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 最低なので、どうにかしたい。が、すぐさまどうにかなるはずもなく。
 というわけで言葉、言葉、言葉(ハムレット)。

 「二つの塔」……すめあごるとふろどが指輪にむしばまれていく様子は
 如実にどーみたって放射能障害の様子そっくりなのであります。

 「というわけでサルマンはサウロンに支援されているので滅ぼさないといかん」
 いえ、ボロミアはいいひとです。

 でも指輪を滅ぼさないとどうせ戦場で勝ったって無駄なのです。
 というかむしろイシルドゥアの前例に倣うことになるだけです。
 しかしアラゴルンにはやっぱり指輪は滅ぼせないわけで、
 ガラドリエルの奥方にも無理だったわけだし。
 ガンダルフってうさんくさいよなあ。
 ガンダルフは花火のじいさん。
 とはいえ東夷なんてのが出てくるとそれは気になるので。

 ところで、核実験場はたいてい先住民の居留地だってご存知でしたか。
 放射能飛びっぱなし。
 
 劣化ウラン弾
 http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/~ctakasi/second/03semi/du.html

 フェアトレード
 http://www.wakachiai.com/shop/fairtrade.html

 地域通貨
 http://www3.plala.or.jp/mig/whats-jp.html
 
 乱暴もの
 http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Afghan/AfghanPrisoners.htm

 マンガ 
 http://www.peace2001.org/

 というわけで百色眼鏡はよいよね。などと語気助詞をつけてみたり。

最低と情熱の間ぐらい 2003 年2月9日(日) 

参照。186(一服 中) ( ◎Д)y-~~ 砂 色の世界・日記

たそがれSpringPointでの確率の話 から。いちおう断っておくとこれはもとの話題の本線とは別なので、その意味で個人的な趣味で脇筋を際立たせてしまって申し訳なくは思ってます。
で、さらに詭弁論破というのにも直接フォローアップするわけではなくて、
もうちょっと一般論から参考になりそうなものを紹介。

確 率
信 頼度の意味するもの

以下、おもに下の論文から。:
確率の四つの定義のしかたの歴史。

ひとつめ。「ラプラスは取り得る
状態(事象)がどれも同じような(equally likely)場合にはそれぞれの事象に全
事象の数の逆数を先見的に(a priori)割り当てることを基礎にして求める条件に
合うものの割合を確率と定義した。物理学の世界ではラプラスの定義で議論され
おり、取り得る状態の数を数えることが重要な課題である。」

ふたつめ。「ラプラスの定義で最も批判をされたのは equally likely という表現であって
何を持って同様に確からしいと見るかであった。もっと客観的な確率の定義が望
まれたわけである。フォン・ミーゼス(von Mises)はn回の試行で条件に合う場
合がnA回あったとした場合に、相対頻度nA/nのnを大きくしたときの極限
値を確率の定義とした。英語の表現では次のようになる。
Probability is a limit value of the relative frequency, which is assumed
to exist.」
ちなみにぼくが掲示板で主張したのはこの意味のものだけ確率として認めようということ。

みっつめ。「
純粋数学者は確率の定義として実世界で何を意味しようと関係ないという立場
を取って理論の世界だけ完ぺきなものにした。これを確立したコルモゴロフ
(Kolmogoloff)は3つの公理を満足する数P(A)を事象Aの確率と
定義した。それは、
I. P(A)は非負の数である。 P(A)≧0
II. 確実に生起する事象の確率は1である。 P(S)=1
III. もし、事象AとBが相互に背反であるならば、
            P(A+B)=P(A)+P(B)
確率の公理を満たすものはラプラスの定義であっても、フオン・ミーゼスの定義
を取ろうとも全て確率論の結果を応用出来るのである。この公理の基礎を固めて
いる数学のキーワードは次のようなものである。
・完全加法族 completely additive class
・測度空間 measure space
・有限加法的測度 finitely additive measure
・可測集合 measurable set


よっつめ。「
フィシャー達と大論争があったとされている一派はベイズ流統計学派と呼ばれ
ている人達である。人により少し趣が異なるが、サベジ(Savage)による定義は
「命題の真偽に関する確信の度合い(degree of belief)に対して割り当てる数値」
とするものである。同じ命題、例えば「A社の分離ボルトは作動する」に対して、
試験データを見た人と何もデータを見ていない人とで割り当てる数値は異なって
くる。このことから、主観確率(subjective probability)と呼ばれることがある。
この派の人はすべての確率とは主観的なものであるという立場を取っていること
もあって主観確率であることを否定しない。このことが「主観的なものは学問的
でない」という風潮によって不当に評価されてきたきらいがある。


たしかこれは最初のほうにあげた論文で効用関数みたいな仕方で定量化されてた
気がする。

(2)すでに触れた賭の損得の判断をはじめ、保険やワクチン接種の効用や危険性の判断など、一般に不確実な状況のもとで合理的に意志決定あるいは行為選択 するためには、予想される結果の価値とともに、その結果が生じる確率をも考慮に入れることが不可欠である。例えば、勝てる見込みが非常に小さな賭に大金を 注ぎ込むのは愚かであり避けるべきである。この判断は、行為の各々の選択肢がもたらしうる異なる可能な結果1、2、等が予想されるなら

行為の期待される効用 = (可能な結果1の価値×その確率)+(可能な結果2の価値×その確率)+・・・

という期待効用を計算し、期待効用が大きな選択肢を選ぶのが合理的だという原理に基づく。

確率には、このように実践的決定を左右し、そのための指針となるという、もう一つの重要な役割が認められている。これを確率の実践的側面と呼ぼう。ゲーム 理論や意志決定の理論で確率が応用されるのは、まさに確率のこの側面による。しかし、この実践的側面から強く示唆されるのは、意志決定や行為選択の主体に とって、価値と同様確率にも主観的な差異があって当然ではないかということである。仮に期待効用が数値で表されたとしたなら、前述の式から、確率の値を可 能な結果の価値の関数として求めることもできる。事実、すでに18世紀の中ごろに、イギリスのトマス・ベイズ(1702-61)はそのような確率の定義を 提唱している[note 1]。大胆な賭博師と堅実な節約家とは、それぞれの個性(とくに、何を高く評価し、何を低く評価するかという価値判断の違い)に応じて、合理的でもありう るし、非合理的でもありうるので、その個性の違いが彼らの確率の違いに反映されても不思議ではない。とすると、彼らの確率は主観的だということになる。か くして、確率の実践的側面は、確率が主観的であるということを示唆し、これは統計的側面から示唆される客観性とは一見相反する性格を示す


こんな感じ。

現実的には、試行しないで理屈だけで確率を求めるためには、ラプラスの定義で
はじめるしかない。しかし、この同様に確からしいという条件をどうやって証明するか、
というのはむずかしい、というか恣意的にならざるをえない。

なので、フォン・ミーゼスの定義に従って同様に確からしい基本要素を実験して
定め、その上で今度はラプラスの定義から、計算で実際には試行しなかった場合の
確率を求める、ということになろうかとおもう。

この場合、ネックになってくるのは同類の事象おなじ確率を持つ、あるいは、
ある組の事象があるときおなじ確率で生起したということから、
何度やっても、そのふたつのあいだの確からしさの比は変わらない、ということが
いえなきゃいけない気がする。確からしさ保存の法則みたいな。

ラプラスの定義には、試行の有限性と別の機会に行われた試行への応用可能性の
問題を考えなくてすむけれど、「同様に確からしい」というのを、形而上学的に
あたまから置かなければいけないという点で経験科学的な定義ではない。

フォン・ミーゼスの定義では、それはあくまでもその根拠をある特定の有限回の
試行におうていて、別の特定の有限回の試行にその結果を及ぼしていいかどうか、
という点には疑問が残る。まして、試行回数が違う場合にはなおさらである。

ちなみに、

サイコロを一度しか降れなければ
一の目が出る確率は
その目がでるか出ないかの二分の一である
たくさんの回数を降れてこそ
さいころのそれぞれの出る目は六分の一なのである

に直接答えるとすると、
くわしくは下の論文の第四節なんだけれど、


因に試験データが何も無いときには成功か不成功かの2つの状態が等しく起こ
りうると考えることが合理的であり確率はどちらも0.5である。これは一様分
布を仮定した事前分布の期待値でもある。確率を確率分布で表現したとき、その
確率分布から求められる期待値が確率に他ならないのである。コイン投げで表が
出るか裏が出るかという試行で「表が出る」という命題に対しても確信の度合い
は0.5であるが、この場合の事前分布としてはデイラックのデルタ関数を借用
して表現出来る。このような分布は強い確信の分布であり、データがどのような
ものであっても事後分布は事前分布と同じになる。


つまり、さいころについてわたしがどんな事前データを持っており、
それをどう解釈しているか、という点が確率に関与してくる。

この場合、さいころが六面であるという知識があって、
しかもなんら試行データをもっていないなら、六分の一という推定が合理的だろう。
しかしわれわれは定義によりこの場合このさいころが適正かどうか知らないので、
(さいころが六面の目の出が等しいという仮定をここに暗黙にすべりこませると
実験データを持たないという定義に反する)
実験データを持っている場合は、確率のこまかい数字はその都度違う。
ではどの確率がただしい確率なのか、という問いはおかしい。

フォン・ミーゼスの定義によれば試行の無限回において収斂する極限値である、
というであろうけれど、なぜそうなのかは証明不可能である。つまり、
フォン・ミーゼスの定義に従わないで確率を定義したとき、十回で試行をやめたときと
二十回まで試行を続けたときの値の差は「真の確率」からの誤差なのか、それともふたつの
グループは別の確率を持つというべきなのか。

「真の確率」というのがおかしいというのは決定論の立場からも言える。推定者の知識と
関与的ではない事象の生起の予測は、確率ではなく、必然的に因果関係によって決定され
る。もしもわれわれがこうした「真の確率」というものを想定してしまうと(そして、
フォン・ミーゼスの定義やラプラスの定義にはその傾向があるが)、私たちは、事象が
いままさにおきようとしているとき、「真の確率80%」と「真の失敗率20%」のふたつの
ちからが作用して、その瞬間に事象が生起するかどうか決定される、とみなすことになる。

つまり確率をあたかも作用原因とみなすことになるのだけれど、この描像はあきらかに
不合理である。

と、いうわけで、確率は、推定主体の知識に依存するから、場合によっては、
二分の一という推定がただしい場合もある、が例文の表現なら、六分の一と
推定するのが穏当のような感じがする。というあたりがこたえでは。
もっとも例文が推定主体のもつ知識をどうみつもっているか不明確ですが。

とここまでかいておいて、
ポパー
にはまた別の意見があるらしい。
ではでは。

かくりつのはなし。 2003 年2月12日(水) 

リンクをいくつか増やしたので。

水た まりに住む魚 アート系ルーザー それはただの気分さ 馬的思考 サイコドクターあばれ旅 Ataraxia restless dream ユラ紀 酩酊亭ENTERTAINMENT 地蔵 雨耳通信 Ainu puyarA アイヌ語ラジオ講座 うちなあぐち賛歌 HAN RUR-55 Outlet シオンとの架け橋 パレスチナの平和を考える会 フェアトレード 地域通貨 佐伯日菜子 椎名林檎 宇多田ヒカル

リンク 2003年2 月12日(水) 

確 率
信 頼度の意味するもの
傾向性と非決定論 的-実在論的世界像

「信頼度の意味するもの」はちょっと読みにくいかもしれません。
 基本的には、「確率」と三つ目のポパーの立場のやつとを読めば十分だと思います。このふたつはそんなに読みにくくないです。

 ラプラスの数学的確率、フォン・ミーゼスの統計的確率、コルモゴロフの公理的確率、ベイズの主観確率の四つが大体わかればよいかと。このうち、コルモゴ ロフのものは計算手順を定義しているので、解釈の次元では別にしていいはずです。と、実質みっつ。

 1 解説:ラプラスのものは何らかの形で「確からしさの等しい」要素的な出来事を想定できるとき、あるいははなからそういう想定をした上で、その要素的 な出来事の組み合わせとして、求めたい出来事の起こる度合いを計算するということ。

 簡単にいうと、基本的な起きる手間、置きやすさを単位として想定して、その単位がたくさんあればおきやすい、ないとおきにくい、というふうに定量化す る。

 コメント:これが物理学でつかわれるのは物理学はモデル化して説明するもので予測に確率を使うわけではないから。少なくともこの定義の内部だけでは、仮 説は純粋に最初の仮説(たしかしさの等しい独立な要素は何でどういうふうに分布しているか)に依存するので検証もできない。よって、もちろん、予測が外れ たからというので仮説を修正することはできるが、それではじつのところ、これから起きることを本気で予測したい、リスク管理に確率論をつかいたい、という のにはあまり役に立たない。高度に抽象的にモデル化された場で有効。

 2 解説:フォン・ミーゼスの定義は基本的には統計の応用である。実際にやってみて記録をつける。そうすると、求めたい出来事の「相対頻度」がわかる。 しかし、これはいわば、その試行、そのやってみた分についてだけの「確率」(ではなく相対頻度だけど)にすぎない。よってこれを振る前に求められるように したい。そこで同じさいころを振るという同じ行為を何グループかやって、それぞれの相対頻度をくらべてみる。すると、ひとつの傾向がみえてくる(気がす る)。これが大数法則。つまり、たくさんやった回からちょっとしかしなかった回というふうに相対頻度を並べてみると、どうやら、だんだんと順調にある定 まった値に近づいていくらしい。よってこの極限の値はきっと、ここの試行という偶然から独立したこのさいころを振るという行為に固有の属性に違いない。そ うであれば、振るまえからそういうものとして予測に使えるだろう。と、こういうことで、一言で言うと、相対頻度の極限値、である。

 コメント:すぐわかるとおり、この定義での確率は任意の試行、つまり個別の振ったらどうなるか、ということについてはいえない。この定義では、あくまで も確率というのは、ある実際にやってみた試行の系列の属性で、ここの試行の属性ではない。さらにいえば、この定義では、確率は、すでに起きた統計的傾向が 持続したら、という仮定に全面的に依存しており、試行による実験以前にこの定義での確率を求めることはできない。

 3 解説:ベイズ流の定義は帰納的確率、主観確率で、まず、基本的には推測する人が割り当てる期待度として確率を考える。しかし恣意的に定められるもの ではなくて、事前に知っているデータに基づいて計算する。つまり仮説を立てて、そこから計算する。計算の仕方はラプラスの定義と同じだが、「確からしさが 等しい要素を考える」ということをするのではなく、求めたい出来事を構成するだろう要素それぞれの置きやすさの比や分布は事前データに基づいて仮説を立て る。そして、フォン・ミーゼスの定義のように実際にやってみて、その結果出た「相対頻度」から帰納して最初の仮説を修正する。これを帰納的確率とかベイズ の定理などと言う。

 コメント:これは厳密には解釈というより、古典的定義の仮説性と、相対頻度説の有限性との二つの難点を実践的に調停する方法のようなものだとおもう。

 で、ポパーの傾向性解釈・・・・・・は読んでください。
 傾向性と非決定 論的-実在論的世界像


かくりつ:ないようをようやくしてみた 2003年2月13日(木) 

砂色の世界・日記

 応答として。

 確率は何を言っているのか、どう考えたらいいのか。データが完璧でないときに推測を合理化するための手段、ということになると思います。
 しかし、推測とはこれから起きること、言い換えれば、まだ起きていないことについてなされるものです。ですから、一度しか起きないことについての推測は 修正できないし、修正しても意味がありません。また検証も不可能です。よって、一度しか起きないことについて確率を論じることは意味がないし有効でもな い。さいころで六が出たとして、それは稀なこととして出たのか、よくあることとして出たのか、それはそれだけではわからない。

 具体的に確率の有効性ってどこにあるか、考える。
 天気予報を例に取る。私の店の売上は雨が降るかどうかに依存するとする。
 簡単のため、雨の日は売上半分としてみる。
 私は気象庁の一ヶ月予報を手にしている。
 ここで三つの仕入れ計画を立てる。
 ひとつは、雨の日用の半分の仕入れと晴れの日用の仕入れを半々に買う。
 ひとつは、まったくランダムにこの仕入れパターンを混在させる。
 ひとつは、天気予報に基づいて仕入れ計画を立てる。
 これだけだと確率何パーセントとは関係ないように見える。
 そして、この場合、予報に従うほうが利益が高いのは当然。

 さて、もっと細かく利益を求めてみる。
 さらにそれぞれの日の降水確率に反比例して仕入れるようにする。
 売れ残りは融通できるので足りなくて困る場合は考えない。
 すると、この場合、前回の計画よりさらに利益が見込めるだろう。
 予報がある程度以上あたるものとした場合には。

 となると、雨は降るか降らないかであるにもかかわらず、
 降水確率でこまかく確率を出す意味は、あるわけである。

 つまり、確率は、こういうふうに繰り返される事態に対して、
 こちらの繰り返される対応を適切にするにはどう対応すればいいか、
 そしてその対応がある程度つみかさなったときに、最適化の効果が出る。

 どちらにしても、一度きりの出来事には意味がないということはいえるわけで、
 そのうえで、存在論的なことを言うと、世界観として決定論をうけいれることと
 確率論をうけいれることは何ら矛盾しないと思います。

 なぜなら確率論とは推測の方法論であり、世界解釈ではないからです。
 したがって確率はそもそもグループの中の一員としてのものや出来事についてのみ
 言及し、語ることができるので、それらは基本的には推測者が恣意的に決める。
 ので、同一性というのはいわば確率論の「手前」で定義されるのだと思います。

 が、量子力学では違うかもしれませんが、生活世界レベルでは関係ないので
 その点は考えません。

 あ、あとどなただったか量子力学の立場から、計算爆発とか、ラプラスの魔の不可能性とか、相対論的宇宙で同時性というものが破綻するとき因果関係は保存 されてるのかとか、そういうトピックもとてもおもしろいとおもいます。ちなみにこのへん、基本的にはスピノザとライプニッツの領分だと思う。

 世界解釈としての決定論と確率論の矛盾というようなことは基本的には確率論や様相的な語法は、世界解釈ではなくて語法、方法論でしかないとおもっている のでない、とおもいます。たとえば「そういういうこともありえた」とひとが語るとき、そのひとは実際には「わたしのしっていることからはそれが起きた場合 もまったく同様に推測された、わたしはそれがおきなかった理由を全面的には知らない」の言い換えである、と理解するわけです。

応答:様相とあいんすたいん 2003年2月13日(木) 

はてなダイアリーをつくってみる。
こっちも更新すると思いますが、しばらくあっちにウェイトがいく様子。
http://d.hatena.ne.jp/jouno/

確率の話はつづけるかどうか未定。ちなみにぼくは調べただけで独自の考察なんてほとんどしてにゃいのです。ところで、なんか確率が無理数になりうるってこ とがどうにも気持ち悪くてしようがないのですが、対象の事象が起きるか起きないかで半端に起きたりしない場合、統計的な確率でかんがえたら、すくなくとも 有限のうちの相対頻度は無理数にならないはずなのだけど、極限だったらなってもいいのかしらん。だれかぼくの蒙を啓いてほしい。

ラプラスの魔が無理なのもマクスウェルの魔が無理なのも、思考や計算はそれ自体、系のなかで行われる、時間的空間的な、運動、行為だから。つまり、計算は 無時間で行われることはできないし、何らかの計算装置を運動させることなしに計算を行うことはできないからひろい意味での思考はつねに熱やエントロピーを 発生させる。

シミュレーションという概念を再考してもいい。最高に厳密なシミュレーションはそれ自体が現実であって、ここにラプラスの魔のような世界の全過程を計算す ることで世界の任意の瞬間の任意の場の状態をみちびけるコンピュータを考えよう。さて、一億年後のことをわたしがしりたいとする。そしてそのためのデータ として現在の世界のある瞬間の世界の全状態をインプットする。(ここでも同時性って何だ、とか、知ることそのものにかかる時間的、エネルギー的コストや自 己言及性とかあるけど)結局、それが可能でも、一億年後のことを計算するにはあきらかなように、それが完全な予測をするものなら、一億年かかるのである。 ましてや、わたしたちの宇宙そのものが、このような、世界の次の瞬間を計算するコンピュータとして理解することは当然可能である。ならば、この予測機械 は、予測をしているのか、それとも現実に歴史そのものを実行しているのか。

なんてことを考えたりします。

はてな 2003年2 月14日(金) 

 確率の話はどーも世界はすくなくとも実際的には決定論的なもので、しかも実用的には確率論はつかえるんだか らいいのだ、というあたりで落しどころになりそうな感じですが、いや、ぼくはだいたいそんなとこかなーと思ってるのですが、なんかそれって良識がふつうに 勝っただけでぜんぜん思考の努力がないような気もして、一をゼロで割ったり逆だったりっておかしいだろ、とかそういう誰でも躓くけど納得しないと高度な議 論にもっていけないようなことって、実は最先端ではたしかにふたたび問題になるようなことも多いので、あんまり簡単にかたづけてはいかんと思うのですが、 というか、傾向性解釈みたいな、確率の実在論的解釈とかはどーなってるんだ、とか、なんか奇妙にアインシュタインの隠れた変数説に好意的なひとがおおかっ たりしますが、本当にいまは否定されてるんだけどやっぱり神はさいころを振らないのだって本当ですか。とはいえ、量子論的なミクロでの不確定性が、人間的 なレベルでの自由意志や偶然性の根拠だというのはぜったいにうそなので、(考えてみてください、自由という概念を、自由と偶然性は違うでしょう。わたしの 意思が偶然によって決定されるということをして自由と称するのはおかしい)、問題はむしろ数学的「手続き」としての確率を疑うというよりも、(実際に有効 なんだからあんまりそんなことをしても意味はない)、必然性、偶然性、可能性という様相的な概念の理解の仕方がけっこういいかげんなのではないですか、と いうあたりなのかと思うのです。

あ、あと 2003年 2月14日(金) 

レイアウトはともかく、なんとか導入。

参照。
http://www14.big.or.jp/~onmars/data//2003/01/11.html

anntenaa 2003 年2月16日(日) 


Akiary v.0.51