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Drifting Antigone Frontline

アンの娘リラ 第一次世界大戦

2003/04/17 00:00 JST

23:41

 短編をのぞいてアン・シリーズを読みきった。「アンの娘リラ」は第一次世界大戦という背景がほとんど主人公として君臨している。わたしたちはともすれば、第一次世界大戦が、ヨーロッパの精神にどれだけのトラウマと変化を強いたかを忘れがちだ。

 そして驚いたのは、ここでは愛国主義と反独感情がまじりあっていて、なんというか、別の視点と言うのがほとんどないことで、とはいえ、「月に頬髯」という人物が出てくるのだが、戯画化されるこのひとは結局、親独派なのか反戦派なのかはっきりしない。本人がそういってるので、多分反戦派なのだとおもうのだが、もしかすると単に偏屈なだけかもしれない。しかしそのどれかということは、本来、けっこう大事なことだろうに、独逸びいきで片付けられてしまう。

 もちろん、戦争をたすけ、苦痛に耐える人々の自己犠牲は感動的なんだけれども、しかし、である。

 重要なのは新聞ではないかと思った。ほかに情報源のないところで、ドイツ人は捕虜を皆殺しにしたとか、どこそこで住民、あるいはおさない少女をころした、という話がつたえられれば、戦争の大義というものをごくごくふつうに信じる気になるだろうし、疑う理由は特にないだろう。

 そういう意味で、とくに政治的信条もない人を動員していく、敵の残虐さという物語はたちが悪い。なぜならもしそれが本当なら、たしかに戦うことはまっとうなことだろうし、道徳的義務でさえあるだろうし、この場合、戦いを支持するのは特定の政治的信条をもっているひとではなく市井の普通のひとということになるだろう。

 むらの世間のこともよくしっていて、人間的にも深みのある、信頼している年長の友人に、やつらはこんな残虐なことをしているんだ、見逃せるかね、といわれたとき、観念的な、そういう事実に訴えない議論で反論するのは説得力も何もない。

 たとえば、捕虜虐待の話は戦争のたびに両方の陣営から宣伝されるが、歴史的に見て、偶発的な事件として以外で、常習的に捕虜虐待した軍隊がかつてあっただろうか。それを考えると、捕虜虐待のニュースは、かなり、すくなくとも、かれらはいつも捕虜虐待する、という宣伝はうたがってかかるべきだとおもう。

 どうしても、問題なのは、利敵行為という発想からなるたけ遠ざかることなのだが、これは多分、その場に立てば恐ろしく困難なことだろう。味方に反対することは決して敵に賛成することではない。敵の敵は味方ではない。味方の敵は敵ではない。その他、こうしたことをつねに考えていることは必要で、精神が世界は二つの陣営に分かれて、などと自分に対して語りだしたら、すくなくとも三日三晩は考え直すことが必要だ。


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