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「平成ガメラの一」を見た。よくできてるなあ、とおもった。最後はゴジラへのオマージュかよ! と。こういう怪獣映画のいいところは自衛隊で高揚させてくれるところである。戦争についてなにがしか考えがあるかどうかとはともかくとして、怪獣映画の自衛隊がかっこいい(新ゴジラの自衛隊はかっこわるかったが)ことはたしかなような気がする。ガメラ三部作は本当によくできていて、誰にでも勧めたい気分でいっぱいである。
しかし怪獣映画の自衛隊がかっこいいということは、かならずしも戦争肯定的なことではないような気もする。勿論、怪獣に対して使用されるからといって、むしろそうであることによって、ジャミラの例もあるとおり、むしろ「無限の正義」の表象になってしまうということはあるわけなんだけども、やはり、人を殺さないという一点で、怪獣映画の自衛隊は救われている、そしてそれはやはり、同族殺害の禁忌という古いタブーにつらなるのではないか。(ついでにいえばウルトラマンシリーズの怪獣は人間的なものの象徴になりうるけれども、ゴジラやガメラでは、怪獣はそのような人間的な内実は持てないと思う)
逆にいえば怪獣映画のように戦争が表象されることこそやばい事態なのだということなのだろう。
「廃墟」ブームらしいという話を聞くんだけれど、そんなの、ぼく個人的には四五年前からそうだよ! といいたくもあり、また、べつにぼくを引き合いに出さなくても、エヴァのころ、「廃墟大全」という本が出ていておもしろかった。
最近の廃墟写真は、なんだか、色つきで意味合いが過剰で好きになれない。廃墟はモノトーンで、しかし追憶や物語の舞台ではなく、ある虚構のような、生成の場というか、不思議なはりつめた静けさの場であってこそうつくしいとおもう。そういう意味では、むしろラピュタのような場所こそ、理想的な廃墟なのかも。
いや、むしろ廃墟とは、バブル以後のうちすてられたしかし生活していく、ある種凡庸な現在の、郊外や、都心の不意に現れる空き地なのだ、ということ、あるいはコンクリートのはじめからひそめている廃墟性(そこには古い海のそこを流れた砂が……)、あるいは、まさに心象のどんぴしゃの地図としての廃墟のイメージ、ただしアンコールワット風の。
そんなわけで、たまにはカオルンのことを思い出すのもいいかもしれない。
そして勿論、イギリスのピクチャレスク、廃墟庭園(カリオストロなんてまさにそういう趣味)、そして、エドガア・ポオの 風景小説 「アルンハイムの地所」「庭園」「ランダーの別荘」「ウィサヒコンの朝」も忘れてはいけない。