孤独な声 つぶやき
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ぼくに違和感があったのは、カザノさんのいうような呟きが、しかし呟きとして受容されてきただろうか、呟きが新聞に載れば、それはもはや呟きではなくなってしまうのではないか、ということです。声高に「意見」を語ることの非を説くのはいいけれども、ぼくの経験ではじつはそうした私的でモノローグ的なスタンスによって、他者とつながり意見を語る日記のほうがかつて抑圧されていた、声を奪われていた、という事実も忘れてはいけないと思うのです。
あかるさと闇という比喩はたしかに訴えるものがあるし、そこになにがしかの根拠もあるのだけれど、「わたしはここにいます」という儚い呼び声と、それへの応答というコミュニケーションの定式にかけているのは、啓蒙や明るさではなく、実際に断絶を経験することで経験される動揺と愛だと思う。ヴォネガットの「ここにいるよ」というメッセージと「アイシテマス」という応答のユートピアは想像的な次元でとまってしまって、「こころやさし」過ぎる。
孤独な銀河通信でない言葉があるだろうか。そしてなによりわたしが留保をつけたいのは、そのどうしようもない実存が、私的な呟きではなく、理や公共への志向を取らざるを得ないということもまたあるのだということだ。
「夜の言葉」が失われてはいけない。そしてそれが現在のblog談義にかけている、それは確かにそのとおりだ。
ただ、現在の日記のある傾向(blogと呼ぶ必要はない)というものが明るさにつきるものではない、とも思う。ジャーナリズム的な煽りは論外として、そこにあるつながりたい欲望というのはオピニオンのレベルよりも、ほしぼしの中に似た光を捜し求める孤独さでもあるし、そういう面を語っている人もいる。
明るさの中でこそますます暗くなるもの、語ることによって闇はますますみずからを明らかにするのではないかとおもう。自らを深く掘る事が、他者に言及することでなおざりになってはいけないだろうけれど、他者の声の反響としてこそ、私の声は立ち上がってくるのではないだろうか。そしてその回路として、複数の技術が立ち上がってくることは否定すべきことでもないと思う。
言葉が公式的で威嚇的な、あるいは建前的な響きを持つかどうかというのは、多分にリンクや言及の多寡ではなく、書き手の距離感の問題だと思う。語ることは確かに隠すことだ。確定的な言葉は、不確定な言葉を抑圧するだろう。しかし、あて先を明示的に持った言葉によってこそ、ふたしかな、浮動するささやきが誘発される場面はあるのだし、かならずしもそこに「討議」がなければいけないわけではなくて、ひたすら、原点は、同じ事柄に興味を持っている人の言葉への関心にあるのだとおもう。そこから何が出てくるか、ということは、あかるさに限られないと思う。