闇に散らばる手紙
日付: Wednesday, May 15 @ 00:13:10 JST
トピック: 文芸
高橋からはいつも急に電話が来る。
真夜中のことだって少なくない。
いつもたいした用件ではなく、一方的に喋ってから、気が済むとすぐ切ってしまう。
ぼくと高橋の会話はいつもひどくちぐはぐだ。
だいたい彼女が喋るのは、見る夢の話とか、街で見かけた奇妙な人々、おかしな台詞、花は枯れたときなぜなおさら汚いのか、ふと降りかかる怖さのこと、そ
んなとりとめのないことばかりだ。
いちどだけどういう気分だったのかぼくから電話をかけたとき、高橋はこんなことを言った。
「王子と恋愛関係にあるって、どんな気分なのかな」
「恋愛関係になったら、王子じゃなくなるんだと思うけどなあ」
「なんでそんなことゆうの?」
「おなかすいてるからだよ、きっと」
「えー、あたし最強なのに」
「いや、ぜんぜん分かんないよ、いってること」
「すっごくすきなひとが、すきとかいうんだよー」
「そんなに何回もは、いわないと思うけど」
「・・・・・・」
「?」
「住んでるのが近くだったら絶対ぶっとばしにいってるよ!」
ぼくはたいてい適当な相槌をうちながら、ときどきコメントをはさむ。
高橋はぼくの言葉など聴いていない風につぎのはなしをする。
そして予想できないタイミングで、急にさよならをいって、電話を切る。
すると決まって、何となく、いまの会話がすべて、うそだったような気分に襲われる。
高橋も、電話を切った途端、いまの会話のことをきれいに忘れているのではないだろうか。
高橋とは中学のとき同級生だった。
彼女が大坂に越してしまい、その後ぼくも一年位してから、北海道に親の転勤で移ったから、高校になるまでなんの交渉もなかった。
同級生だったときも、たいして知り合いでもなかった。
高橋がはじめて電話してきたときぼくはちょうど吹雪にまかれて遭難しかかっているときだった。車で遠出をしたものの、天候がにわかに崩れてぼくは車内で一
晩を過ごさなければならなかった。窓の外では白い嵐が荒れ狂い、なにか遠いところからの咆哮が世界を切り裂いていた。
かなりしゃれにならない。
そんなときに急に携帯が鳴った。
高橋は、いきなり名乗りもせずに彼女がその日であったひとりの老女の話を切羽詰ったみたいにしゃべりだした。
「あのね、きょう、ぼろぼろになった人形に話し掛けるおばあさんを見たんだけど」
高橋ははじめそのおばあさんが単なる狂気に取り付かれてでたらめなことをしているだけだとおもったらしい。けれどいつも衰えや病気や惨めなものがきらいな
彼女はいそいでその場を去ろうとした。しかし歩道橋の上をじっくりとほとんどすり足であるきながら彼女がつぶやいている言葉がどうしても聞こえてしまった
のだ。
理不尽なことにその瞬間にはすこし老婆に対して腹が立ってさえいた彼女は、だんだんその言葉に取り付かれて、まともに老婆を
見てしまった。ぼろぼろに汚れたその布でできた小さな人形は黄色いおそらくは老婆のよだれや涙であちこちにしみがついていて、かなりの年代がたったものだ
と見えた。老婆は人形に向かって壊れた機械のように、繰り返し繰り返し愛の言葉を注いでいた。
なんどもあやしては、百面相をしてみせ、かわいいねえとか、だいすきでちゅかとか、そして人間の赤ん坊なら死んでしまうような強さで抱きしめ、またはじ
めから繰り返す。だがその光景自体は、高橋にとってただ気味が悪いだけだった。
それから老婆は人形に向けて、はあい、私の王子様、といって舌を出して皺に埋まった彼女の赤い唇をなめた。その赤さは際立って輝き、ほかのすべての彼女
のみすぼらしさを覆い隠した。
「やな話だね」
「そんなことはいいんだけど、」
いっきにしゃべってしまうと高橋は急に話題を変えた。いまさらのように挨拶をして、共通の友人についてのあたりさわりのない噂話をして、彼女はどういう用
件だったのかも言わずに切ってしまった。いきなり、ふたたび吹雪の中に取り残された僕はしばらく携帯をみつめて呆然としたが、それからなんとなく可笑しく
なってきた。
でもさ、高橋、ぼくは、あのおばあさんだって、美しいと思うんだよ。
あさ、雪原の雪がまるで重力に逆らって空へと吸い込まれるようにきらめき舞うときには、空は異様に明晰でさ。
それから、不定期に、ごくごくたまにかかってくる電話はいつも勝手なので、ぼくはいつか文句をいってやろうと思っている。しかしいつも意味不明なのに、な
んとなく、納得してしまうので文句をいうのを忘れてしまうのだ。ものすごくいい加減に返事をこっちもしているので、気が引けるというのもある。
「ねー、聴いてる?」
「あー。聴いてない。ぜんぜん聴いてない」
ときどき、なぜか彼女は天使に憧れているのではないかとおもうときがある。
重力を持たないあの残酷な神の鳥たちのことに憧れてるんじゃないかなんて。
そう思いながら、今日夜になって部屋に戻ると、なぜか高橋の友達から手紙がきていた。
なんとなく、まだ、封を切っていない。
闇に散らばる手紙 ripのまもるサーガへのdedicate。 2002年5月15日(水)
そういえば誕生日だった。
/*
カラマーゾフのつぎに「何て素敵にジャパネスク」を読んでいるのです。瑠璃姫が知人に似ている気がしてならない。というより、氷室冴子の文体が似ているの
か。奈良から平安あたりを舞台にマヴァール年代記みたいな策謀と戦乱の浪漫を誰か書かないだろうか。女房文学的でない平安像を読みたいんですが。ところで
マヴァールの終わりはいささかエルリック風だ。絶滅の風景、というのがファンタジーにはあるのかもしれない。*/
よそのサイトで間違っていると思う発言や不快な記述があってもひとごとだから気にならない、という議論をたまに見る。それから、そんなに相手の意見が気
になるんだったら他を巻き込まずにメールでやればいいというのもよく見る。ちょっと違うんじゃないかな、とおもう。
議論の目的は論敵を説得するにあり、ということであれば、なるほど云うことはもっともだが、かならずしもそうではない。むしろ、多くの場合は、少なくとも
僕の場合、相手が説得されるかどうかなんてどうでもいいのだ。たいていの場合、相手はそれほど権力が影響力を持っているわけではない。
議論
には型というか、よくつかわれる理由付けの仕方、根拠付けの仕方、正当化の仕方、というものがある。あるひとが、間違った主張を間違った仕方で主張して、
その件についてとくに考えたことはなかったひとが読んだら、とくに議論にあらがなければ、説得されないまでも、とりあえずその件について考えるときいちば
んの参考にするだろうし、たまたま手近に参考に出来るべつの理屈や経験がなければ、ごく自然にその意見を消極的に支持するに違いない。
だか
ら、ぼくが反論をするとき、基本的には、観客向けに別の議論、別の考え方、別の視点があり、それが同等かそれ以上の説得力を持つのだとしめしたいのだ。そ
もそもひとまえで議論するというのはそういうことのはずだとぼくはおもう。積極的に探しもとめはしないけれど、身近で偽札が流通しようとしたら受け取ろう
としている人に警告するにちがいない。偽札を渡す人が此れはほんものだといい、ぼくはにせものだといい、受け取ろうとする人が聞いている。ぼくのイメージ
はそういうものだ。
考えてみれば、誰の意見だって主観的には正しいはずだ。ひとは主観的に正しいとおもっていることでなければ信奉
できないものだろう、たいていは。だからまず、あいてのいってることは、理屈がおかしいか、言葉と現実の関係がおかしいかどっちかだ。たとえば、相手の
使ってる固有名詞の内容が本当に相手の考えているとおりなら相手の理屈は正しい、ということは、どれほど愚劣なことをいってるひとの場合でも多い。だか
ら、基本的にまず想定すべきなのは、なぜそんな誤謬をあいては正しいと思っているのだろう、というのをきちんと馬鹿にしないで想像することが必要なことな
のではないかと思う。
というわけでぼくはあいての発言や記述と議論しているので、べつに相手と議論しているつもりはあまりない。と
いうか、相手が持ち出す論法の「形式」に反論している部分がかなりあって、相手の発言を論理的に要約して骨格だけにしたものしかぼくは読んでいなかったり
する。罵詈雑言はノイズである。というのは言い過ぎで、ちょっと相手を馬鹿にしすぎているけれども、一方の極限として描写しているので、他方で、生産的な
議論をしたいときは、むしろノイズにこそ耳を澄まし、自分と相手の間にどちらもいまだいだいていなかった考えが、はなすことによってうまれるのにこころお
どらせる。たいていのばあい、ふたつのアスペクトは共存している。そしてさまざまな度でまじりあう。しかしどちらの極にしても、説得するために議論しては
いない、というのは同じで、だからぼくは説得のための議論、勝ち負けのある議論はたいへん苦手だしあまり近づきたくない。と、心情的にはおもう。もちろ
ん、なにかを決めるときにはそれが必要になるのだけれど。(そういう意味で、決定権のない会議で説得のための議論をする人はなにか意図がよくわからない)
さて、ところで、ぼくはつくづく自分が折衷的で分解的なあたまの持ち主だとおもうことがあるのです。ひとの意見を仲裁したり総括するや
つがよく論争では出てくる。で、その整理が論理的に行き届いていればいるほど、なんかちがうな、と両方が不満になりあるいはしらける。そういうものとして
整理、というのはある。なぜか。
つまり、折衷的な整理というのは、一方の議論、他方の議論、両方の重なる部分、両方とも反対している部分に
全体を分けて、それをあたかもだれかひとりのひとの考えとして一貫性のあるもののように再構成するわけで、表にするわけだけど、意見というのは、政治的な
ものでもあり解釈上のものでもあり、つまり全体で一貫していて、共存できないからこそ対立しているので、全体を拡大すればその小さな部分として両方とも組
み込めるというのはうそなのだ。なるほど両方が同じことに同じ解決を主張している局面があっても、それは文脈が違う賛成の仕方をそれぞれしているので、同
じとはいえない。
折衷というのは結果だけを見て表を作って再構成することなわけで、ぼくはそういう整理をしがちなのでよくないな、と反省す
る。またときにはそういう整理に賛成されてしまったりして、あらぬところにはなしがいってしまったりする。言葉の問題なんか特にそうで、ある場合には、あ
るニュアンスであるいはある意味である言葉を使うかどうかこそが争点だったりするのに、おたがい使ってる意味がちがうからいけない、べつのことばをつかえ
というのは、場合によっては整理という乱暴である。
2002年5月 25日(土)
#大河ドラマとドキュメンタリー
多分、問題なのは同時進行ということだ。報道される歴史的出来事
はそのようなものの代表だった。毎日、家に帰れば様子が少し変わっている。さて、つぎはどうなるだろうとあれこれいう。ソープ・ドラマだ。ドキュメンタ
リー形式のバラエティ、つまり精緻化され、巧妙になったやらせともいいうる手法が、主流にすらなりえたのは、日常と同時進行で進む「育成系」的な「昼の大
河ドラマ」的欲望を刺戟しているからだ。そのかぎりで、議会政治も同断。
このばあい、それが現実であるとか、真実味があるとかいうことは、
本当は誰も気にはしていない。ひとびとは政治が自分に大いに関わっていることを知っているが、しかし、それが選挙や議事堂の内部によってかかわっていると
は実際には思っていない。いわばこれは、尊重されるべき儀式への無意識のノスタルジイというべきだ。政治は政治で、局所的、ローカルなレベルで対処してい
る。もちろんそれが有効かどうかは別として、政治という言葉のイメージ・表象と、自分が実際に関与している実効的な政治過程とは乖離し、それが政治と呼ば
れるべき領域とはあまり思わない。だがまさにそれこそが集積されることで実効性を発しているもので、舞台の上で行われることはまたべつの領域の話なのだ。
ダブルシンクはここでも貫徹し、議事堂で演じられるドラマは、それはそれで必要なのだ。そして実際、それは現実政治の「原因」ではないにせよ、「結果」は
たしかに表象・実演しているのだから。
「つぎはどうなるんだろう」という欲望は、物語のかなりふるいものだろう。しかし他方で、これはすで
に演技者と鑑賞者の乖離を内在させている。わくわくしながら「つぎの展開」をはやくしりたいとねがうまさにそのことが、つぎの展開を形成することからとお
ざけているのかもしれない。「物語は過去の年代記であった。現在を物語として読むということは、すべてを(死滅の相)において決定済みのものとしてみるこ
とではなかろうか。いまだ知らされないという魅惑といまだ決定されていないという不確定をわれわれはいかに区別すべきか」ともかく、こうして「育成系」と
「ソープ・ドラマ」はむすびつく。結局、このような欲望をたのしむためには、相手はブラック・ボックスでなくてはならない。だからわたしたちはあまり知り
すぎたくはないのである。
物語はそうした出来事への受動的な姿勢を基本にしているのだろうか。たしかにわれわれは物語の進行に対し
ておそろしいほど無力だ。書物はあらかじめさだめられた結果へと進行し、それをさまたげるすべはない。物語の享受とはどこかで物語への勝利でもあるべきな
のだろうか。過去は取り返しがたい。だが、われわれは過去を二度生きることで過去の継続としての現在をうちやぶるのではないだろうか。亡霊として現在のな
かに取り付いていた過去を呼び出し、おもうさまかたらせることで鎮魂するように。もちろんありきたりの精神分析だといわれればそれまで。だがくりかえすこ
とで一度目を無力化する、という戦法ははるかにふるいのではないか、とおもえる。
書物の悲劇は、読者の内部の悲劇を見いだし、呼びかける。ハムレットの父のように。だがそれは悲劇を倍加させるためではない。悲劇に結末を与えるため
だ。
「ともかく、口に出しさえすれば、あとはなんとかなるでしょう」
----疑惑わしい無名氏の見解
2002年5月 25日(土)
#五月ももう終わりです。
netscape7が出た。かなり便利で、ぼくとしてはぜひ乗り換えをおすすめしたい。描画が早いのとタブブラウジングができて、ついでにhtmlエ
ディタもこみというのはお得なのではないだろうか。
http://channels.netscape.com/ns/browsers/7/download.jsp
猫というとまず思い出すのは「夏への扉」。ぼくは夏への扉を捜すことを已めずにいられるだろうか。省みて赤面することだらけ。それはともかく、くじらのは
なしである。くじらというと「銀河ネットワークで歌を歌った鯨」、ああジョナサンと宇宙鯨はまだよんでいないのです。しかし、ちかくはやはり笙野頼子の
「愛別外猫雑記」にとどめをさす。
笙野さんは同居の猫を猫であるということでかわいがっているのではないという。いや、かわいがっているともいっていない。ただ、しりあってしまったか
ら、その友誼がある。つまり個としてのそいつがたまたま猫だったと。
下手な要約だなあとおもうので、やはり現物をよんでほしい。種ということでかんがえると、不透明になることはやはり多いのではないだろうか。
http://www.aguni.com/hon/back/kiu/24.html
はてなアンテナ
便利だと思う。
サッカーの世界大会をやっているらしい。
食べるのと性的なものというとドラキュラ?
ああ、そうだ。人魚詩社、あしたまでに出します。
関係各位、めいわくかけてごめんなさい。
フェア・トレード
ここだけじゃなくて、けっこう広範な運動。寄付や援助よりも、こういうもののほうが、実質的だと思う。ほかにもうちのリンクを参照。
地域通貨ともかかわってくるあたり。
2002年5月31 日(金)