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あ、そうだ。アンテナはこちらを取得していただけるとありがたいです。

エッセイ的なことがなにひとつ思い浮かばない。物語でならできそうなことはいくらかあるのだが、どうにもくさっている感じで困っている。つまり、いろいろ 考えていることはあっても、それがぼくにとっておもしろいのは、論じる対象としてではなく、書くときの栄養としてなんだな、ということを感じた。
たとえば、小説とそれ以前の物語形式との大きな違いとして「一方そのとき別の場所では」という形式の場面転換ができるということだというのを文化研究派系 の民族国民論関係の奴を読んでいて知ったのだが、深く納得して、ものすごく面白かったのだが、しかしそれをここで説明しても面白そうに聞こえないのではな いかと思う。国民論とこれがからんでいるのは、物語ではこういう場合、その別の筋とこの筋がからんではじめて、語りの場にその別の筋が出てくる、あって、 そのひとがこれまでこんなことをしていましたよ、と語ることでしか、それまで別の場で起きていたことを語れないということと関係ある。ということは本質的 に物語りは筋を追うものだ、ということである。
同時進行の出来事の間を記述が行ったり来たりできるということは、そこに均質な空間と時間があって、それらの出来事が、ひとつの領域として、ひとつの出来 事に関わっている、という前提があるからだ。そしてこのひとつの出来事が小説の語りの対象で、読者と作者はこの出来事とかかわりをもつ。それに対して物語 というのは、筋を追う、出来事の継起を語るのである。
で、これが国民という均質で想像的な共同性の成立と相即だ、という話なので、つまり問題は俗語が行政語になり、やがて国民語すなわち標準語として強制され ていくことにふかく関係ある。あとは言文一致もそう。
でもこういうことが国民民族論とか文化研究に関心あるひとはともかくぼく的におもしろかったのは、ああそういう「一方そのとき別の場所では」というふうな 技法が使えるようになったのはこのころで、というような物語の技法史みたいな本がなぜないんだろう、というようなことで、そういうことこそぼくが知りたい ことなのに、主題の歴史とか流派の歴史ばかりで非常につまらない。
技法は基本的には蓄積されて不可逆なものなので、そういうものをこそおしえてほしいと非常に思う。流派の歴史は、役には立たないのである。

それから起承転結、構成を考えて日記やエッセイを書くのにもかなりうんざりしてきていて、だいたい思考の筋道からしてそんな組み立てはありもしないのに接 続詞を乱用してそういう構成をでっあげるのがなんかすごいうそついてる感じとかたちにながされてる感じがしていやだ。一方で気が乗らないといまかいたよう な小説の技法の事を考えてる、というような不機嫌な抜書きがぼそぼそと出てくるだけなので、どうもよみにくい。

そうそう。最近、一般論の口調で特定の出来事らしきことをぼかして書いてある日記をよくみかけてちょっと不完全燃焼ないらいらを感じている。しかも書いて る側はけっこうエキサイトしてるくさい。読み手としては情報もなく、書き手の判断を受け入れることを強制されるのでかなりいやだ。ぼかして特定の人の事を 書くのはやめてほしいなあとおもう。意趣あり気な文章よりは完全な一般論として、そのひとの意見そのものを、そのひとではなく批判して欲しい。思うに、ぼ かしてなかば一般論風に批判するのがいらだたしいのは、自分がそのひとの意見を批判したいのか、その人を批判したいのかが不分明だからだ。読者は、そのひ との意見を批判している文章ならば参加できるし、書き手の判断に対して自分なりの判断をもつことが出来る。しかしそのひとやそのひとの行為を批判してい る、しかもそのひとが誰でどういうひとなのかということについては充分な情報をふくまない文章は、読者としてはひたすら困惑するばかりだ。
日記というのはある程度継続して読んだり、日記同士の応答のそれまでの経緯を前提にして書いてあることが多いが、それにもたれかかりすぎると、前段のよう な曖昧さがうまれたりもするし、故意に衝突を望まないせいでつつみかくす場合も有るだろうが、どうせそうするなら、そういうぼかした、しかし事情を知るも のなら復号化できる、というような書き方ではなく、一般化し、そのうえでその一般化にあてはまるひとならすべてに対して、というかたちで公然と書いて欲し いと思う。やっぱり、読者の参加可能性をいちじるしく下げるような書き方はよくないのではないだろうか。

ちなみにさっき書いた小説の話はけっこう深い話で、ドン・キホーテやデカメロン、カンタベリ物語あたりで短編をつなげた長編という形式がなぜおおいのかと いうとクロウしてるからで、浮き雲なんかもそれでだいぶくるしんでる。そういう意味では小説という形式と都市という形式は似てる。想像の都市。

密室について何度も書こうとして挫折している。アンティゴネが死んだ洞窟とからめて書きたいのだが、この接合には無理があるのか、とてもむずかしい。ちな みに「コロノスのオイディプス」は消失トリック。

小説書きが国民国家に文句をつけるのはかなり恩知らずというか自分の足元に穴を掘るようなもので、標準語、標準口語文というのが解体したら、あるいは読者 の統一マーケットとしてのネイションがなくなったらいちばん困るのはというと物書きなのである。まあ、国民国家以後としての普遍性として小説の違う形式的 あり方というかはやいはなしそんなんとは違う、ありかたもあるはずだけどね。

地方自治があついのはやっぱり国家を超えた範囲に散らばる主題別の人々の関係性のほうが大事になってきているんだろうと。

このノートは今後、下のほうがあたらしいという感じ悪い続き方をしていきます。

偶然落下というのはクリナーメン。うつくしいえいえんの粒子の落下のイメージ。重力の雨。

ちゃうねん。(大阪)

あずまんが大王のアニメのいちばんの成功は大阪さんの声優さんがものすごくはまっていることだろうと。

ああ、そうだ。アイドルって不思議だよなあと思うのは、アイドルは職業なのかというか、アイドルであることと歌手か女優であることの関係ってなんだ。とい う。そのへんよくわからない。とりあえず二十一世紀前半が、あややとうただの時代として記憶されるであろう事は確実だろう、と。

思うわけで。

うーん、たぶんぼくがこういうノートの形式にしたのは自分の書くものが日付単位にまとまるのがきもちわるいからで、そういうこまかいスパンでありもしない 起承転結を付けるのがいやなのである。

ちなみに「である」というのは演説の形式。言文一致のとき成立。言葉は誰に語るかで形式が違う。

手記

ボランティアの語源がどうとかいうはなしではなくて、利己主義と利他主義についての理解って曖昧だなあ、ということを最近おもう。
大杉栄は自我の拡充といったけれど、奉仕の精神が賛美されるのは自我の滅却がいいことだとされているからだろうけれど、ほんらい近代というのは、利己主義 と利他主義が対立するのではなくて、利己主義のひとつの形式として利他主義を考える、あるいは、利己主義を否定するのではなく、利己主義のうえにたって公 正さを成立させることを考える、ということだろうと思う。通俗ニーチェ主義みたいに、利他の後ろに利己を見出し、だからだめなんだという論法はぜんぜん軽 薄なので、利他は利己の一形式としてしかありえないが、そのことはその利他の価値を低めるものではまったくない、ということが重要なのだと思う。
以前書いたことがあるけれど、ひとは掟に正義をせよという命令があるから義をおこなうのではなく、正義への欲望もまたひとのうちにあるからそうするのだ。 そうでなければこのよに義はおこなわれなかっただろう、ということだとおもう。だから逆に言えば、命令への服従という形式でおしえこまれる善行や道徳心と いうのはすべて、不自然な屈折と責任放棄につながるしかない、とおもう。こざかしい自己を捨てろ、という俗論が説得力をもつかぎり、不自然な屈折はなくな らないとおもう。

利己を肯定するというのはなんでもやっていいということではなくて、たとえば拝金主義というようなものは、社会的に喚起された欲望にひきずりまわされてい るにすぎないわけで、問題なのは、自分というものの全体で考えたときに自分が肯定できることかという問いなのだと思う。

それにしても、宣伝とか市場の開拓という行為と、自分達は顧客の満足の為に仕事をしている、という信念の間には根源的に矛盾があるのに、だれもそれを直視 しない。買いたくない人にそれを欲望するように強いて、それからそれを売り、そして私は顧客の欲望を満たす為に仕事をしているという。ある意味で資本主義 というのは制度的なマッチポンプなのである。

これは別の形で言うと、借りなくてもやっていけるひとに無理矢理かねを貸して利子を取る行為に似ている。

金を返さないのはわるいことだが、かねを借りてあげるのは、無利子でない限り、本当は恩恵なのである。同様なことは銀行についても言える。なぜならここで 無からおかねが発生するからだ。

2002年8月2日 (金) 

一般論云々について補足しておくと、おもしろいのは一般論というとたいていは、だれにも言及しないことのよう に理解されている。
しかし、実際には、というか本当は、一般論というのは、その一般性にあてはまるひとすべてにひとりの例外もなく言及する、ということである。
だからたとえばあれは一般論であなたのことではないです、といわれたとき、なるほど、私個人を念頭においていったわけではないことは分かりましたが、一般 論ということは、アレに私もあてはまりますから、私にも言及したことになるわけです、という反論をしていいのである。もっともこの場合、この想定した反論 の文がちょっとうっとうしいのに対応して、ひとつの問題がある。というのは、たいていの場合、ひとを批判するのと、その人の意見や行為を批判することが混 同されがちだという問題があるからだ。だからはっきりしておくべきなのは、そう、一般論だからあなたにも言及したことにはなる、しかしそのことは、あなた というひとに言及したことになっているわけではなく、あなたのお持ちの意見にわたしが限定した一般性があてはまる限度までにかぎって言及したことになる、 という意味です。というようなことである。このへん、めんどうだけれども、あいまいにしておくとかなりこんぐらがる。ことだとおもう。

2002年8月2日 (金) 

いまちょうど、「車軸を流したように」雨が降っている。

2002年8月2日 (金) 


映画「ジュブナイル」を見た。SFの基本はジュブナイルだと個人的には思っているので、面白かった、というかSF的にはとてもべたな時の円環ものなんだけ ど、やはりそれなりに動かされてしまう。

で、思ったのは、SFのかなり基本的な潮流のひとつであるこういう話の基本は、落差なんですよ。つまり地方都市のなかにとつぜんハイテクが存在する、そう いう風景。だから、たとえば近所ではだれももっていないパソコンを、あるおうちの子供が一人だけ持っているとか、そういう風景から、テクノロジーが妄想の 媒体になる。だからアメリカと日本でSFがはやったわけで、実際、ル=グインなんかストーリー的にはジュブナイル的だと思う。ああいう話で出てくる宇宙人 とか宇宙文明はある意味で都会と田舎のアレゴリーという面があって、つまりこの日常との落差、その日常に侵入する異様なものとしてハイテクというものがあ る。だから都市SFというのはあまり考えにくいというか、特殊なやり方が要請される。基本的には、というかまあある潮流にとっては、SFと地方都市の少年 というものは本質的なつながりがある。

2002年8月4日 (日) 

メルマガ出しました。http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000089742

2002年8月4日 (日) 


手塚のことを書いた本を読んで、やっぱすげーと思っている。表現の技法史というのはやっぱりわくわくする。そこで思うのが、結局のところとりあえず自分の 持ち駒を見直してみたいという欲望で、たとえば何人の類型がかけるかということや(類型を書くつもりで類型を書いてはいけないのだが、スタートラインでは 類型のはずで、いやそのへんもあいまいといえばあいまいで、外面描写だけなら類型からはじめなくてもすむのだが、その場合の問題点は共感させづらいという ことだろうと)

「エミリーに薔薇を」はいつ読んでも素直に感心する。

2002年8月4日 (日) 

http://www.aa.alpha-net.ne.jp/ooarikui/index.html

このひとのかいていることとは直接関係ないけど、むかしの哲学だか思想だかに森羅万象あらゆるものにはすべてその固有の番号があるんだ、というのがあっ た、はず。

ゲーデル数とかも思い出す。カントールだったか? 曖昧。

けっこうこのへんはつきつめると面白いのではなかろうか。

2002年8月4日 (日) 


人間が理念というものをもつということは経験を理想的なものとそれを汚すもの、希釈するものとの鋭い対立へとひきさくことだ。そうして垂直の軸がうまれ、 ひとは事物のまっただなかに葛藤をもちこむ。

2002年8月4日 (日) 

うえの「以前のテキスト」、なんですが、「アンティゴネの記念に」が手違いでなくなっています。
手元にもっている方がいらしたら送っていただけないでしょうか。

お願い。 2002年8 月4日(日) 

 トータルフィアーとかいう活動写真が来るそうだ。どうも、げんしばくだんをばくだん一般になぞらえて理解し ている人はおおいようで、せいぜい爆風がそのイメージの中心になっているにすぎない。しかしげんしばくだんというのは熱線と放射線においていっそう比類な い現象なのであって、地上に突如太陽が出現してひとつの都市、一瞬で万を越える日常を焼き尽くすということ、そして空間そのものが放射線によって致死性を 帯びるということのヴィヴィッドなイメージを抱いている人はすくない。全身の皮膚が生きながら焼かれ、剥がれ落ち、たえがたい渇きのうちに死を待つだけの ひとが幽鬼のようにいたるところにあるということ、そしてそれらのひとびとが、比喩的な意味ではなく一瞬前まで、ごくふつうの日常をごくふつうに送ってい たことを想起して欲しい。これほどの惨禍が、心構えもなく、戦場を離れた場で、老若男女を一切差別せずに降りかかったのである。

http://homepage1.nifty.com/institute/n3/t2/E3.html

 神話伝説の本をさいきんよんでいた。そこで、しばらく、そういうふうに書いてみようかと思ったのです。

 ある山に住む男がいた。その男は偏屈で無謀だったのでなにかよいことがあるだろうと考えて山を降りて里に住む部族のところにいくことにした。三つの峠を 越えて三つの川を渡ると、だんだんと土地が平坦になってきて里に近付いてきたことがわかった。暫く歩いていると川が見えてきた。川岸にはおどろくほどうつ くしい娘がいて、穴を掘ってなにかわからないものに殺された鹿の死体を埋めようとしていた。男がそのうつくしい娘があまりにもうつくしいので冬眠から出て きたばかりの熊のようにぼんやりしていると、そのおどろくほどうつくしい娘は男に気がついて「いったいどこからきてどこにいくのですか」ときいてきた。
 男は聞かれてみてはじめてそんなたぐいのことはまったく一度も考えたことがなかったことにきがついた。そこで「そうだなあ、まったくそんなことは考えた ことがなかったよ」とこたえるとそのおどろくほどうつくしい娘は「それではここでわたしと結婚してしばらく暮らせばどうすればいいか思いつくでしょうか ら、どうか一緒に来てください」といったので男はどうせすることもないのならそうするのもいいかと思い、また娘が余りに美しかったので言うとおりにした。 娘についていくとそこには大きな洞窟があって、そのなかにはいると目が覚めるようにうつくしくて豪奢な部屋があった。そこで二人はおたがいの髪の毛をすこ し切って記念にたがいにわたして結婚し、何年も何年も夢を見るように暮らした。
 ところがあるとき男はまたどこかへ行けばなにかいいことがあるかもしれないと思ってふらふらと川に沿って降りていった。そのときは暗くなってから戻るつ もりだったから妻にも息子にも娘にも何も言わなかった。するとだんだんと川の周りの草の色が変わっていき、草の周りにはいしころが転がり始めた。それでも ずんずんとあるいていくと突然、一本の矢が男の右の肩をかすめて地面に刺さった。「ほい、あぶないなあ、どうしたんだろう」と声を上げると、茂みから三人 の男達が現れて「ああ、人間だったのか、わたしたちは獣のにおいをおいかけたきたので、熊だと思って射てしまったよ、もうしわけないから村まできてお詫び を受けてくれないか」というので男は自分をかすめた矢をひろいあげると「判った、それではいくことにするけれどこの矢はわたしをねらって外れたのだからわ たしのものにするよ」といって村までついていった。
 村にやってくると村中の人々がほい、それはなんとももうしわけないことだったと口々にいって酒でも食べ物でもほんとうに豪華に男を歓待した。何日もそう していると男はやっと家族のことを思い出して帰らせて欲しいというと村の長が男のところにやってきて、ああ、それではおかえりなさい、けれど、

 以下つづく。今日は時間が足りませんでした。こまった。




2002年8月 17日(土) 


Akiary v.0.51