判断回避するひとびと
日本政府の対米隷従を肯定する論説、と書きかけて自分も影響されていることに気が付くが、日本政府すなわち小泉首相とその一派がイラクへの侵略に荷担するのを肯定する論説の多くが、本来求められているはずのこの攻撃について肯定否定の「判断」を回避して、北朝鮮対策として、日米安保の保持のために、それ一点張りなのにはきわめて失望する。それは政略的な日本政府の行動への「決定」をどうするか、あるいは日本政府に関する判断であって、アメリカがいましているようにしていることを、ほかのだれかではなく、あなたはどうおもうのか、という問いをスルーしている。
この攻撃を是、あるいは非とした上で、日本はアメリカに隷属するしかないという理由で隷属すべきというなら、それはそれで、よくはないがひとつの立場ではある。だが、盲従するしかないのだから、選択の余地がないのだから、いまからすることがいいことかどうかを考えない、というのは、最低のきわみである。
しかし、北にせめられたときのためには「何でも」いうことを聞かねばならない、というのが本当なら、外交自主権は日本にはないわけで、いっそ総督を派遣してもらうべきだ。
事実だとしても「何でも」ではなく可能な限りその余地を引き出さねばならないし、その前提として当面実行不可能だろうことであろうが、独自の事態への判断を思考と議論を深めねばならない。あたりまえだ。それなのに、こうした判断を回避してただ地政学的な選択の余地のなさばかりを機械のように繰り返すことの愚劣さは見るに耐えない。それは、単に思考するなというメッセージを伝えているに過ぎない。