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Drifting Antigone Frontline

知的所有

2003/02/28 22:15 JST

ゲノム
著作権
特許

 複製ができる、というだけではなく、複製がされる、つまり、使用享受をさまたげる権利としてのネガティブな所有権の側面はまったくとは言わないまでも無効になった、そういう前提で、そのうえで守るべき権利は何か、そしてその根拠は何か、ということが議論されるべきじゃないかと僕は思う。

 確かに、権利が守られていない、当然保護されるべき人が真似され放題、というのはいけないけれども、一方で、既得権を持っている巨大企業が、着々と知的財産を独占し、囲い込もうとしている、第二の「エンクロージャー」みたいな現象はグローバリゼーションにともなってはっきりと起こっているわけで、知的財産における囲い込みの問題と、同時に、知的著作物が、複製を禁じることで生じる希少性を価値の源泉としていたビジネスモデルが破綻していく状況とを両方見据えなければいけないのだと思う。

 現象としては対極のようだけれども、囲い込みが可能になったのは、複製を可能にした情報の流通網の完成に負うのだから、やはりひとつのことといってもいい。実際、複製商売が不可能になっていくというのは、じつはことの半面であって、完全に複製を禁じる可能性がないわけではない。ただ、複製を禁じることが、個人の自由に及ぼすリスクが巨大になった、ということで、どうしても知的独占を維持しようとすれば、必然的に管理社会とならざるをえない。しかし管理社会とは、むしろ情報が秘匿されるのではなく、政府に情報が流出する社会である、というジレンマも他方にある。

 グローバリゼーションはおそらく、知的財産の世界でも、植民地主義的な「世界的分業と独占」のモデルをすすめようとするだろう。重要なリソースは徹底的に秘匿・独占し、他方で、重要でない層の情報は徹底的に流出する。情報の秘匿権の階層的格差というものが展望されてしまうような気がする。

 グローバリゼーションではない、かといってナショナリズムではない、インターナショナリズム的な、情報との付き合いと活用を考え出さなければあぶない時期になってきているのかもしれない。