出発はつねに困難だ。悪魔は運命論の使徒だから、出発の幻想はつねに継続の現実によって破られるという。し
かし注視すれば、出発ではないもののほうが見出しがたいという事が解る。だから悪魔への反論は二重だ。むしろ継続と出発を分かつどのような錯覚をおまえは
つくりだすのか、と、問え。
ひとはつねに出発している。出発せずにはとどまることすらできない。ただたいていの場合、戻ってくるだけだ。
通り過ぎて、振り向く。
と、もはやない。
そういう経験。
源氏は(円地文子訳)ついに宇治十帖にいたりつく。もうすぐあげまきを読み終わる。なんだか後半になってくると、女の人は恋愛の気分じゃないときだって
当然あるのに異様に鈍感な男が言い寄ってきてうっとうしい、という話ばかりだ。とりあえず女二宮にいいよる夕霧くんはかなりストーカーではないだろうか。
ほっとするのは雲居の雁が多少はめげずにがんばるところくらい。
現象学が面白い。がたがたいうと還元しちゃうぞ。うるせえ、外部に出ろ、なにをいっそ止揚するぞ! ていうか脱構築はされると痛そう。あと、竹田せいじ
は基本を見失っているという印象を強めた。なんなんだ。新田義弘さんのほうが数倍面白い。フレーゲとのからみとか、自己の唯一性と様相論理とライプニッツ
とかのからみが個人的には好きなあたり。まあ、外的なもの、知覚、客観、レーニン、存在論、レヴィナスの顔とかのからみもおもしろそう。
裁判所が発禁の判決を出す。モデル問題っていわれてもなあ。客観的、形式的基準を定めてくれないと、こんな発禁はすごい困る。モデルが精神的に傷ついた
り社会的に不利益をこうむるようなのは駄目っていわれてもそんなもんの因果関係をどうやって明らかにするのか。ていうかモデルはやっぱり取材元であって小
説の中の人物がモデルを指示しているって読むのはよほど社会的にそういう読みがされるっていう確証がある場合でないとやめてほしい。つうか小説なんてうそ
に決まってるのに。事実である事を売りにしているならともかく。
この世でもっとも醜悪な思想とは「悪人に対しては何をしてもよい」という考えだ。
時期はずれの三千人話。まず、神様が約束を守る保証を問うべきではないかしらん。イエスにしろノオにしろ、下手人は神様であって、約束はこの際、神様の
恣意的な遊びでしかないだろうと。約束の遵守を相手に強いる事が出来てこそ問いは意味を持つはずである。
まあというかむしろその三千人は日々殺されつつあり、日々救われつつあるわけで、その連関の中につねにすでにぼくはいるわけで、まるで仮定の話のように
して言うのは不当だという言い方も出来る。「一挙に」というのはやはりわなだろうし、因果的な連関のはずのものを抽象的等価性にしてしまうのもなしだろう
と。
八犬伝を西部劇にしたいなあとしばらく考えるが、輪廻転生がうまく処理できずにくりのべ。
マドンナの映画、who's that girlを観た。とてもかっくいい。かくあらねば。
「明日があるさ」はなぜ駄目なのか。というか「今日」は? とまずききたい。これは希望ではなく絶望の歌じゃないですか。だいいち放送作家が脚本で、芸
人が俳優で、というと話が素人臭くなるのは否めない。吉本発信のものってなんでこんなにどろくさいのか。
今日のブッシュのあだ名はエイハブ船長。
正義と民主主義のための戦いではなくて、合議と交渉の秩序への挑戦なんだろうと、思うわけです。
民主主義の維持すべき本質と言うのがあるとすれば、
それは衆議によってことを行うということであるのだろうと。
衆議を経ない世論に従う事は民主主義ではないと思う。
レヴィナスさんは自己の死の手前に先ず他者の死の経験の根源性があるという。
それはけっこうぼくのかんがえてたことにちかかったりした。
2002年10月7 日(月)
とらじしょん (未定稿)
京都に近付くにつれて、彼女は無口になっていった。
その頃の、ぼくと彼女のかかわりのことを恋だの愛だので云うのは簡単だといえば簡単なことで、そこでしかしぼくは変なところに拘るたちなせいか本当にそ
うだったのか、などと考えて迷い始めてしまう。たしかにぼくと彼女が相手のことを好きだと思っていたことはたしかだったのだが、好きだと思っていることは
好きだということなのか、などと下らない定義問題にのめりこみ始める。
だから一言で片付けてしまおうと思いたってしばらくぼんやりと筆を置いていた。ちょうど氷雨がやんだところできらきらと窓ガラスがいとおしげに佇んでい
る。たしかに断定的に言えることはおそらく、ぼくと彼女はそれぞれなりにあいての事を毎日のように恋しがっていたということだけだろう。なんだか空しく
なってため息をついた。
誘い合わせて新幹線に乗り込んだ朝には、ぼくは彼女がまだ本当には来るとは思っていなかったらしかった。頭ではたしかにそんなこと迷いもなく来ると知っ
ていたのだが、現れた彼女の、というよりも彼女の声音に触れたときぼくは心底驚愕していたらしかったからだ。
あの日の雲の様子、衣服の陰影を思い起こす努力は殆ど無駄だと分かっている。まるで人間が枯れて灰になってしまうかのように、このごろはぼんやりとした
暮らしのせいで記憶は散乱し、ただ記号めいたきれはしのイメージだけが情感の雫とともに残っている。ただ彼女の感じ、彼女と言う感触だけが引き伸ばされ、
白いうつろな合い間合い間に不意に立ち上るだけで、それをつかもうと愚かもののように空をつかむと、水の濃淡がかげをつくる、そのかげのように彼女の気配
の残り香とすれちがう。
そんなことはない、そんなことはないんだ、とつぶやきかけるのだけど、不思議とぼくはその言葉の意味はまるで意識していなくて、ただそのにおいだけをな
つかしくかいでいる。それはなんだか、部屋の中に水の濃淡から出来た猫でも飼っているようだ。ときどき、にゃあと鳴いて、いなくなる。
隣り合った席に彼女は座っていたが、話す事は殆どなかった。ただ、何かを何かから守ろうとするように手を握り合っていただけで。
帰省の時、京都駅で乗り換えて、彼女は親戚のうちへ、ぼくは九州へむかう、そのことがたまたま互いに知れて、途中まで同行する事にしたのだった。
車中で、どこか世界のくにの何処かの空で人が沢山爆弾に焼かれたニュースが流れていた。いや、それは記憶違いで別の年、もはや傍らには彼女ではない誰か
他人が座っていた日の事だっただろうか。
純粋な自然状態では人間は人間に敵対し、万人の万人に対する戦争となっている、という教壇からの眠たそうな声を思い出してぼくは自然状態と言う言葉にな
ぜかうっとりとしている。自然状態ではむしろひとはひと意味もなく殺すのと同時に意味もなく助けたりするのではないだろうかとぼくは夢想していた。まるで
いたるとこに地雷が敷設された廃墟の市街でくらしているとき、夜明けの白い風情が自然状態と言う言葉をイメージさせるように。
「宮沢賢治の童話で、なんだったか、熊だったかの動物が列車をジャックするはなしがあってさ」
「ばか」
彼女が何を着ていたか書きたいのだけれど記憶はまったく言語同断で、ただ流水のイメージだけがあるだけで、しかもそれはつめたい水ではなく、地下を流れ
る、なにかどきりとするような切迫したいとおしさなのだ。
2002年10月 18日(金)