kotobanakiuta i cant need you….?
普遍の代替として多数派がやってくる。地上のリヴァイアサンが。
軽薄に、真実などないという人が多すぎる。真実がないということと、真実という概念が他者と本当にかかわるとき、どれほどの切実な必要であるかはまったく別のことだ。主観的な真実しかないという一般的合意は、「お互いに話し合うのなんかうざいからやめよう」という掟を意味する。
人の話を聞かないのはよくない。ひとに理由を説明しないのもよくない。ひとと共通の普遍を発見しようと努めないのもよくない。ひとと何かを共有していると思い込むのもよくない。お互いの尊重って、暗黙の合意をまもるために明示的な合意を排除するということじゃないか。
ここでえがかれているシミンの増殖はたしかにとみに感じるところだ。実際問題、人外とみなされたとたんにどれだけの攻撃性が噴出することか。
「意味」はうとましい。それはやさしい雰囲気を壊し、人々を敵対させる。だが、意味の外部などどこにもない。意味を排除しようという言葉こそ、もっとも暴力的なひびきをおびるのはなぜだろうか。
露悪も偽善も、自分を悪人だと認めないための行為であるという意味では等しい。希望も絶望も虚妄であるという点で等しいと魯迅は云った。そしてそれにもかかわらずユートピアの幻視は必要なのだ。悪人ゆえに浄土を求める。浄土が不在でありおそらくは不可能だからこそだ。
対話なしで衝突を排除したいという甘えの暴力が「権力」を要請するという電車の例はひどく面白かったし納得した。P2Pで解決すればいいし、本当は事情の予測などつかないし事柄は常に個別的なのだから、そうするほかにないはずなのだ。
だから、とぼくは思ったのだが、たこつぼ型の個人主義、個人主義と一体になった相互不干渉プラス「多数決主義」の背景にあって、また必要とされるのは、権力だ。本来避け得ないはずの対立をまぬかれているのは権力を代理人としてよびもとめているからだ。それは、当事者がはなしあうまえにやってくる、はなしあいを禁じる調停者であり、シミン的な存在は、そのような「法」にすぐさまうったえ、ものごとを単純化したがる。「権力」は多数派がひきうけたがらない汚れ役イメージをひきうける。かれらはなんにせよ、自分が正しい場合でも対立や雰囲気の悪さに関与したがらないからだ。
普遍が足りない。どこにも普遍がない。
普遍とは絶対的だということだ。
絶対とは、おどろくべきことに、自由のためにある。
すでに何度も書いたが、普遍とは、原理的に例外がありえない場合のことだ。例外がほんのひとつ、しかもきわめて異常な状況でありえたとしても、もうそれは普遍ではない。そのような意味で普遍という言葉を誰が使っているだろうか。
普遍とは人間の想像力が限界を持つことへの諦念からうまれ、しかもそうであっても想像することの切実な必要を手放さない態度から生まれる。
普遍を見出そうと努力するということは、普遍のほかにはすべてがうたがわしく、それゆえそこにはあらんかぎりの想像力と事前には決して知りえない例外を予期する精神の構えが必要とされる、という意味だ。だからこそ、ぎりぎりの最低線、それなしではかかわりが消滅してしまうようなある形式的現実性として、普遍を人は求めるのである。
おそらく、欠如しているのは、本当の意味での懐疑論だったのではないだろうか。徹底的な懐疑だけが、普遍を求め、孤児たちの共有するものなき連帯としての「公共性」を理解可能にするはずだ。
普遍を、建前ととうちして、それを精神の必要と感じなかった人にとって、おそらく、それは一般の合意以外のものではないのだろう。
そして、考えてみれば、露悪はこの有罪性の認識を、すべてのひとがそうだという論理でどこかでひらきなおり、有罪性の認識ではなくしてしまっているのだ。希望も絶望も虚妄だが、虚妄であることに安住するのはなお悪い。