小説日記:雨のまえ
死というのは、ただ単に胸糞の悪いものだ。だいたい死んでいる人間は返事をしない。しかも毀損した死骸はひどい匂いがしたり吐き気のするような外見をしている。あんなむかつくことはなくすべきで、人を殺して死骸を増やすなどというのは、本当に言語道断な振る舞いだといわねばならない。
綺麗なものが好きだ。
私は数年前から、存在の世界というものにうんざりしてきていた。結局、だれもかれも存在するもののことばかり話している。存在するものなど、存在しないものに比べれば三文の価値もない。夢や希望といっても、きいてみれば所詮その夢や希望は存在の世界のものでしかない。なんだ、結局、成功したいんじゃないか。無の無、虚の虚のなかにこそ、求める甲斐のあるものがあるはずだ。存在しないもの、存在し得ないもののためにこそ、芸術があり、人生があるのだと私は思ってやまない。
枯葉朽葉がきらきらと逃げ水に落ちていく。
そんなことを考えながら、ある朝、私はゆくあてもなく散歩に出かけた。失望するために出かけたのだ、そういってもかまわなかった。だが失望するためには希望する力がなければならない。私は幻に絶望的に信頼して歩いていた。幾度失望しても、私はどうしても、不在の何かに出会えるという希望をもたずにいることができないのだ。私は幻想にたえまなく襲われながら不断に失望していく、そんないそがしいおろかな日々を生きているのだと思いさえした。私は現実にひねくれたかたちで求愛していて、それを軽蔑しているようでいながら、あまりにもふかく信じているのかもしれない。私は現実が奇跡的であることへの信頼をどうしてもなくすことができないのだから。
木戸をくぐるともう裏の小道だ。隣家の鳳仙花の匂いがむせるようで、この道がいつか舗装されるときのことを思うと嘆かれてならない。もうあらかじめなくなった道だからこのみちをゆくことが愛されるのだろうか。
水溜りができていて気がつかずに私はかかとだけ踏んでしまった。しぶきが心地よい音を立てて注意を引いた。のぞきこむと空の奈落がうつっていて、存在しない深さが青く輝いている。
顔を上げると塀の上に指先大の少女が座っていた。
「いい陽気だね」
「もう雨よ」
「そいつは困ったな」
「そうよ、失礼しちゃうわ」
指先大の少女はたちあがると服のほこりをはらって、どこからかパラソルを取り出した。それから、
「どいて」
というので水たまりから足をどかすと、彼女はパラソルをかかげて、ふわり、と塀から飛び上がった。見ていると、彼女はそのまま滑空して、ぽちゃんと、水溜りの中に消えた。
「おやおや」
のぞきこむと、水溜まりに写った空に、彼女が飛ぶ姿が見えていた。
たちあがって、真上をみると、
少女の姿は空にあった。あかいパラソルが青に映えて。
「さて、雨宿り、しないとな」
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