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Drifting Antigone Frontline

ころすこと

2003/02/17 05:44 JST

http://www8.ocn.ne.jp/%7Eta-u/notes/0302b.htm

 じょうのさんの「なぜわたしではないのか」という問いは、その意味ではあやういものを含んでいると思うのです。「わたしではない」から人を殺すんだ、と切り返されたら、あとは「わたしではない」人間の比類なさと「わたし」の比類なさの双方をどう尊重するかを考えなくてはならないからです。永井均的な問題ですけど。

 ひとのいのちを尊重する、というとき、それが律法であるから、という従い方では、律法が改変されてしまえばいのですからあまり意味はない筈です。いのちのとうとさを認識する、というけれども、「認識」ではいけないんではないか、とも思うのです。いけない、という言い方は少し違うかもしれない。

 殺すことそのものが私の内部の何かを殺すことであるような、そのような脅かすもの、そのような恐怖が、わたしに殺害を忌避させているのだ、とわたしはおもいます。ひとは自分の死によって傷ついたりしません。同様に、精神は死によっては死にません。なくなるだけです。傷つくべき私がそのときはいないのですから。ひとは他者の死によってこそ精神をいくらか殺されるのだとおもいます。

 殺害や、殺害を意図することによってみずから失われるもの、奪われるもの、損なわれるものへの無自覚こそが、倫理的な面での問題のありかなのだとおもいます。

 しかし、とひとは問うでしょう。見知らぬ他者を悲しむことなどできはしない。そのようにいうとすればそれは忌避すべき偽善だ、と。いちおうは理があるかのごとくです。しかしここには重要な質的な区別が抜けています。私たちは、見知らぬ他者の死によっても、やはりその遠さに応じていくらかは損なわれ、奪われ、死んでいるんです。そして、相手をもしよく知っていたら得られるはずであったものを奪われた、という先取りによる悲しみを覚えることはあるのだとおもいます。想像力とはそういうことだと思うのです。しかもそれは、現に殺害という形であれ関係をもったことによって、単なる想像ではなく痛切なリアルとなっていく。

 自分との関係の深さと、自分がどうにかできる近さはおおむね一致するものでしょう。もちろん、重ならないことは多いのですが、その悲しみや悔いはそれとして、関係の深さに応じて失われたとき奪われるものが大きいのだとしたら、わたしは十分、そこに殺害の禁忌の根拠を認めることができます。

 だがひとは愛する他者とばかり暮らしているわけではない。ましてまったくの他者ととなりあわせに生きているのだ、といわれます。ですが、一瞥の「顔」のなかでさえ、すでにわたしたちとたちがたく結びつく。ただ相手の命に一瞥しただけで、すでにあいてはわたしのなかに沈黙のうちにすまっていて、殺害はその自らでもある他者を殺すのだ、と思います。

 「なぜわたしではないのか」という問いはそれとはちがって、もっとずっと個人的な不確かさなのです。それは問いであって、「かれはわたしではないから」という形で接続することはできないのです。何といったらいいのか、この相手は、たしかにいくらかは間違いなくわたしなのだ、それなのにこの絶対的な隔離があり、理解の途絶がある。それはなにか恐ろしいことです。この非対称性。取り返しのつかなさ。他者のいのちの重みという以前に、わたしは、どうしても、他者と自己とを、あらゆる属性をひきはがした、固有名の根源的偶然性のようなレベルで、切り離して考えられないのだと思います。