佐伯日菜子 / たじろがないものの表象として
ぼくが佐伯日菜子さんを知ったのは、深夜のテレビシリーズ、「エコエコアザラク」でのことだった。その後、椎名林檎の「歌舞伎町の女王」に街中で出会うまで、このような出会いをぼくは経験しなかった。
知性とは、凛然と生きることとシノニムなはずだ。黒魔術をあやつり疎外されながら凛然と生きる、潔さと、潔癖さとは異なる或るユーモラスなやさしさへの開け、そういう渾然としたイメージが彼女には内在していることがわかった。「黒井ミサ」はたしかにはまり役だった。ただし、それは、恐怖や怪奇のおどろおどろしさにかかわるというよりは、闇という公認はされない想像の領域で、凛呼とした勇敢さを表象するという意味で。
佐伯日菜子はどこかその場に半ばしか属していないような印象を与える。非人間的というのではなく、むしろ、半歩だけ他界との接触も保っているような、むしろ懐かしさの感情を喚起するような、不思議な不自然さ、ぎこちなさは一見、洗練の不足のようにみえながら、それは実はぎこちなさなどではなく、別の優雅さなのだと気がつく瞬間。
信用できる人間には、どこかに、決して卑屈ではない、気恥ずかしさの感情があると思う。決して自分をまじめに受け取り過ぎない、そういう資質というものがあるのだとぼくはおもうのだ。
彼女の仕事を、いつもぼくは待ち設けている。