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Drifting Antigone Frontline

2003/04/25 00:00 JST

 キーワード

 あのキーワードと登録した方とはそれなりの相互理解が成立したのでべつにもう言うことはない。それより、周辺で、議論を単純化したり、宣伝という言葉が一人歩きしている感じがある。宣伝ということを基準にしたら、はてしなく曖昧な線引きで水掛け論になりかねないことはわかっているので、ぼくはそれだから、外的な歯止めの基準として、自分に関することは、ひとが自発的に登録するまで自制したほうがいい、といっているので、主観的な宣伝の基準を押し付けようとしているわけではない。また、そういうことを、意見としていっているので、それに関する議論が起きることそのものを忌避する根拠はないと思う。わたしのいうことには何の強制力もないのだから、批判するなり、黙殺すればいいので、議論の存在そのものをあたかも、なにか強制力のある押し付けのように受け取って批判する論調には同意できない。

http://d.hatena.ne.jp/ts7389/20030425#p1

以下、かならずしもこのリンクの文章だけについて語っているわけではない。とりあえずの一般的弁明として。

とりあえず、他人様が登録したキーワードを、という点で、まさにそういう、登録した人がそのキーワードにとって特別な位置にあるような見方を批判しているんです。ぼくとしてはどうせなら、登録者が誰かわからないようにしたほうがいいんじゃないかと思ってる。完全にWiki的な匿名性にしたほうがいいのではないか。

それと人は知りませんが、ぼくは直接、宣伝ということではなく、自分で、ということにひっかかったということ。それは、出版されている辞書に、知らない有名じゃない人の自己紹介が載っているのを見たときの感覚に近い。ある事項が、キーワードとして登録するほどの一般性があるかどうかは、それこそ主観的で曖昧なものだから、なるべく利害が入らない他人が判断したほうがいい、ということです。

消す、といってもはてなではすぐには消えないわけで、そこで議論になって、一定の結論が出たらそれに従う、ということを含んで、移動したわけだから、「かってに」というニュアンスで記述されるのは違う。そもそも、登録した人も編集する人も移動する人も、ユーザーとしては立場は等しい。そこで、登録した人だけが特別な位置にあるという考え(そこからそういう表現でなくても勝手にというニュアンスが出てくる)は変です。

 出会い系としての便利リンク機能を重視するなら、キーワードの文章はおのおの自分定義を書いて、誰の日記から飛んだら、そのひとの定義が表示される、というふうな仕様にすべき。そうではないからこそ、キーワードには不可避的に公的な性格があるんだということをいってるわけです。

 また、キーワードを私有していいというんであれば、登録者以外、編集も削除もできないようにすべきです。そして、リンクはこまかく許可、不許可を設定できるようでなければおかしい。

 ゲーム?

http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/?date=20030425#p12

関係ないけど、tDiaryのトラックバックの実装はかなり進んでる模様。

たしかどこかで送信のほうのプラグインも見た記憶が。

というのはこういうときこそトラックバックを送りたい。

もとい。

長いので、ちょっと詳細な反応はむずかしいんですが。

まずいくつか、前提。ただしじつは本題とあまり関係ない。

1 家族的類似性というのは、推移的な類似性のことです。つまり、チェスとボードゲームはこれこれの類似点がある。またボードゲームとサッカーにはこれこれの類似点がある。しかし仮にチェスとサッカーに何の類似点がなくてもよい。なので、家族的類似性について、それの及ぶ範囲を示す、ということはできません。この範囲は後述するように、実際の用法によってしか限定されないからです。

2 ということは家族的類似性は、ある対象をゲームとどういう場合に呼びうるかの規準を与えない。ではかれはこのような語の対象への適用はどういう基準で行われるとみなしたか。かれは基準はない、といいます。なぜなら有名な、「適用のためのルールを適用するためには、その適用規則が必要で、以下無限」だからです。原理的には、適用規則を適用する規則を適用する規則の……という連鎖には終わりがない。したがって、人間はルールを、どこかで適用規則なしに、いわば無根拠に適用しているのだ。と、ウィトゲンシュタインはいいます。

いいかえれば、かれは語の意味は用法に依存しているのであって、用法が意味に依存しているわけではない、といってるわけです。(もちろん、私的言語は存在しない、ので、語の用法は自由ということにはなりません。他者がいるからです。複数の他者の社会的コミュニケーションによって、語の意味は限定されます。かれがいうのは、語の意味の、個人的で形而上的な根拠を持つ限定は存在しない、ということです)

3 ウィトゲンシュタイン(面倒なので、以下、LW)はゲームをルールによって定義して、それを言語の理解に応用したわけではありません。そうではなくて、何を問題にするにしても、まずその語の適用と用法が問題になる。そのことに、ゲームという語も例外ではない、ということです。だから、ルールということが問題になっているのは、対象がゲームだからではなく、ある語の内容を考えるという場合にはつねにそうする必要があるということです。(その意味でわたしは社会学系の言語ゲーム論の理解は間違っていると思います。橋爪大三郎とか。)

 で、本題

 大前提として、ゲームという語の具体的な対象への適用が問題になるとき、それは定義次第です。問われているのは、実はその適用がただしいかどうかよりも、定義そのものです。

 だから、ゲームという語をその意味で使うことの正当化がなされるべきであって、自分の定義の内部でいくら論を展開しても意味はない。いったん、そう定義したなら、なるほどそういうことになるでしょうが、問題はその定義そのものの適切性なんだから、ということになる。

 私はvermilionをゲームという語で呼ぶことも呼ばないこともどちらでもよい。その呼び変えでどういう差異が生まれるかと考えたとき、とくに問題になるべきものを見出しえないから。(それに対し、主観や客観のようにほかのさまざまな語とネットワークでつながれていて、恣意的な定義が、全般的な体系の変革を意味してしまう場合は、どうでもよくはない)

 ゲームという語に特定の定義をあたえて、そこから論をするのは自由ですが、その定義はあくまでも、ゲームという語のひとつの側面に過ぎない。

 それでもなお、ゲームという語に、ある特定の定義がよりふさわしく、ほかの定義はふさわしくない、という客観的根拠がありうるでしょうか。

 そうなれば、必然的に日常における用法と、ほかの語の意味との関係を問題にするほかない。しかし、ゲームという語はそれほど相互定義的な関係にある言葉があるとはおもえない。つまり、ゲームという言葉を特定の定義の仕方をすることで、ひきずられてうけいれがたい意味になってしまうほかの語があるかどうか疑問。

 したがって、日常的用法からずれない範囲で、好みの問題になってしまう。そうでない、というならば、個々の定義の適切性を判定する基準を、まず樹立しなければならない。

 ここまで書いて、むしろ注釈的のコメントすることにした。

 べつの日付に全文引用してコメントする。

 ここ http://d.hatena.ne.jp/jouno/10030425

 アジテーションが、好きなんです。

http://jouno.s11.xrea.com:8080/b2/index.php?p=186

 国民国家

 というのは、第一に政治的で情緒的な共同体なわけで、拉致報道がいい例です。「日本人」でなくてもこの事件を非難している人は多いだろうけれど、情緒的な「われわれの問題」意識が呼び覚まされるのは、国民化の過程が効果をあげたからです。だからこそ、この「想像の共同体」が成立するためには、参政権と国民軍の成立が不可欠だった。だから、日本人という意識なんて維新以前はなかったとひとがいうとき、問題にしているのは、こういう「一体感」なわけです。

 おなじ朝廷の民である、という意識や、海の向こうのやつらとは話す言葉や習慣が違う、という意識は、じつは決して近代的なこういう情緒的な一体感を醸成しません。現代の私たちはこういう特徴によって国民意識を強化しているために、国民の成立以前にも、そういう枠組みが、国民共同体がもたらす一体感、身内意識、情緒的共同性をもたらすと錯覚しがちですが、そんなことはありません。

 patriotism

ラジオで小耳にはさんだことなので疑わしいんですが、宮崎哲弥(ぼくはこのひとをチョムスキーの件もあってあまり信用してないんですが)だか誰だかが、日本以外の先進国の愛国心は、patriotismとnatuionalismの二段構えになっている、日本は、それがなくて、すぐ愛国心がナショナリズムに直結する構造になってる、などといっていた。

 で、つまりここでナショナリズムと区別されたpatriotismというのは、その個人がアイデンティティを感じる、文化的、具体的な共同性、みずからを構成していると感じる継承された遺産の源泉としての共同体への愛なわけです。それは地域主義的なものにかなり近くて、要するにひとのアイデンティティは実際にはくになどという広大な領域の一般的な文化ではなく、もうちょっと狭い領域での、伝統的で歴史的な、たとえば方言とか、食事とかそういうものをふくめた文化に由来するわけです。だから、アメリカだったら州とか、イギリスだったら連合王国のまえにスコットランドがあったりとか、フランスだったらプロヴァンスだとか、そういうものを守る意識がまずあって、そういうものを守るために、国家を支持する。そこでいわば意識的で距離をとったナショナリズムが出てくると。

 日本は廃藩置県以後、そういう中間的で具体的なホーム、「おくに」というものを抑圧した形でナショナリズムを構成したので、国家への幻滅がただちにアイデンティティの喪失につながり、アイデンティティの肯定のためにはナショナリズムにいかなければいけない。、という極端で硬直した形態をとるのだ、と。

 この論、とくに諸外国でのpatriotismの意味とか実態に関してはただしいかどうかわからないけれど、国家と個人の中間に、そういう共同性をアイデンティティのよりどころとしてはさむということは、重要なことだと思う。

 某百科事典より

愛国心 あいこくしん patriotism

愛国心とは,人が自分の帰属する親密な共同体,地域,社会に対して抱く愛着や忠誠の意識と行動である。愛国心が向かう対象は,国 country によって総称されることが多いが,地域の小集団から民族集団が住む国全体までの広がりがある。この対象が何であれ,それはつねにそこに生活する人々,土地,生活様式を含む生活世界の全体である。また愛国心の現れ方は,なつかしさ,親近感,郷愁のような淡い感情から,対象との強い一体感あるいは熱狂的な献身にいたるまで,幅がある。すなわち愛国心は,本来は愛郷心,郷土愛,あるいは祖国愛であって,地域の固有の生活環境の中で育まれた心性であり,自分の属している生活様式を外から侵害しようとする者が現れた場合,それに対して防御的に対決する〈生活様式への愛〉である。どの時代どの地域にも見られるこの意味の愛国心に対して, 19 世紀に成立したナショナリズムは,個人の忠誠心を民族国家という抽象的な枠組みに優先的にふりむけることによって成立する政治的な意識と行動である点において区別される。しかしながら世界が国家を単位として編成されるようになると,愛国心も国家目的に動員されたり,逆に国家に抵抗する働きを見せたりすることで,国家との関係を深めた。そのうえ日本では,愛国心は近代において権力によって促成栽培された歴史的経緯があるから,日本語の〈愛国心〉には国家主義的な意味合いがつきまといがちである。


Comments(in hatena)

cider_kondo『難しいところですが、「中間」は日本にもあって、それは戦前は村落共同体であり、戦後は会社共同体であり、いまそれがなくなってるって気はします。』
jouno『そうですね、戦後の中間の剥落の傾向は大きいと思います。ただ、戦争が隣組なんかで地域共同体を破壊した面もあると思います。東京への一極集中はいつぐらいからなのでしょうか、知りたいところです。』