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Drifting Antigone Frontline

2003/02/17 00:00 JST

 既出かもしれませんが、はてなダイアリーへの要望 19:08

 パラグラフごとにジャンルを指定できるように、id:mutronix みたいなスタイルで、すると、それでアンテナ補足のときに、ジャンル限定で表示させるようにすると、あるいはアンテナじゃなくても、更新報告リンク集的に、つかえるといい。

 つまり、パラグラフ志向で、更新された複数の日記から特定ジャンルのパラグラフのタイトルだけあつめて、表示する、そういう、プラグインがあるといいなとおもった。はてなの外の更新をしるにはアンテナでいいけど、はてな内部であれば、こういうことができるし、書き手にとってもアクセス効果があるとおもう。アンテナのように、固定巡回サイトだけではなく、新規開拓をつねに読者はしたいもんなので、そういう仕組みもあるとよいのではないだろうか。まあ、なんらかの機構で外部ともそういうのができるといいけど、それはまたはてなに対して要望することではないし。

 『イラクの小さな橋を渡って』 18:55

池澤夏樹さんの文章による反戦の意志の込められた写真集。

ISBN:4334973779 の英語版PDFが落とせます。英語圏の友人にすすめるなり、日本語版が買えない方がご覧になるなどしてはいかがでしょう。

http://www.cafeimpala.com/downloadbookE.html

 http://www.otsune.com/diary/2003/02/17.html#200302171 18:26

http://ishinao.net/WikiLike/?sid=170

http://jba.ja.bz/

 続報。というか、Movable Typeの今後とかそういうことは詳しくないのでおいておいて、ここでの「引きこもり」云々の発言に現れている感覚について一言したい。

 第一に、weblogというのはもとから一次情報としていろんなサイトにある情報や記述を「たれこみ、リスト化して」一覧できるようにすることで利便を追求するものでしょう。つまり、weblogそのものに一次情報がある必要なんてどこにもない。紹介文とurlがのっていればいい。実際、まとまった議論をするとき、以前からふつうは、サイトを持っている人は、自分のページで発表し、議論はサイトをまたいで交換されるものだった。それはひとつには、自分の文章は自分で責任の持てる管理をしたいということ、(だからこそうるさいくらい履歴の保存というトラウマがテキストサイト、日記サイトにはあるわけで、履歴の改変は大罪とみなされていた、あるいはいるわけです、ついでにいうとだからこういう一日分単位でしか書けない日記はその日の前に書いた日記を改変してるみたいなへんなうしろめたさが)、責任の所在、文責があきらかになるということ、長い文章はやはり「別紙」(ストック・テキスト)にせざるをえないということ、などなど理由があったわけです。

 サイト間コミュニケーションを前提にしたweblogというメディアの議題において、議論を単一のサイトの内部で行わなかったということを理由に非難するのはこのうえなく倒錯しています。

 第二に、確かに、言及されていることを言及されている側が知らないのは場合によってはフェアではない。反論の機会をあたえるべきで、その意味で出向いて書き込みすべきだった、という論点については、だからこそ言及するときはリンクを張るべきだ、という(一部に議論を嫌う風潮から他サイトへの言及リンクを忌避する人もいないではありませんが、リンクしないで語る、ということのほうが実際にははるかに「陰口」にちかいのです。そして、そうはいっても、その場合でもアクセス制限をかけていなければ、公開されていることには変わりないのです)慣習があるわけです。そしてアクセス解析をつけることも基本的には普及している。そして当該のサイトは実際にOtsuneさんの言及に気がついたからこそ、対話が始まったわけでしょう。これをして「陰口」「引きこもり」と呼ぶのは不可解です。

 そもそも、サイト管理者として「行動する・外出する」というメタファを考えるなら、いっさい他のサイトに書き込みをしなくても、リンクをし、発言をアップし、議論し、読み、といったことをしていれば、そのアクティヴィティにはなんの遜色もないわけです。

 つまり、問題なのは、他のサイトに書くことと自分がページの管理権限を持つサイトに書くことがどう違うか、そしてそこから派生してくる倫理的責任はどう違うのか、ぜんぜんまともに考えてない、ということが、「引きこもり」という不用意な言葉の中に凝縮してあらわれている、といえるとおもうのです。

 http://www8.ocn.ne.jp/~ta-u/ 16 17:15

 http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030215#p2

 じょうのさんの「なぜわたしではないのか」という問いは、その意味ではあやういものを含んでいると思うのです。「わたしではない」から人を殺 すんだ、と切り返されたら、あとは「わたしではない」人間の比類なさと「わたし」の比類なさの双方をどう尊重するかを考えなくてはならないから です。永井均的な問題ですけど。

 ひとのいのちを尊重する、というとき、それが律法であるから、という従い方では、律法が改変されてしまえばいのですからあまり意味はない筈です。いのちのとうとさを認識する、というけれども、「認識」ではいけないんではないか、とも思うのです。いけない、という言い方は少し違うかもしれない。

 殺すことそのものが私の内部の何かを殺すことであるような、そのような脅かすもの、そのような恐怖が、わたしに殺害を忌避させているのだ、とわたしはおもいます。ひとは自分の死によって傷ついたりしません。同様に、精神は死によっては死にません。なくなるだけです。傷つくべき私がそのときはいないのですから。ひとは他者の死によってこそ精神をいくらか殺されるのだとおもいます。

 殺害や、殺害を意図することによってみずから失われるもの、奪われるもの、損なわれるものへの無自覚こそが、倫理的な面での問題のありかなのだとおもいます。

 しかし、とひとは問うでしょう。見知らぬ他者を悲しむことなどできはしない。そのようにいうとすればそれは忌避すべき偽善だ、と。いちおうは理があるかのごとくです。しかしここには重要な質的な区別が抜けています。私たちは、見知らぬ他者の死によっても、やはりその遠さに応じていくらかは損なわれ、奪われ、死んでいるんです。そして、相手をもしよく知っていたら得られるはずであったものを奪われた、という先取りによる悲しみを覚えることはあるのだとおもいます。想像力とはそういうことだと思うのです。しかもそれは、現に殺害という形であれ関係をもったことによって、単なる想像ではなく痛切なリアルとなっていく。

 自分との関係の深さと、自分がどうにかできる近さはおおむね一致するものでしょう。もちろん、重ならないことは多いのですが、その悲しみや悔いはそれとして、関係の深さに応じて失われたとき奪われるものが大きいのだとしたら、わたしは十分、そこに殺害の禁忌の根拠を認めることができます。

 だがひとは愛する他者とばかり暮らしているわけではない。ましてまったくの他者ととなりあわせに生きているのだ、といわれます。ですが、一瞥の「顔」のなかでさえ、すでにわたしたちとたちがたく結びつく。ただ相手の命に一瞥しただけで、すでにあいてはわたしのなかに沈黙のうちにすまっていて、殺害はその自らでもある他者を殺すのだ、と思います。

 「なぜわたしではないのか」という問いはそれとはちがって、もっとずっと個人的な不確かさなのです。それは問いであって、「かれはわたしではないから」という形で接続することはできないのです。何といったらいいのか、この相手は、たしかにいくらかは間違いなくわたしなのだ、それなのにこの絶対的な隔離があり、理解の途絶がある。それはなにか恐ろしいことです。この非対称性。取り返しのつかなさ。他者のいのちの重みという以前に、わたしは、どうしても、他者と自己とを、あらゆる属性をひきはがした、固有名の根源的偶然性のようなレベルで、切り離して考えられないのだと思います。


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