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Drifting Antigone Frontline

きむずかしいところがあるそうです

2003/02/16 00:00 JST

 かたること、みみをかたむけること

 http://www.halfdime.net/text.htm の2/12のテキスト。

 話の意図はわかるのだけど、この文章自体がいかにも割り切りすぎていて、ひどく危うく見える。そのことが、この文章が指摘している論調というか雰囲気の一例にもなっているかのようで、そういう意味でも、なかなか気になる。実際のところを言うと、根拠があって主張をしていても話も聞かずに切り口上でなぜならなになにだ、と言うひとも困るわけで、それは観念の理として一分のすきもないのかもしれないけれど、一分のすきもないということは実際にはあまり誉められた属性ではない。実際に本当に一分のすきもないということはありえないのだから、むしろ隙をカバーする、現場で修正する能力のほうが求められるからで、それが、論敵の話を、論破するためだけではなく「本当に」聞くということだ。仮にも真剣な対話をして、それでも自分の事前のプランに修正するところがなかったら、むしろひとは恥じるべきではないだろうか。わたしは善く対話することができなかったと。

 もうひとつあえて付け加えると、ただ言語化できない違和感だけがあって、それだけが抜きがたいとげのようなリアルで、しかしではどのような対案を見出せばいいのかいままさに対話の場に至っても確たるものはない。だが、それではだめなのだ、ということだけははっきりしている。そういう場合だってあるだろう。たしかに、その違和感をまもるために急場持ち出されている欠陥の多いにせの対案は否定されなくてはいけないことが、おおいだろうけれど、ひとはつねになにか理由があって反論する。たとえ説明できなくてもそれはやはり自分にとってはなにかただしさを帯びているもののはずだ。ひとは自ら不義とかんがえることを信じることは難しい。だから対話は常に、なぜあいてはこのような意見を正しいt考えるのだろう、そこにある違和感、動機付け、かくれた、間違ったかたちで擁護されている見えない義はどこにかくれているのだろうと考えなくてはならない。

 必要なことがあるとすれば語ることであるというよりも、ひたすら耳を傾けること、それも、データではなく、サインではなく、こたえをせまる問いかけとして、なぞかけとして、ひとのはなしをきくことなんだとおもう。

 JBA ( http://jba.ja.bz/ )

 id:ishinaoさんの記事、http://ishinao.net/WikiLike/?sid=170 ぼくもこれはやっぱりJBAはやばいと思った。それ以前に見た目がアングラな商用サイトみたいなのはどうなんだろう。議論がサーバーレス、サイトレスな広がりをもつことが本来の志のひとつだったはずではなかろうか。そこでふたたび領土性への固執が顔を出してくるとすれば病は深いといわざるを得ない。それから反戦はそんなふうに声高に叫ぶのではなく身近な営みや暮らしのリアルとか普通の話のトーンのなかで、ふつうに、でも後退はせずに、というのがいいんだとおもう。

 むかしやっていた・・・・・・

 というか一参加者で参加していた東芝のあとおしをうけていたbbsのコミュニティは2chに対抗するコンセプトをしめそうということで、ログインしないと発言できない、信用度みたいなポイントがあって、ひとの発言にプラスマイナスができて、人気というか信頼が高くなっていくと、スレッド作ったり、トピックつくったり、管理権限みたいなことまでできるようになっていた。つまりマイナスつけられつづけると、だんだん何にもできなくなっていく。

 うーむ、ところで名前が思い出せない。

 キーワードシステムは、何らかの規制が必要なんだろうか。キーワードを受け取る、つまり有効にする日記の側のほうに何らかの選択肢がもてたらいいのだけれど、(いまでもある程度は選択肢はあるが、いかんせん弱い)主義主張や意味内容を機械的に分類するのはむずかしい。自動的につまり受動的にリンクされるから、といって、自分のまさにテキストから、自分の支持しない解釈へと読者を飛ばすこと、これは容認すべきことだろうか。しかしたしかに下手に踏み込みすぎると思ってもいなかった方向へと他者の意見を誘導してしまうかもしれない、そういうところはある。(もちろんぼくは微妙という言葉を使いたくなかったのである。大人気ない)

 ついでにいうと、うそ書いたらまずいかなあ、悪意とかじゃなくて、キーワード。まずいか。

 原則的には、ネタの場として使うのは、第一項目に正式な、というかふつうの辞書的定義がのっているときに、プラスアルファで、というのが筋だと思う。そこではじめてその言葉を知る人はつねにいるわけだから。ジョークは、ジョークとして受け取られなければ意味がない。そしてジョークとして受け取られるような努力をしておくのは、残念ながらかなりの部分、ぼくはジョークの側の責任になってくるんだろうとおもう。ここからジョークですよ、虚構ですよ、と古典はその点、儀式的な、形式的な所作が決まっているから、じつに楽である。その点、逆になんでもネタではないかと疑ってかかるのは、ちょっとそういう世界の内部に煮詰まりすぎなのではなかろうか。

 いくつか、キーワード。

 地域通貨 佐伯日菜子 リアルシスターズ


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