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Drifting Antigone Frontline

地域通貨関連で はてなノート構想 ゲーム

2003/04/08 00:00 JST

05:52

 id:yukattiさんとid:sugioさんに反応していただいた。はてなのポイントにかんしては、つけくわえることはほとんどないです。名声の倫理や互酬性がキーだと思う。

 ひとつつけくわえると、贈与というのは、今後、著作権が、コピーをものとして売る、というのが、技術の進歩なんかで不可能になってきたとき、創作者への新しい報酬のシステムとして、投げ銭は重要だと思う。

ぼくは長期的には、著作権は、コピー禁止によってではなく、投げ銭や関連グッズ的な(つまり周辺商品)もので報われるようになるべきだと思っているのです。やはり、コピーの独占という報酬モデルは問題が多いんじゃないだろうか。

 経済の本来のイメージは、もやい、や助け合いということだとおもう。これはある意味、オープンソースやファイル共有の倫理にすでにある。

 それから、地域限定の意味というのは、規模の経済とからんでくるので、大企業や中央の経済とかグローバルな経済は、廉価に生産できる。だから、みんなそういうものから買うようになる。すると、地域からは通貨がなくなって、買い手のないモノばかりが残る。すると、地域の内部で取引したくても、貨幣がなくてモノだけがあるので、取引ができなくて、地域経済が衰退する。

しかし、実際には、おかねを持ってないだけでモノはみんな持ってるので、そういう衰退した地域の人は「貧しい」わけではない。ただ、交換がおきないので、経済学の視点から、「貧しい」ことになってるだけ。商品はあふれてるのに、経済はないという奇妙な事態。

あと、このへんはフェミニズムなんかでいうシャドウ・ワークともつながる。つまり家事とか、貨幣に換算されていないモノやサービスによって、実際は社会はまわっている。しかし、経済的にはそれは価値ゼロとして表示される。生活の質としての豊かさと貨幣価値の量としての豊かさの乖離、しかし、貨幣がないと交換ができず、交換ができないと、使用価値として豊かでも、生活できず、結局、貧しいのと同じことになってしまう。

国際的なことでも似たようなことがあって、過剰に地域や国家ごとに分業が進行すると、特定のものしか作ってない地域、国はますます、貨幣をもってる存在、先進国に依存する。ものやサービスを持ってるという意味で実は豊かでも、貨幣がないと、自給自足できない地域は生存できないから。

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030213

投げ銭とはちょっとずれますが、なぜ利子と地域通貨が問題になってくるか、というので、以前の日記のログから、再掲。

関連。池澤夏樹さん。

http://www.impala.jp/century/column/clm_085.html

http://www.impala.jp/century/column/clm_086.html

http://www.impala.jp/century/column/clm_087.html

http://www.impala.jp/century/column/clm_088.html

http://www.impala.jp/century/comment/interest.html

その後も継続的に追ってるみたいです。

 利子があるということは、その分だけ、経済全体の価値の量も、ほかの要因がなくても確実にその分は増えてるはず。でも、ものやサービスといった実質的な、使用価値は、それに見合うほど増えてないだろう。どうなってんだろう、ということ。

 あと、成長しないと不況になるというのは不思議。ごくごく素朴に考えると、ゼロ成長でも昨日と同じ生活はできるはず。なぜそうならないのか。

2002年3月18日(月) 利子・インフレ・憂鬱

 利子というものをむかしから納得できないでいた。利子の分の実質的価値はどこからわいて出てるんだ? もしどこからも出ないんなら、利子分だけインフレがゆるやかに持続的に進行してるってことにならねえか? というわけで、それはたぶん、粗雑な考えだけど、文明による生産性の進歩と、人口増加で、地球総体の価値がふえてるからだろうと。いうことになると、この「歴史」そのものの関数としての価値増加分を、なんで金を貸してるやつに還元しなければいけないのか、よくわからない。借りた金でもうけたら、なにがしかは貸したやつのものだ、というのも、理由がよく分からない。いや、もちろん、借りるときそういう約束をしたからだが、なぜそういう約束が、もっとも経済的に正当だとみられているかがわからない。

 もちろんいろいろとご批判はあるのであって、価値は相対的なもので、そういう実質価値とか使用価値的な還元はおかしいというのはあるだろうけれど、ある時期をとったときの、額面と、それで買える生活の便宜とのあいだのだいたいの関係というのは、やはりある程度は規定できるんであって、利子というものがそういう意味での増加分と関係してるっていうのはいえるような気がする。

 ようは利子のふつうの説明は、寝かせておいた場合に「損した」、とれたはずの運用利益を還元ってことだとおもうんだけど、しかしね、投資してたら儲かったはずのお金をもうけられなかったのは損だ、という考えはぜってーおかしいじゃん。儲かったはずのものをもうけられなかった、というのは損ではなくてプラマイゼロだ。成長しないのは不景気なのか? ゼロはゼロであってマイナスではない。捕らぬ狸の皮算用を標準として考えて、その分を損したなんて考えるのは、おかしい。

 利子の問題はさらにあって、かけ算だということだ。かけ算ほど、よくよく考えると不公正を促進してるものはない。金持ちの一割と貧乏人の一割を比較するだけで、あるいは一億に対する複利と、千円に対するそれを比較すれば其れでいい。しかし、かけ算である必要はあるのか? なぜかけ算なのか、この問いの素朴さにひるまずに検討してほしい。それで肯定的なこたえがでても、決してその思考は無駄ではないはずだ。

 もちろん、利子もまた需要と供給の関係で決まってるので、それに、考え方が可笑しいなんて批判の仕方はおかしいというふうにもいえるのだが、まってほしい、お金は自然な総量というのがない。額面はいくらでもふやせるものだ。したがって、精確な意味での需給関係なんて言い方はできないはずだ。自然的な限界がないんだから、制度的に其れは決定されるのであり、経済の古来の原則みたいにはいえないはずだ。

 おかねのがくめんがふえると、それにつれて、ただ全体的に比例してふえるのではなく、なぜか資産分配の不公正が拡大する。なぜなのか。それは単純に政治や制度の不公正の問題なのか。あんまりそうはおもえないな。それはつまり広い意味での利子という仕組みがあるからではないのか、という気がしてならない。

 というか、こういうことがそれなりに重要なのは、成長を前提にして、成長しないと生活が苦しい制度はおかしいというか、今後実用的ではないということがあるからだ。かならずしも、経済規模が成長しなければ、生活が苦しくなるとはかぎらない。成長しないと生活が苦しくなるのは、利子の分を払わないといけない制度になっているから、ではないのか。もちろん、ずっとひろい意味で利子と呼んでいるんだけど、走らないと倒れる経済制度をあらためないと、外部の、自然環境や、イノベーションの速度が落ちるとき、どうしようもなくなるのは見えてるじゃないか。

 持続可能な開発というのは、むしろ開発という言い方ではなくて、存続可能な文明というふうにいうべきではないだろうか。

id:mutronixさんとのはなしに関して。 06:51

 はてなノートみたいな構想(ストック・テキストとか付箋とか)を考える構想と、俺様、あるいは自分キーワードという発想を区別したいのは、たしかに既存の資源を転用するというのは重要な方向だと思うんですが、ぼくは言葉が個人所有になることに反対なのです。言葉はあくまでも交通のためのひらかれたもので、所有にはなじまない、とおもいます。

 また、キーワードという概念、発想で普及してしまうと、タイトルを本文が定義するという関係になりますが、しかし、付箋やノートの場合、あるいは一般にふつうの文章は、タイトルが本文を解説するような関係になっていて、むしろタイトルのほうが本文に従属するものでしょう。

 プログラムやシステムとしては自動リンクするか否か程度の違いなのですが、やはり、内容や観念のレベルでそういう違いがかなりあるので、ぼくとしては区別しておきたかった、ということです。

 ついでにいっておくとあくまで区別したいので、積極的に反対とかではないです。

過去日記の活用 06:51

 id:koseki:20030405#p3さんやid:nobodyさん。

 軍艦島を使うのはおもしろいです。

 むかし鈴木あみがNHKでドラマやってました。(小西真奈美とテリー伊藤が出ていた)


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