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Drifting Antigone Frontline

自由と選択と 散漫な考察

2003/05/31 09:49 JST

http://ellington.gel.sfc.keio.ac.jp/nsly/mt/ns/000641.html

 まえに選ばされてるってことはかなりやばいことだと書いた。

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030412#1050148545

 このときと多少考えは変わったけれども、(選べないことと選べることの違いは確かに大いにある)、どれでも好きなものをとっていいというのが自由だというのは錯覚だ。選択肢を前提にして選ぶということは、世界の変化可能性へのシニカルな態度の一環で、「バリエーションの多様性」であって、「クリエーションの多様性」ではない。(韻を踏んでみた)

 不参加で結果だけ受け取るということで、要するに、骨の髄までご同様、消費者だということだ。博覧会的なものはもとから帝国主義的欲望のフェスティバルだった。それは、変化を禁じられた同時代的な死者たちの展覧会なのであり、横の関係を断ち切られ、直接触ってもいけない。地盤から切り離されるということは胎盤から離れることではなく、固有の通信規約と回路から切り離されるということだ。消費とはそこで終わりということであり、どこにも繋がっていかない。選択が消費になるのは、選択肢の設定こそが選択の本質だからだ。選択肢を設定するということは複数の可能性を作ることであり、状況と自己とが関係することだが、他者の設定した選択肢を選ぶということは、それを終わらせることだ。考えて見れば商品世界に暮らすということは元からそういう側面があったのかもしれない。

 自由という言葉は時代劇で町娘を「自由にする」というような言葉だった。勿論解放してやるなんて粋な意味じゃあない。自由にされているという言葉はそう聞くと心地いい二重の意味を響かせる。自由に積極と消極を区別するのは伝統のある議論だけれども、どちらも、それによって確立される主体性を求めているという点ではポイントがずれている。ひとは選択することで選択肢をつくるのであって、主体を作るわけじゃない。「ひとは身体が何をなしうるかを知らない」(スピノザ)身体が何をなしうるかを実証することが自由なのであって、その原因を内部だけに求めることに意味があるわけじゃない。閉じこもれば閉じこもるほど、そのスタンスは、外面的に社交的な個性と類似してくる。指定された場所にいることには変わりがないからだ。自由という言葉に意味があるならばそれは拘禁されていないこと、つまり交感から切り離されないことという意味にこそとるべきだろう。

 歴史や伝統、持続的な仕事こそが問題なのであり、保守主義者の言う伝統は、歴史を経由せずに直接触れられるものなのだから、つまり、歴史過程ではなく歴史の本質を指しているのだから、ここでいいたい持続とは意味がずれている、そういうある種の地下のモグラの仕事こそが求められているのだと思う。ジャンル論が意味をなすのはジャンルの蓄積を本質論ではなく、実態的な集合として、具体的な仕事の集積としてみたときだけだろう。ジャンルはそのような仕事をうみだした仮説であった限りで意味があったのであり、本質なんかどこにもない。理念は恋の対象で、恋がなければ生きる意味などどこにもない。

 カウントされる喜びは把握される喜びにつながり、アルチュセールのまったくおっしゃるとおりイデオロギーの呼びかけの教科書的実例ということになるのかもしれない、などと半可通で適当なことをいっておくけれども、自由が重荷になるのは、必ずしも自由に耐えるだけの市民的な教養が云々なんてご立派なはなしではなくて、自由でいることを強制する不自由なシステムがひとを疲労させるからだ。センスや趣味の選択、ユニクロの色の選択のような意味のない自由な選択に、それでもむなしく根拠をもたせようという努力が疲労に値しないわけがない。結局それも統計学だということか。日常は絶え間ないアンケート。

 区別をしておこう。バリエーションの多様性は、ある単一の構造から、形式的な順列組み合わせによって構成される多様性である。この場合、問題は掛け算であり、生成要素は固定で所与だ。たとえば、さいころが二つあれば、三十六通りのバリエーションがある。

 しかしこのときいかなる意味でも、潜在的に存在していた可能性が拡張されたわけではない。アリストテレス的な、可能と実現の対があるだけである。

 これに対して、クリエーションの多様性は、交配によってもたらされる多様性のことである。この場合、複数の構造の接触によって、相互の構造が破壊されることで再構成される過程で産出される、アクシデンタルな多様性であって、問題なのは足し算である。

 新自由主義が想定する「完全な商品知識を所有していて合理的に比較考量を行う個人」というのはまさにバリエーション的な多様性をはてしなく意味もなく選択させられ自由に振るまわさせられる疲労した個人なのであり、自由が皮肉なニュアンスを戦争の中で持つのも理由のないことではない。自己確立のための自由という言説はどこまでいっても集団に隷属することで本当の意味で自由になるという論理への抵抗力を持たない。そしてこの「成熟」の回路こそ、古色蒼然たるロマン主義そのものではないのか。

 そしてもっとも問題なのは自由のためには水路が必要であるという認識が軽薄に拡大されてしまうとき、あらゆる水路にはメンテナーがいるというあたりまえのことに盲目になることだ。運河はすぐに埋まってしまう。真夜中に小人たちが集まらなくては。
 
 固有性は、組み合わせの新奇さではなく、課題との対決によってしか生み出されえない。そしてそれは持続的なものでしかありえない。持続的にどれだけ手をかけたかが、新鮮さを保証する。固有性は対決と交配の果実なのであって、流通するものではありえない。

 それにしてもそうしたことを確認してどうしようというのか。むしろ確認して安心するということこそ批判的に主題になってきたはずではなかったか。

 問題なのは手を組むこと、実際には合理的なかたちで、しかし予想外の相手と手を組むことなのだろう。ジャンルによって分配される個性、そうした選択の集積としての個性、すなわち、「アンケート的・性格判断的個性」を、きわめて重要な「内政不干渉」な領域として愛させる。そしてそうした差異であるということだけに意味がある差異が、「蛸壺的個人主義」、不干渉主義の根になって、手を組むことを阻害する。手を組むことと論争することはひとつながりのことだ。

 手を組むということは、不自然なことであり、目的のためにお互いを利用することであり、目的が違えばあるいは敵となるということだ。そしてそのことこそ必要なのである。それまで敵だったり、仲良しだったりする人間同士が、ある時になると、はい、っと、お互いを役職で呼び合ったり、肩書きで相手を尊重したりするのは虚構である。しかし、こうした虚構こそが、手を組むこととしての、「公」とは別の公共性をつくりだすのであり、そうした芝居をしなさ過ぎるのは、単に堕落というほかないだろう。親しい相手に正直に振舞うことは徳ではない。距離を人工的に作り出すことでしか手を組むことが可能でない場合がある。

 民主主義の学校は生徒会だという言説があったにもかかわらず、実際には生徒会はたいていの場合、行政の訓練にしかなっていない。自治とは(わざわざ介入しなくても)「自ら治まる」ことだと高校のとき教師はわたしにいった。ここには言葉の戦いがあり、そのことはけっして無意味ではなかった。生徒会自治が官僚化するということは、そこで、それに参加する人間は官僚への訓練をし、参加しない人間は政治を軽蔑する訓練をするということなのである。だが、生徒会自治でも歴史を見れば、じつは伝統のある高校などではかなり波乱のある曲折を経ていたりするのである。

 自由は経路を作り維持することのなかにあるのではないだろうか。