル論ではなく社会契約がまもられなければ社会秩序が崩壊するという「できない」型の議論もある。しかし、これは 事実に反する。げんに、歴史はながれ、改革はおこなわれ、体制は変革されてきたからである)

 一般論として、社会への恩返しや忘恩と云う ことをもちだすならば、現状の維持ではなく、よりよいメリットとデメリットの配分を摸索することこそが貢献と呼ぶに値するはずである。もっともぼくは「社 会」というよりも具体的で実際的な場において思考することが重要だと思う。

2002年4月 27日(土) 


Akiary v.0.51