情報ソースの取捨選択 メタな反論という悪い癖
ネット上での議論では、どうも、相手のメタレベルに立って批判することが好まれていて、そのために議論がどんどん感情的にというか、混乱する傾向があるような気がする。少なくとも、ぼくには、あいての大前提や、問題の取り扱い方そのもの、あるいは、議論の様式あるいは論客の種類として相手を分類してしまう、といった、メタレベルからの批判というのは、あまり、感じのいいものでも建設的なものでもない、とおもう。(2chでの、ことにその質の低い議論はそういう傾向がたぶんにある。)
もちろん、前提そのものが間違っている、と感じたらそれを批判することは大事だが、そこで必ず、相手の議論の具体的内容にかえって、前提が間違っているがゆえに、そこから出てくるあなたのこの議論も間違っている、というふうに、メタではない批判も遂行すべきである。
というのは、結局、相手のメタレベルにたとうというスタンスでは(ところで今気が付いたが、この記事そのものがメタレベルの批判ではあるが)、実は、相手の議論と本当に論争することはできないのだ。
つまりメタレベルから批判すべき内実を相手の議論が持っているからといって、その具体的な議論がかならず間違っているかというと、そうとはいえない。メタな批判には、多くの場合、経験的な裏づけがしかなく、そうでない場合も、にもかかわらず相手の議論が具体的な内容のレベルではいいところをついている可能性というのを排除できない。
また、別のレベルからいうと、メタレベルからの批判だけで済まそうというのは、ひとつには相手に優越しようという欲望に裏打ちされていて不誠実だし、怠惰でもある。
多くの場合、メタレベルからの批判で済まそうというのは、相手の話を聞かずに済まそうということだ。しかし、必要なのは、まず、相手の土俵に乗ることである。共通の土俵がなければ議論は成り立たない。もし相手の前提そのものがまちがっているのであっても、相手の土俵に乗った上で、内在的にきちんと議論をすれば、前提が破綻するような、内在的な矛盾へと追い込むことは可能であるし、またそうすべきだ。正面から、相手の土俵に乗る、正攻法の議論の仕方が嫌われるのは、あまりにも論争的、レトリック的な、いわばソフィスト的な議論にながされがちだからではないか。相互理解、あるいは事柄への理解が進展しないのなら、議論に勝つことそのものは無意味で、むしろ有害ですらある。議論においては、むしろ変な勝ち方をしないことこそ警戒すべきだと
ぼくはおもう。
さて、話題は少し変わって。
ネットのおかげで、情報のソースの選択肢がひろがって、一見、わたしたちは、よりよい判断ができるようになった、かのごとくである。また、たしかにそうならないよりはそうなったほうがよかったのだが、悪い面もまたある。
ひとはこのような状況下では、記事や情報の中身を吟味することによってではなく、ソースへの評価から、あれは偏向しているので信用しない、という選択の仕方をする傾向がましてくるのではないだろうか。これは危険なことである。なぜなら、このような拒否の場合、わたしたちは事実そのものの説得力やインパクトに接することなく、観念の中だけでやすやすと現実を拒否できるからだ。
情報のソースがある程度限られていると、それを信じる信じないの判断基準は記事の内容を通さざるを得ない。議論もそこを基盤に行われるだろう。そうなると、情報ソースへの評価から、読まずに拒否する場合よりも、拒否することは簡単ではない。
だから、多様なソースがいけないということはもちろんないので、ネットがもたらした好ましい状況も、ソースを頭から選別するのではなく、あくまでも具体的な内容に則して判断するというリテラシーがなければ、むしろ偏狭さをかえって助長する場合もある、ということなのである。
メタな反論という言葉から、こういう古いログを思い出した。まあ、話としては、かなりずれているが。
Trackback by I’ll be here — 2003/04/18 @ 2003/04/18 20:06 JST