back_to_index

Drifting Antigone Frontline

小説日記:月と辺境 repetition ver.

2003/04/02 00:00 JST

http://jouno.s11.xrea.com/works/k3.htm

内的世界と外的世界の接点で、物語という領域が生成する。

 ある国のお姫様が塔から身を投げる。同じ時刻に貧しい娘が月を見上げてため息をつく。花が猛烈な勢いで墜ちた姫君の体から繁殖し始め、瞬く間につる草は塔を覆い、月へと伸びていく。そのさまはジャックの豆の木よりも不気味で美しい。貧しい娘のため息からは黒い嘆きの川がとうとうと溢れ出し、ひたひたと眠れる町の街路を満たし、ドアというドアへ黒い水が流れ込む。そして水がつるくさの根元に至ったとき、不思議な化合が起こって、錬金術的な結婚から千の人造天使が飛び立つ。

虚実皮膜という、あることとないことのあいだに、なにかどちらでもないものがある。それはたとえば記憶の歪曲や、夢の幻想、狂気の妄想に似ている。しかし、あるフィクションが、フィクションとして自立するためには、もうひとつ何かが必要だ。それはたぶん、書き手を表現してしまうということから逃れることだ。たしかに読み手にとっては、書かれた物は、書き手を思わせる物だし、そこに息づかいさえ聴くだろう。しかし、もしそうであれば、それは意味をつくりだしているのではなく、書き手という人格から意味をうけとっているにすぎない。そのとき、書かれたものや、書かれたひとびとの価値は、二次的な物にならないだろうか。

 追憶の中で、彼女のことをなんと呼べばいいのだろうとわたしは戸惑う。ローザと呼ぼうか。きみはそれなりに革命家だったから。それとも、一葉とおののくような口調で呼びかけてみようか。きみはさながら儚い誇り高い花だったから。それとも、ああ、それとも、いや、ぼくは夢特有の確信を持ってこういうんだ。きみよ、きみよ、失われないきみよ、ぼくの至上の人、ドルシネア、と。

 鏡の中にぼくは閉じ込められ、記憶の反復の中で破壊される。魂の機械は自動運転で月を目指すジュールベルヌのロケット、そのひとのイメージのほかに愛の凡例をしらないゆえのおろかさか、歌はますます音程をあげていく。

 誰かが、おお、あの大ガラスが言うんだ。「これぞわが声、だって? ばかばかしい、みんなただの文字じゃないか」 

記憶には辺境があって、そこには記憶にない記憶、思いだそうとするときは決して思い出せず、ただ、憶えていたという形でしか思い出せない記憶がある。それはむしろ、記憶の記憶であって、けっしてしっかりと把握することが出来ない。しかし、この場所からしか、物語を織ることが出来ないという側面がまちがいなくある。実際に記憶しているわけではない。しかし、なにか、既視感を感ぜずにいられない。そういう覚えのない記憶の断片だけが、物語を発動させるような気がしている。

 祈りとは至上の集中、対象のない悲鳴、カフカのように、愛すること。

記憶はまた、月とも密接につながっていく。月は鏡であり、一方で、盲点でもある。鏡には、うつらないものがひとつだけある。鏡は鏡そのものをうつすことができない。記憶は、記憶された出来事そのものをうつすことはなく、逆に想起するわたしの魂の断片だけをあらわにする。記憶の盲点と同様に、月をみつめると、月に似たものがわたしのなかにあるような気がしてくる。だがそれは欠けた月だ。月はどこかへのドアであり、そこには読むことのできない文字が書かれている。

 わたしは落ちていく。月へと。それは断片の逆巻くメールシュトレーム、記憶の記憶はそれだけで美しい。非存在の核心には空虚なハイウェイがあって、ばかげた風が吹きさらす。祈りのうちには、推移する空白のこそばゆい感覚。


Comments(in hatena)