ハリー・ポッターをようやく見た。うーむ、どうなんだろう、と思った。いろいろと物語の基本的パターンはい
れてあるのだけれど、浅いというか、もうちょっとちゃんといれないと一本にはならない感じ。だいたいこの話は魔法が全然はなしの軸になっていないのであ
る。この話の魅力はだいたい寮生活への興味とイギリス小説お手の物の孤児の話の部分にあって、魔法が、なんかただのドラえもんの道具みたいな便利小道具で
しかない。普通、ファンタジーの基本というのは、魔法が内面の倫理的、感情的な葛藤とからんで自ぶらの闇や内的真実と向き合うというようなところにあるん
で、あるいは世界の神秘的だけれど美しい真の法則とかを垣間見るとか、これだけ長い話なのに妙に曲折がなさすぎる。異様に話が単純だ。ドラゴンもただの生
き物扱いだし。
たとえばハリーの傷がじつはかれが両親を死なせてしまった証だったとか、そういうながれであれば面白かったろうし、ダークハーフとしてのあの気取ったい
やなやつをもっと引き立てるとかすれば盛り上がるだろうし、そもそもあの試合のシーンは要るのだろうか。それから入学準備に買い揃えにお店に行くシーン、
あれもカットしてもいいはずである。不思議な存在たちが、ただ外面的な面白さ奇妙さの位相で捉えられているだけで、異質な、しかしカッコとしたそれなりの
論理と生活を持つものとして描いてない。ファンタジーの存在者達を、目に面白い飾りとして特殊効果のひけらかしに出してはいけない。
こまかいことをいいだすと、ハリーにはそもそも内面がない古代的な意味でのヒーローであって、ご立派過ぎるし、はじまりの育ての親の親戚の家から出て行
くところはもっと劇的に、感動的に出来るはずだ。なんだか、あまりにもシンボリックな次元が欠けているのがいやに気になった。
そうはいってもかなり低学年向けなら面白そうだし、「ナルニア」や「指輪」や「ゲド」や「ブリデイン」と比べなければそこそこ面白いとは思う。原作を読
んだわけではなく映画を見ての感想だから、監督があの試合のシーンみたいに絵的に受けそうなところだけ選んだのかもしれない。ただ、ファンタジーとこれを
いわれると抵抗感があるのは否めない。内的な対決がぜんぜんないし。普段臆病でだめなやつがいきなり勇気を出したシーンも突然すぎて作為が見えすぎる。
(ところで赤毛でそばかすはどじという法律がどこかにあるんだろうか・・・)こどもにはもうちょっと面白い本をあげたほうがいいような。
「パーンの龍騎士」シリーズを読んでいた。ナウシカとの類似が気になる。読んでたのだろうか。
しばらく文芸誌を読んでいて気が付いたこと。なんだか主人公がやたら内省したり人間関係に憶測をたくましくしたり「もしかするとなになにさんはあのとき
なになにだったのかもしれない・・・」というようなところがおおすぎる。いつもそういうのがきになって飛ばし読みをしてしまう。憶測とかするならもっと徹
底的にすればいいのに、結論もなく感覚的に半端で終わってしまって古文なら(詠嘆)というような段落の結び方が許せない。考えにふけるなら五ページくらい
やるべきだ。
それから人間の状況を花鳥風月、虫や鳥に重ね合わせて、「われわれだってあいつらとおなじようものかもしれない」というような文章も多すぎ。退屈であ
る。近代や現代社会のスピードとかを嘆くのもいいけれど、そんなことばかりやっててはいかんだろう。
あとは感情を押し隠した二人の人間のあいだで、ふと、いわずしらずに滲み出すように漏れ出して触れ合うかがやくような情感とそこでのほっとする感じ、と
かもあまりすきではない。もっともこれは場合による。フォークナーの小説みたいなやり方もあるし。
これはよしあしの問題ではないのだけれど、わたしは闇の中に何か不定形のものがうごめいていて、それが自分の死や盲目さや運命というようなものと響きあ
う、とか、ものの表面を見つめているとだんだんふとうめいでざらざらしたわけのわからないものが現れてきて人間の普段の理性的な営みがむなしくなる、とか
いうような実存っぽい雰囲気が主軸にある小説は好きではない。わたしは闇は澄明な透き通ったものだとおもう。不透明をよしとする価値より、鮮明で透明なも
のを好む。闇は閉ざされていないのだから透明である。なぜならあのはるかにとおい星がさえぎられることもなく見えるではないか。
辻邦生さんのようにつねにステンドグラスとゴシック教会のような上下の軸のことを考えたい。
荒野のような荒れ果てた白い透明さとそこでごうごうとふきあれる風を描くか、というようなことを考えているとき、闇の中でとくだんなにもせず詠嘆とか葬
式ばかりしている話を読むと気がめいってしまう。
gacktのコンサートの「ジーク・ジオン」の歓呼の声を聴いてすげーいい、と快感にうちふるえる。ファシズムって気持ちいい。大観衆がじーくじおん
ゆってるんだからきもちいはずである。がんだむやっぱよくできてるよなあ。ちなみにジオンとはシオニズムのシオンと同じ言葉である。
2002年9月2日 (月)
1
ところでどうしてパレスチナで起きている蜂起をテロと呼ぶのだろうか。
テロと言う言葉を適用するしないの基準が知りたい。
正規軍がやることなら善で民間人がやることならテロだという感じに聞こえる。
気持ちを傷つけない、という言い方が昔から好きではない。
傷という比喩がどこか甘えというか気持ち悪いのだ。
ひとの気持ちを傷つけないことというのは大義名分になりすぎると感じてきた。
我々は相互に保護しあうべきなのではなくて相互に尊重すべきなのであり、
この二つは全く異質なのではないか。
死者の数と悲しみの度とか権利ということをいつも考える。
死人の数と感じるべき悲しみは比例すべきか。というのは奇妙な問いだ。
しかし、五万人死んだニュースを聞き流す人間が五人死んだニュースで深刻な顔をしているのを
見ると、「汝の基準は何か」と問いただしたい衝動に襲われる。
マスコミの扱いではとりわけそうで、死の扱いの深刻さ、とくにキャスターの表情などは、
どういう基準に比例しているのか。分からない。
身内か否かという基準はどれくらい正当なのだろうか。
つきつめてしまえば、実際に哀しいかどうかしか基準なんて無いのではないだろうか。
悲惨なことは悲しむべきだ。しかしすべての悲惨を悼んでは生活できないし、
事実私達はすべての悲惨をいたんでは居ない。
聞かされなかった死が無数にあるしそれが聞かされたものより悲惨でないとはいえない。
だからぼくは、ある悲惨を無視し、ある悲惨を悼む理由をどこかで求めるのだが、
それは間違いなく傲慢な選別だし、まともな選別理由など見つからない。
かといって公平に全ての悲惨を無視するのだってよくない。
自然な親疎の感情というのなら文句は言わない。
しかし、会ったこともない人間に対して、自然な親疎の念などというものがそもそもあるのか。
会ったこともない人間を我々は悼んだりかわりに怒る権利などそもそもあるのだろうか。
もしそれでもわれわれが怒っているとしたら、もはやそれは別の理由なんだろう。
そしてその理由自体は、それはそれで正しいという事だっていつだってありうるんだろう。
勿論、悲惨な死はつねにある。
だから、ある悲惨な死を取り立てて悲しむなら、それはむしろそれが悲惨だからではないだろう。
ぼくはそういう形である死をとりたてることを否定する気は無いし必要なことだ、とおもう。
が、悲惨さが主たる理由であるようにそこで言い切ってしまうなら、無数の悲惨から、
ある悲惨が、確たる理由も無く特権視されてしまう。
現に私達は悲惨な目にあったひとの主観的な苦難の度やその数に比例して事件を取り上げていないから。
どうすればいいのだろう。結局、政治ということなのだし、ならば、もっとも
個人的でかたりえないものとしての個人的な感情のふりをすべきではないだろう。
つつしめ、とたしなめる事ほど逆らいがたいことは無く、そして、
それが慎むべき事かどうか争うことも難しい。
明白な通り、慎むに越したことは無いとひとはいいうるからだ。
もっとも政治向きの事に意見があるわけではなく、扇情的な語りが嫌いなだけだ。
2
源氏を途中まで読んでる。
近江の君っていいねえ。頭の中将の早口で卑しい娘。元気でいい。
玉かずらにいいよる源氏は最低である。紫の上ならまだ理解できるけど。
三四郎のあの女の人の系譜だと思った。
朧月夜好きは変わらないのだが、文章で読むと意外と影が薄い。
でも朱雀院に愛されてなんとなく救われるという展開はステキ。
夕霧と雲居の雁はまたのんびりしたロミオとジュリエットだ。
とくに困難も無いのにずるずると・・・・・・。
ちょっと川原泉ふうか。
ハリーと秘密の部屋。
驚くのはダーズリー一家とそれでも暮らすこと。
この辺が現代的なのかも。共生というか。
にしてもあいかわらずハリーのキャラが弱い。
風水アニメのドクターリンあたりから声優の声が素人っぽく、うわずりぎみになった。
このへん明確にエポックだと思う。対照的なのがはやしばらめぐみとかの時代。
このへんだれかの同意か詳細が欲しいかもしれない。
ドットハックはますます佳境。でもちょっと説教臭くなってきたか。関わるということ。
このへんでSF的な想像力の飛躍が欲しいところ。
天地無用はおもしろくなってきてる。エコなとこもよし。
ネプチューンは芸人として反省して欲しい点がいろいろ。
笑う犬はなぜ子供番組になったのか。
2002年9月 21日(土)