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Drifting Antigone Frontline

喪ったものの軽さに耐えられずに

2003/06/21 23:02 JST

http://www.memorize.ne.jp/diary/14/77513/
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0800.html

http://jouno.s11.xrea.com/works/k11.htm

 何を書けばいいのかとまどいながら、空虚についてのいくつかの文章を読んでいると、不意に、空虚を何か実体的な、吸引力のある恐ろしい真空として思い描いている自分の思惟に気がつく。世俗化された東洋思想と称するものが能天気に無を振りかざす割には、そのいうところの無は少しもその無という名称以外には、「ではない」という実質を失っているのを横目で見るとうんざりしてくるとはいえ、語られざるものの真理と口にしてみたところがまるでその意味を了解しているわけではないのだ。しかし、「桜の森の満開の下」の空虚はまちがいなく現実的な実在で、そうしてここまでの文章を書き付ける私の言葉を読むことは、ひたすら、「実」とか「充実」とか「充填」とかいったものの抑圧的な顔つきを印象付けるばかりだ。それにしても絶えずこんな風に自己言及へと舞い戻りながら語ることもひとつの定型なんじゃないかと言い出すのがもう末期症状の自家中毒で、なるほどわたしは自家中毒こそお家芸であったと思い出す。

 テロ前の自分の文章が内戦や言葉を突破する何かへの予期を(「こんにちは、ギャングたち」というのはあまりにもぴったりしすぎて腹が立つ)語っているのを考えれば、オウムを簡単にスルーしたからこそわたしたちはテロに驚いて見せることが可能だったのだとも思われてくる。ことあたらしく驚いてみることなど必要ではなく、震災とオウムがひとつの緊密な出来事として綯い合わされたとき何が立ち現れるかなど、そのときに考えておくべきだったのだとまさに事後的にわたしは考えてみたりしている。このような気の利いた愚鈍さこそむしろ思考すべきことの回避の兆候なのではないかと書き付けた途端にこんな内省がなんの役に立つのさ、とはき捨ててわたしは空虚のうちには眠ることの恐ろしさがあるはずだと当たりをつけていた。

 仏教の空は無ではなくあらゆるものには本質がないということを指しているのだから、当然、無という本質もないのだといい始めると、実に見慣れた難問や詭弁や循環へとおちいっていく。「ない」、ことと「ではない」ことのどちらが本源的なのかという問いもあまり意味がありそうではない。しかし、しかし、しかし、テレビは現実の映像なのではなく現実の断片なのだから、震災のときわたしたちは本当は映像と現実が区分することも統合することもできないねじれた空虚によって隔てられ接合されたことを知ったはずなのだから、わたしたちはそのことを忘れていたのだから、ふたたびそのことを思い出すのではなく、映像は何も反映などしないということをいさぎよく愛するべきなのだ。

 博士は水爆を愛し、映像はテロリズムを愛するのはその本性にかなっている。狂った機械であるテレヴィジョンと同棲してきたわれわれは、テレビに対していまさら内縁関係を否認するのもうそくさい身振りではないか。

 眠ることは恐ろしく、郵便は爆弾を運び、車のドアは起爆装置だ。あらゆる場所にあなぼこがあいていて、そこから満開の錯乱の花びらが舞い狂うのは美しい。あなぼこがあいている。戦後文学ほどリアルなものはない。焼け跡のイエスはテロリストであり、日常が続くということと日常の中のエピソードとして戦争が挿入されることは矛盾しない。ペンギン戦争が、———-

 ここで どこにもアップしていなかったことに気がつき、載せることにする。1995の作。

 ペンギンならばもっと暑い

 また、戦争が始まったので、百合子は洗濯物をしまった。砲撃が、もっともシーツを汚すのである。この暑いのに、そうした手間は真っ平だった。縁側に、つぎつぎに洗ったばかりの湿った衣服を放りながら、どうにかならないものかしら、と百合子は独りごちた。
 夫が帰ってくるまで三時間、あった。
 ぱたん、と縁側に座ると、エプロンで、無意識に両手を拭く。
 気持ちよく晴れ渡った空である。幾つかの小さな黒い点がよぎるほかは、全く曇りがない。音はといえば、これも砲撃の音のみで閑静の至りである。百合子は両手で大きく伸びをして、ワイドショーを見るか、それともプールに行くか、迷った。
 と、ひときわ大きな音とともに、何かが、庭に落ちてきた。
 「あら、ら」
 石灯籠の傍らに、真っ黒の塊が立ち上がろうとしている。人ではない。焦げた軍帽をしてはいるが、服はぼろぼろでまとわりついていると云いうるのみだ。
 -ペンギンだわ。
 百合子は駆け寄ろうとした歩を停めて、しげしげと中型犬ほどの大きさの動物を検分した。滑らかな毛皮は厚ぼったく、日光を反射して耀いている。捕まえて振り回すにちょうどよいような重たさが見ていると伝わってきた。初めて見る訳ではないが、間近で見たのはまれである。階級は一等兵らしく、武器も何も持っていない。直接砲撃を受けたのではなく、爆風にやられたのだろう。服は惨々たる有り様だが、これといって怪我はないようだ。短い二本足でしっかりと立ち上がり、百合子を鳥類の目が見ている。言葉は通じないのだ。思い出し、百合子は黙って庭からの出口を指さした。
 バランスの悪い歩き方で、ペンギンは出口へと向かった。その後ろ姿を見つめながら、百合子は思った。
 何で、ペンギンなんかと戦争しているのかしら。

 真は、同僚の森と穴を、掘っていた。さすがに、スーツではすぐに汗で駄目になってしまうので、シャツに腕まくりである。団地のなかの、建物で陰になった空き地で、ほぼ家一軒ぶんの広さだ。その、雑草の生えたさら地に、二人で大きな穴を掘っているのである。土管の傍らには、上着と弁当箱が置いてあるのが見える。
 「もうそろそろですね」
 「いや、まだ大きくしないと駄目だろう」
 「そんなに来ますか」
 森はスコップで勢いよく土を跳ね上げた。
 「ああ。最近はひどくなってきたからな」
 「定時までに終わりますかね」
 真は汗を拭った。
 「終わらせるさ」
 自転車で子供が通り過ぎていき、その声が聞こえた。
 「宮仕えの辛さですね」
 穴の側には、ガソリンのタンクが置いてあった。
 「埋め直すのまでは私らの仕事じゃないから、」
 不意に地面が揺れた。二人の会社員は手を休めた。ややあって、震動が止むと、真は続けた。
 「大丈夫さ」

 都心の一角で、空に向けて、煙が一筋、立ちのぼっている。まだ夕焼けは始まっていない灰色の空に、細い柱のように立ちのぼっているのである。洗い物を干し直していた百合子は、玄関に物音を聞いて、口のなかではあい、と云って、サンダルを脱いだ。
 「お帰りなさい」
 百合子が玄関に行くと、真は手に土産の焼き鳥を持っていた。土埃で全身が満遍なく汚れていて、やや疲労の体である。
 「ただいま、百合子。お風呂」
 「どうなさったんです?」
 「いや、穴を、掘っていてね」
 「とにかく、お上がりになって」
 真は、やれやれ、と思った。
 やっぱり、家が一番。
 市役所の連中ときたら、ひどいものだ。ペンギンだって、もっと丁重にしてもよさそうなものじゃないか。
 呟きながら、ネクタイを緩めていると、百合子が、
 「お風呂、沸きましたよ」
 と、云った。
 そういえば、なんでも、燃やして油を取るのだそうだ。
                         (おわり)

 —-いまもなお戦われているのは自明なのだし、死骸が空虚にのみこまれるというより伝説のバンパイアがそうであるように、それ自体空虚へと変貌して、不可視のままに奇妙な幻臭だけは漂わせながら路傍に転がっているとしたら、(あなたはどこにも死骸がないのに腐臭を嗅いだことはないだろうか?) 結局のところ、空虚は中心にある、などと安閑と云ってはいられない。

 だが、ひとつだけ云ってはいけないことがあると思うのは、空虚は空虚とつながってはいないということだとおもう。空虚は無限へと通じているから、ある空虚から別の空虚への経路よりも、空虚と充実との方が近い。空虚を通じて連帯することはできない。

 (なんだかよくわからなくなってきました)

 「ワレワレハスデニ戦死シタ」

 配管にすむネズミならば愛することはまだ可能かもしれない。空虚な隙間ということはありえない。空虚に抵抗することもありえない。空虚は生きられるのでもなく、愛されることによって隙間へと変わる。隙間を通じて人は驚きにであう。偶然が、関係を統御する。統御するともなく統御する。待ち受けた愛はさなぎになる。すべてがつねに若くなることで衰え、衰えることで穢れ、穢れることでやさしくなり、肯定される。(だがそれは是か非か?)

 配管に住むネズミならまだ愛することは可能かもしれない。空虚とはすべての穴ぼこで、爆弾はそこにあるときはそこにない。あるのは穴ぼこであり、爆弾は事後的にしかない。だから、空虚は存在ではないのだから存在しないという詭弁には真理が住み着いていて、わたしたちは、空虚とは日本とかそうした言葉とはかかわりなく、ただひたすら、この言葉のない口を閉ざすことを強いる言葉の衝動、せき止められているわけではないのに表現の形式を得ないために滅びていく衝動によって語られるべきものなのだ。

 風の理論と、価の理論が必要で、それは結局のところ、夜はいかにしてながれない水となったかを理論的に解明するものであるべきだ。