サーバー分散なxanaduみたいな シニカルな論調のだらしなさ
■ サーバー分散なXanaduみたいな
tdiaryやはてなといい、id:ishinaoさんの動きといい、blogの流行といい、なんとなく朧気につぎのウェブのインフラ、言葉あってるのかわからないけどミドルウェアが見えてきそうな気がする。そしてそれはやはり基本的にはXanaduがやろうとしたことを離合集散できるプラグアンドプレイな複数サーバで、しかもサーバやサイトをまたいでいることを隠蔽してシームレスに、ということになるんだとおもう。考えて見れば、開発時点ではすごい大変でも、そのソフトがデファクトスタンダードにhttpdみたいになってつかわれるようになれば、それ以後はユーザーにとっては何の苦労もない。というかそういう部分でいかにシームレスさを演出して隠蔽するかというのは大きな課題なんだろう。
こころみにデータベースソフトに何ができるかを考えて、それをいかにシームレスに全ネット空間でできるかを考える。と、やっぱりhtmlはもっとxmlなんなりで意味記述をしてほしい。書評リンクなんかも書評を書く人がまずページのどこかにこのページには書評がある、というタグを書き、そして書評の各項目についてもそれぞれ意味によるタグ付けをする。それが可能であれば、技術的な実装のほうはだいぶ楽なはずで、はてなやtdiaryやwikiでひとがあたらしいタグをおぼえなくてはいけないのは、ある意味でhtmlが不十分だという尻拭いをしているようなものだ。
ぼくはぎじつ的なことはやはりわからないのだけど、いつか将来には、そうした分散処理で安全を考えると、データをサーバに依存しないように、十分な冗長性を持たせて、ばらばらにいろんなサーバにばら撒いて、いるときはまたかき集める、というやりかたをしなくてはいけないかもしれないとおもう。処理がすごい重いだろうけど、もしそれができれば、特定のサーバが飛んでも、ある意味でデータは全ネットにうすくひろく保存されてるわけだからつよいはず。
ただ昨日も書いたけれど、人間のほうはそうそうストック・テキストとフロー・テキストという区別から逃れられないので、フロー・テキストのつもりで書いたものをいつでも再ソートしてストック・テキストのようにあつかえるシステムにしても、むしろ、どっちつかずのあいまいで目的の明確でないものを書くことになるのではないだろうか。
すくなくともそれはいろんなcgiをあきっぽく使っていて、レイアウトをフロー志向にしたりストック志向にしたりして迷ってきた経験ではそうなる事が多かった。その辺はやっぱりそう簡単ではないと思う。
基本的な欲望としてつぎのようなことが上げられると思う。
が、以下、大半は無茶であろう。
自分の言及(あるいはその事実)が言及しているページに即時的に反映してほしい。
自分の書いたことへの言及(の事実)が即時的に自分のページに反映されてほしい。
インターサーバー的に、テキストを意味を単位にソートしたい。
複数のページ、サイトに表示されているあるテキストの実体、あるいは本体、あるいはどれかひとつが変更されれば他も同様に変更されてほしい。(Unixのリンクのように)
しかもできたら無限リドゥできるとうれしいが無理でも履歴が残るといい。
なんらかの形で版権表示がテキストに埋め込まれるとなおいい。(Xanadu)
(しかもこうした機能がなんらかのメタファーによって一貫性を持たされなければいけない。でないと、あつかえなくて大切なテキストを切り刻んでなくしてしまうのが落ちである)
まー考えればいくらでもありそうで、しかし比ゆ的な一貫性なく出していくと混乱するばかり。
基本的には「一方の変化に他方を自動的に連動させたい」というのがひとつの柱で、
もうひとつが「タグ付けしてデータ化されたテキストについてはウェブそのものがMS Accessであるかのようにあつかえてほしい」ということだとおもう。ていうかエクセルでもいいんだよな。
結局、いまのサーチエンジンでの検索がそれなりの勘を必要とするものであるのは、サーチが全文検索でしかないからで、htmlがまったく実際は構造化なんぞされていないからである。
だからじつは技術的なことはそれとして、わたしたちはむしろ、つぎのウェブの「メタファー」を考えることのほうがおそらくは大事なのである。
そういえば、インフラ的なソフト、はてなとかwikiとかインターフェイス部分に関して、規約を作ることはけっこう重要だと思う。htmlのフォームに関する規約をおおはばに拡張するとかするのが筋なのだろうが、そうでなければいっそjavaのウィジェット使っちゃうとか。(適当)いやそういうことよりフォームにつけるidの命名規則なんか統一されてるほうがいいだろうなというだけなんですが。
たとえば:というかhtmlがもっとすっきりオブジェクト指向なら楽。それでレイヤー構造。
理想的には、ひとつのファイルの中で、すべてのタグに番号がふってあって、urlとプラスして、テキストが一意に定まればいいんだよなあ。まあ、こんどはそのなにがどこにあるという情報なんかどーするんだ、ということになるけど。それにウェブの最大の特徴は改変著しいということだし。それが管理をすごいむつかしくしてる。リンク切れなんてざらだし。
いかん。さっぱりだ。またあとで考え直そう。
■ シニカルな論調のだらしなさ
最近、反戦運動が少なくともメディア的に盛り上がってきたことを背景に、シニカルにその「平和主義」なるものを揶揄する論調が散見する。しかしそうしたシニカルさはあたかもより「大人」であり「余裕」があるかのようであるけれども、言っていることは要するに何をやったってだめだし誰も善意で行動してなどいないのだからあきらめろ、ということに過ぎない。単にシニカルに順応主義の悲鳴をあげているにすぎない人物が、あたかも論調のなかだけは雰囲気的になにかまともで勇敢なことをいっているかのように見えるのは、ひとえにそれが「偽善をいうな」というスタンスにだらしなくよりかかっているからだ。突っ張りとおせない人も確かにいるだろうし、やってみても無駄かもしれない。その意味では確かに、たとえばバナーを貼ってみたりどこかで話をあわせて戦争はいけないよねと相槌を打っていてなんてわたしはすばらしいと思っていては仕方がないのは当然だが、五十歩と百歩はともかく五十歩だけは違うのである。泣き言を言ってあきらめているに過ぎないのに、それをシニカルさで泣き言らしくみえないようにしているだけのひとからだけはそんなことをいわれる筋合いはないのではないだろうか。
内容や主義主張の具体的な中身によらず大義名分っぽいあつかいをうけているから、きっとかれらはいいことをしているとおもって自己満足しているんだろうな気に入らない、という感情は、はっきりいって、通俗的だし小児的だ。批判するなら内容に則して、議論が成り立つようなちゃんとした反論をすべきで、偽善を偽善ということで自分が優位にたつという構図はあまりにも安直ではないか。
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