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Drifting Antigone Frontline

選択と環境

2003/06/07 21:11 JST

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20030607#p01

http://www.otsune.com/diary/2003/06/07.html#200306078

 ベイジアン・フィルターとアマゾンの話はどこかでつながっていくと思う。意味の領域が、迂回して操作可能になるということ。(意味を理解していない機械が十分に意味的な分類をかなり自発的にすることができる)

 選択について以前書いたことは、直接に環境管理型権力の話とつながっているんだろうと思う。アンケートってデータベースだし、萌えというのは、その根本的な受動性(受信モデルで比喩化される)からして、このデータベース・モデルが適切に見える。

 戦争論でも、所与の選択肢が自然化し、固定化され、そこからしかえらべないという不自由な「自由」こそが自由主義の本質のようでさえある。

 だが、別の選択肢をつくることは、つねにむずかしいし、相対主義のそしりを免れない。AかBかと問われたときに、どちらでもないとこたえたら、結論を出さない無責任な立場といわれうる。可能性を純粋な可能性として提示するだけではおそらく説得力をもつことはできない。不可視にされた、しかし現実に存在する潜在的な萌芽、潜在性として語ることが求められているのだと思う。つねにもうひとつの選択肢は存在するのだが、それを可視化するための想像力と言葉はどのようにして獲得されるのだろうか。

 基本的な原則として、自由の基礎には、なんらかの程度で、製作者であることが求められているのではないかと思う。