イラク戦争
読んでください。サイードの発言。
イラクの独裁を責めずに「民主主義の国」アメリカを責めるのは片手落ちだ。武力によってもまもらなければならないものはある。などというひとがいる。
間違いである。
第一に、アメリカはいつのまにかテロ支援の罪状を独裁と査察妨害の罪状へと変更した。テロ支援の事実がなかったからだ。
そもそも、アメリカはしばしばそのような行動を起こしているが、他国の悪政を戦争の大義名分として認めていいはずがない。しかしもちろんアメリカ合衆国は独裁体制に反対する組織へのテロ支援も行ってきたし、現実の侵攻もしてきた。だが、このような主張、「他国の悪政が出兵の大義名分になる」という主張を認めたら、あらゆる好戦的な指導者は、やすやすと体制、主義主張の異なる他国を攻める名分を手に入れるだろう。なんとなくそうかもしれないとおもっているかもしれないが、このような主張は完全におかしい。
第二に、ではイラクが周辺諸国にとって脅威であるか、という点についていえばまったくそんなことはない。独裁国家、非民主主義国家であるということと、好戦的な、あるいは政情不安定な国家であるということとはまったく別のことである。戦争によらずにイラクの国政が民主化されるための努力は必要だが、現在、イラクを攻めることによって利益を得るのは、アメリカのエスタブリッシュメントと、イスラエルだけである。実際、ほぼすべての論者が、侵攻は現状以上の破壊的な政情の混乱をもたらすと予測している。
第三に、第二次大戦はおもにこれが原因でおきたが、わたしは、自国が他国に持つ経済的政治的権益も、けっして戦争を正当化しない、と考える。戦争が限定的に容認されるのは、武力侵攻を受けたときだけである。他国に持つ権益、そして在外邦人の権利、これらを武力行使の原因として原則的に認めてしまえば、あらゆる戦争は正当化されてしまうのである。実際、武力侵攻、あるいは武力侵攻の急迫した脅威がある、としておきた戦争はかぞえるほどでしかない。のこりのほとんどの戦争は、命以外のものをまもるために、他国へ出かけていくことで始まったのである。
第四に、パウエル演説は、大量破壊兵器の存在をまったく証明できなかった。かわりに、査察妨害の証明をしただけである。そして、なにもないならそんなことをする必要はないではないか、というのだ。
このさい、われわれはささやかな想像力を「査察」に対して働かせるだけでいい。外国人の、自分たちの宗教的、民族的タブーになんら関心を持たないチームが、国中にでかけていって、そこをみせろ、あそこをみせろ、という状況は、このように敵意が盛り上がっている状況でなくても、十分、屈辱的なものだ、国会議事堂に米兵がはいってきて忘れ物でも捜し始めて、そしてそれに誰も何もいえない、というような状況を考えてみればいい。
第五、不可思議なことにあまり知られていないが、戦争はまだはじまっていないが、ある意味では湾岸以来終わっていない。イラクは湾岸以来、国家の北部三分の一、南部三分の一を「飛行禁止空域」に指定され、武力によって監視されている。
第六に、そしてもちろん、イラクとアメリカでは戦争をすることに積極的なのはアメリカのほうである。戦争が起きなかったらイラクは得をするだろうか、あまりそうともいえない。政権にとってはジリ貧の状況がつづくだろう。イラクの民衆が得をするので、それはまたべつのはなしである。
第七、フランス、ドイツ、ロシアに対して最近、やや中傷的な報道が多い。中傷的な、というのはしかしそれらの事実をぜんぜん認めないからではない。石油の権益や戦後情勢への駆け引きという側面がある、というのは完全な事実だろうし、ドイツの姿勢が、道義的な態度だけではなく、国内のイスラム人口というものも背景に持っているというのも事実である。問題なのは、それゆえに、これらの国々の主張は支持するに足りない、なにか不純で汚れたものだ、というニュアンスだ。
最後、平和主義は原則として殺されたくない主義ではない。それゆえ、ブルジョワ的な事なかれ主義、自己満足主義とは違う。それは主義なんかではないからである。平和主義と呼ばれてきたのは、そして実際おおくの運動の実質を構成してきたのは、「私は殺さない」なのである。
そのことはたとえばイスラエルの良心的徴兵忌避者のことを考えてみてもわかる。個人的に純粋にエゴイズムで考えても、はたして徴兵忌避はことなかれ主義だろうか。平和主義とは、みんなでなかよくできればいいなあ、というぼんやりとした夢想ではなく、戦争より何倍も困難な交渉と議論によって戦争の惨禍を忌避しようという勇気のことである。
戦争は臆病だから始まるのだ。なぜなら、戦争するかどうか決める人間にとっては、危険や不透明さは、無条件降伏が必至であるとでも信じていない限りは、開戦したほうが少ない場合が極めて多いからである。戦争させられる人間にとっては出征は勇敢な行為でありうるけれども、開戦を決定する人間にとって、開戦が勇敢な行為である、などとは到底いえない。