鳥たちが沈黙する場所で 民主主義
democracyとは多数支配という意味で単独者支配、少数者支配との対語だ。これはおもに、参政権の範囲にかかわる区別で、その意味で、いまアメリカが自由と民主主義、というときのつかいかたは、やや拡大解釈である。
その意味で、原理的には、民主主義は、参政権に制限がないこと、である。制限がいささかでもあれば、それは少数派支配、寡頭制になる。これが、すくなくとも古代から近世にかけての認識であった。(もちろん、市民である限りは、ということだから、市民の範囲自体は制限されうるしされてきた。いわば義務のおよぶ範囲と決定権のおよぶ範囲が等しいということだ)
だから、議会制、代表制民主主義というのは奇妙なアマルガムなので、この不思議な特性は記憶されていい。わたしたちは、かつてだれかがイギリスの議会制度についていったように、選挙のとき以外は奴隷である。そして、ますます、選挙というものは形骸化している。
では、選挙以外の参政権行使のチャンネルは、というとなかなかみあたらない。たしかにデモは非公式なチャンネルによる圧力行使であるけれども、チャンネルそのものが見当たらない、あるいはきわめて制限された状況ではやむをえないといってもいいとおもう。
もちろん、本質的な解決としては、チャンネルをよりひろくする、ということだろうが、たとえば、直接民主制的な、住民投票やリコールは地方政治のレベルでしか認められないし、(とはいえ、ニューヨークやバークリーのように、自分の地元で反戦決議が実施されるようにする、というのはよいことだとおもう)、全国的規模のそうした手段が、時事的問題に対して認められるとも思えない。では、議員への請願、ということになるのだろうか?
ともあれ、じつはそうした合法的な手段を行使する場面でも署名集めが条件として課されており、そのための運動、というのが、デモを行うこと、とどれだけ径庭があるか、というとたいしてかわらないのではないか。問題は選挙以外に、たとえば、かつてハンガリーで実験されたような、住民集会レベルから順順に代議員をえらんでいって、つねにその議員は自分の選出母体の議会に責任を負い、かれらがあつまってまた議員を選び、というふうにして全国レベルにいたる、というようなものや、あるいは、単純に、選出団体に責任を負う各種の団体代表による議会、というようなもの、べつにこうした社会主義国で実例のあるモデルでなくてもいいから、具体的に常時、日常レベルで政策決定に参与できるチャンネルが維持されるシステムがかけていることだとおもう。
選挙だけが根拠である民主主義は、議員が選出母体に忠実であるという担保が極めて弱い。もちろん、長期的な民意というものは反映されるが、それはやはり、選挙民がつぎの選挙のとき、議員の行動を記憶してそれによって評価するという、それなりに高度な条件が必要で、そこまで要求できるものかということがある。
それでいわば政党政治というものが、いちおう政党の政策行動へはそれなりに常時、参与するチャンネルがあるというかたちで発展してきたわけだけど、それも日本ではあまり機能していない。
どうやって、選挙以外の合法的な、政策決定過程に普通の市民が、日常的に参与するチャンネルを確保するか、というのは、大きな課題だと思う。