生成と起源
クオリア日記
十四日付け、生成ということ、から。
坂口安吾が和服について、起源がどうあれ、恰幅のいい外国人に和服が似合うのであればそれは外国人に適しているといっていいので、伝統というものを固定的にとらえる、「固有の」というとらえかたはおかしい、ということを「日本文化私観」で書いていたのを思い出した。
実際、起源問題というのは重要な発想で、これも安吾が、ふぐをはじめて食べた人に思いをはせたように、この世のすべての文化、人工物には起源があり、初発の場があり、そこでは作為があった。自然へとそれが変貌するのはあくまでもあとづけだ、ということをつねに意識することは重要である。
そして、これは北村透谷が書いたように、文化には内在的、外在的なもののほかに、接触による発生というものがあり、この接触による文化の生成というのが、じつはいちばん重要なのだ、ということである。ものの生成はつねに接触面で起きる、とすらいいきっていいい。
また、同時に起源を考えるということは、あなたが町に出たとき、そこにあるほぼすべてのもの、ひとつひとつが、いちからつくられる必要があり、現に誰か名前をもった特定の人が、どこか特定の場所で、特定のときにつくったのだ、ということ、(部品ひとつ、シ-ルひとつ、いかなる例外もなく)そのことを意識するということである。すべてが、である。いま、眼前の風景を生産するためにどれだけの人間がどれだけの手間をかけたか、考えること、それは自然物ではなく、基本的には自分と変わりのない誰かがやったことだということ、そういう自然さを還元する意識。
それはまた、ほうっておいたらうまくいくなにごともなく、ごみはだれかが始末せねばならず、片付けはしなければならず、何もしなければものは絶対的にそこにありつづける、という意識でもある。ジェンダーとしての男はなぜかそういう部分であまやかされていて、どこかで、魔法の小人さんを、無意識に信じているところがあって、かたづけなければ永久に片付かないという事実を、認識しないことが多い。
都市空間の自然が労働の効果、対象化であり、そこから、ものの流通の野放図さへと想像をいたらしめること、つまり、ものを通じて、普通なら決して接触しないような階層、場所、分類の人間へといたることが必要ではないのか。たとえば、ひとつの寓話としての「セメント樽の中の手紙」