平和のリアリティと戦争の物語
http://d.hatena.ne.jp/koseki/20030606#1054845620
http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2001/akui.html
http://www004.upp.so-net.ne.jp/gambo/WhatsNew_2001_10.htm#1003
テロを擁護するか、非難するか、二つに一つだ、という物語とそのバリエーションに欠けているのは、敵の敵は身方ではないという平明な政治的リアリティだ。政治的保守主義はつねに現実主義を標榜するが、それは限定された可能性の内部において語られる「蓋然性のリアリズム」に過ぎない。敵の敵は身方ではないというのは、敵の敵もまた敵でありうるし、身方の身方もまた敵でありうるということだ。このことを透徹して理解していない限り、そこには本質的なリアルが欠けていると云わねばならない。そのような現実的認識を相対主義として非現実的な認識とみなすことにこそ、倒錯が潜んでいるというべきなのである。
平和と人が反戦の文脈で語るとき、そこでは安楽な融和の事態をかならずしも想定しているわけではない。対立が非暴力的に解決されうるという理念と意志を語っているのだ。平和主義は現実認識の不足から導かれるものではない。現状を所与の条件として固定して、蓋然性を語るという構えを取った途端、その言説は政治的保守主義になるほかない。そこに欠けているのは、「何が可能であり、何が不可能であるか」ということは歴史的可変項であり、まさにいまここで決定されつつあるという認識である。所与の条件を固定してしまったとき、すでに結論は決まっていたのだ。問われるべきはそれらが本当に所与であるかどうかであるのに、それらを所与としたうえでの蓋然性によってリアリティを語るのだから、議論がすれ違うのはあたりまえだ。
戦争を理念として容認するのはひとつの立場だろう。だが、そこから現実の特定の戦争を容認する論理へ直結するのは明確に詭弁である。戦争を理念として不可避であると認めつつ現実の戦争をできうるかぎり回避すべきだと主張し、意図する思想は想定可能だからだ。戦争を人間性のなんらかの本質に根ざすものとして嘆いてみせる言説が不誠実なのは、それでは人間一般はそうであることはしかたないとして、あなたはどうなのだ、という問いに答えないからだ。
戦争の果実は存在する。あたりまえだ。果実さえない戦争なら純粋な犯罪である。問題なのはその果実が戦争を正当化するか、この戦争なしには本当に獲得できなかったのか、戦争の事後にではなく、事前にかかげられた建前が正しかったか(大量破壊兵器はどうなったのか、アルカイダ支援の証明はどうなったのか)、等であるはずだ。
そもそも、この戦争が反テロの戦争であると呼びうるためには、イラクがアルカイダの主要な支援者であったことを証明されなければならない。それはなされただろうか? 否である。で、あれば、これは反独裁の戦争であると認めることはできても、反テロの戦争などと、どうして呼びうるのか。