back_to_index

Drifting Antigone Frontline

にんげんのたて とか でも とか

2003/03/30 20:28 JST

 はじめに書いておくとぼくは人間の盾の有効性は信じていないし、さして崇高な行為だとも思っていない。

 で、違和感という言葉をよく聞くんだけれども、ぼくには人間の盾をめぐる言説が、どうしてこれほど、なんといったらいいのか、感情的なニュアンスをふくんでしまうのか、というか、そういうあたりが気になる。

 つまり、ぼくには躍起になって人間の盾を否定、嘲弄しなければならない動機のほうがいまひとつ理解できない。そしてもっと理解できないのは、本人たちがそんなこといってないのに、崇高な行為だと思い上がって、とか、あるいは、否定する文脈の中なのに、「崇高な行為であることは否定しないが」と書かずにはいられなかったり、そういうことが徴候的だなあ、と思ってしまう。

 人間の盾はぼくは有効だとは思わないけれど、本人が好きでやってることなら別に他人が躍起になって文句を言うようなことではないだろう。なんというか、この問題に関して、なんか、「意味」が過剰にくっついている気がする。

 一般に。自分にはできない、ひとに誉められるようなことを、ひとがしたときに、躍起になって否定しようとしたり、自分の代わりにという気持ちで躍起になって擁護してみたり、実にいらぬことだと思う。なんだか、そういうたぐいの心理がここにはたらいているような気がして、ぼくにはどうもなじめない。

 だいたい、皮肉であれ、否定するためであれ自分が、「崇高崇高、立派立派」なんて思ったりいいたてるから反発したくなるんじゃないのか。

 あと、でも、についても、うーん、なにもしてない感をなぐさめるためならやらないほうがいいけど、でもが役に立つと思うならやればいいし、やったほうがいいとは思うけど暇がない、というのも十分ただしい理由だと思うし、「政治的に正しい」ことになってしまったことで要らない反感や逡巡がうまれるのも、義務感がうまれるのも余計なことだと思う。

 基本的にはボランティア、つまり暇なときに好き好んでやることだと思うし。好き好んでやるからこそ、有効でないことをする必要はないのだし。

 で、最近、反戦反対のひとのほうが、イラクの人がかわいそうだろっていいひとっぽくなってるのは面白い。けっきょく、どっちがいい人かって競争だったのか。

 ちょっとした冗談。

 アメリカに全権あげるから、大統領選の選挙権をくれ。