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Drifting Antigone Frontline

「独裁者」からの「解放」イメージ

2003/03/21 01:41 JST

http://go-kakki.hp.infoseek.co.jp/

 なんかの反応に見られるように、確実に、とくにCNNや読売などのブッシュ政権寄りのメディアは今後、これまでの経緯(ブッシュ政権が後出しでころころ攻撃理由を変えてきたこと)を無視して、フセインは独裁者である。だからかれを打倒するのはイラク国民のためになる、という論理を主張していくはずだ。

 勿論、大前提として、もしそうであったとしても現存の国際法秩序に反して非合法に主観的正義を行うことがどれほど犯罪的なことかということは繰り返し確認されるべきだけれども、ともかく前面に押し出されてくるだろう自己正当化を批判しておくことも重要だろう。

 (国際社会には法的秩序などない、国連信仰はいけないといいだす「半可通」がふえてきたけれども、多国間の枠組みによる国際条約による秩序は、それらを執行する国際組織とともに国連システムという実定法の秩序をつくっており、それらの基礎になっている条約は加盟国にとって国内法として拘束力がある。こうした秩序が実力によって破られうることはたしかだが、そうした侵犯行為が不法なものであることは当然だろう。国連が有名無実とはいえ旧敵国条項をもち、連合国軍事同盟に起源をもつからといって、それが現在、そうした多国間の枠組みで実際にとりきめられ拘束力を持つ無数の相互に関係を持つ国際法の秩序の中核にある限り、そして人類が国連に相当する国際的枠組みを必要とする限り、国連中心主義や、国際社会における国家の行為の正当性が国連によってはかられることは当然だろう。国連が形骸化しているという議論は、国連を形骸化していいという議論とはまったく違う。勘違いをしている人がいるのかもしれないが、「国際法」というのはなにか観念的な自然法や道徳ではなく、条約締約国を国内法的にも拘束する「実定法」である。十九世紀的な制限のない国家主権を欲するなら、国家主権を部分的に制約する性格を持つ条約からすべて離脱して国際社会から孤立した状態になるしかない。そして、そうすることには何の利得もない)

 フセインが独裁者であり、弾圧者である、というとき、それは間違っていないが、その弾圧や人権抑圧がどの程度のもので、それが国民に与えている被害はどの程度のものか、どの程度の危機的なものか、そしてその独裁はどういう性格のものか、まったくわたしたちは知らない。

 空虚な言葉だけがひとりあるきしており、あたかも、制度上民主的でないことさえ明らかなら、そうした現実の国民への危害の度合いは知る必要がない、とでもいうかのようだ。

来るべき嘘とプロパガンダに備えるために

 問題なのは、相手を悪だと認定したとたん思考を停止してしまうことだ。ひとつの悪は、その悪を攻撃する悪をけっして正当化しない。なにをおいても、そのことは銘記すべきである。

 事実問題として、フセインの抑圧からイラク国民を救出する手段としてイラク侵略は最善のものではない。客観的に見て、そうすることを第一目標として構築された作戦でもない、ということは明らかだ。さらに、戦後処理を考えれば、なんの成算もなく、不安定化した地域政治と崩壊した国内政治の後始末をイラク国民に押し付けることになる。そのうえ、経済制裁と空爆と今回の侵略での攻撃は民間人にあたえる惨禍は、間違いなくフセインが行った惨禍にまさるだろう。さらに、フセイン政権は過去には中東における親米世俗政権としてアメリカが支援して存続させてきた政権であった。

 イラクへの侵略行為をイラク解放と呼びかえるのは、患者が頼みもしない手術を勝手に施したうえで、患者は死んだが手術は成功した、といいはるようなものだ。

 だいいち、自国が侵略されたら、支持していなかった政府であろうと、ふつうは政府の元に一致団結し、むしろその政権の矛盾や悪は見過ごされがちになることは誰にだってわかる。愛国心を訴えるアメリカが、イラク人はこうした侵略にあたって愛国心を燃え立たせないで総崩れになるだろうと考えているのは、想像力がまったく欠如しているといわねばならない。