殺人と必然性
ちょうど、別の場所で確率について議論しているところだった。ぼくはそれほど器用ではないから、つなげて考えずにはいられない。
だからといって為にするような無理なものではないと思う。
結局、わたしはこう思うのだ。「なぜこの死者はわたしではないのか」
人間は互換性がない。そんなことは知っている。平等でもない。あたりまえだ。だからこそ権利においての平等が、事実においての不平等への対抗措置として要請されるんだ。平等権のまさに根拠を用いて平等権を批判したつもりの人の多いことには驚く。そんなことはどうでもいい。なぜ、わたしがここにいいて、そのひとはそこにいるのか。まったく理解できない。なぜ逆ではいけないのか。なぜ逆ではないのか。繰り返すけれど、人間同士に対して共通点なんてないし、同じ言語を話していようと、言葉が通じるとも限らない。はなから違う。だから、それで、「なぜわたしではないのか」
相互性の原理に基づく社会契約、「殺さないから殺すな」という説明に人は納得しやすいのかもしれない。だが、わたしはそんなことを言っているのではない。それならばうまく殺されずに殺す方法を見つければいいからだ。愚直に私は繰り返すほかない。「なぜわたしではないのか」
わたしがわたしになったという偶然とわたしはわたしであるしかないという必然、わたしはこの間隙にとらわれて息ができない。
わたしは殺されるとき、わたしをまざまざと殺しつつあることを感じるだろう。なぜわたしではないのか。
それは感情移入ではない。それだけはハッキリと区別しなければならない。