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Drifting Antigone Frontline

2003/05/02 00:00 JST

vermilion::text in 2003F “見ヨ、我ラカノ塔ノ崩ルルヲ見タリ” β 02:31

 いいえ、わたしはそれを思い出すというのでない。たましいに刻まれた文字から黒い水が染み出すように、蜘蛛の巣のような白い肌に張り巡らされた刺青が真夜中にうずくように、わたしはそれにとらえられ、それはわたしにとらえられ逃れられはしない。

 ねえ、あなたが目覚めたとき、ゆっくりとまどろみのなかから意識が這い上がってくるとき、その眠りのふかい井戸には、しんとこころに響く歌の名残があるの。それを思い出したくて、喪ってしまったことがかなしくて、あなたは泣いたことがない?

 ねえ、あなたが何処からきて、何処を目指し、なにを求めているかわたしは聞きはしないわ。ここへ登ってくる人はみな絶望を一度は潜り抜けてきた人たちだもの、絶望もなく、希望もなく、ただ白昼夢のようにうつくしい歌だけがわたしたちを誘うのだと、そうわたしは信じているのよ。笛吹きに誘われて塔からまっさかさまに落ちたとしても、そのひとは一度は「飛んだ」のだと信じなければと言い残した人がいたわ。

 秘密を教えるわ、そう、そのひともまた、あのときそこにいたのよ。

 この思い描くことさえできない眩暈のなかで、生きていくロバのような私たち、泣き言を云うには、繰り返すまいと誓った悔いが多すぎるの。どれだけ、かけがえのないものを喪って悔いたかが、そのひとの歌を美しくするんだわ。

 崩れ落ちていく無数の煉瓦、夢のような、まるで空がスクリーンのようで、合成としか思えない。人々はリアルタイムで泣き叫び、近さと遠さの並存になすすべもない。銀朱の塔はその片割れを失って、ああ、まるで夢そのものが壊れていく、壊れていくのは、ただの建物ではなく、塔はだって世界だもの、無限の塔が破片となって散らばり、ゆがんでもはや回復することのないパースペクティブは永遠に喪われることのない石碑となって残る。

 そう、人々はかつて銀朱の塔は鏡のようにみずからの反映をもっていたと伝説で歌うでしょう。人々は伝聞の伝聞のなかにもなお紛れ込む恐怖のかけらを味わいながらいきていくでしょう。そしてそれは永遠の未来に起きることか、無限の過去に起きたことか、つねに幻の現在で起きつつあることなのかさえ見極められない。すべては永遠に回帰して反復し、塔は何度も崩れ落ちる。

 ねえ、わたしはそれにとらえられ、それはわたしにとらえられている。わたしたちは劫火とともに崩れ落ちた塔の中に住んでいるのかしら。それとも、ここは影で、すべては剽窃された偽者なのかしら。ほんとうのことは二度と起こらないと別の旅人はわたしにいったわ。ねえ、眠りから目覚めるとき、わたしは本当に、もうすこしでそれをみつけられそうだとおもうのよ。

マドンナ「アメリカン・ライフ」ASIN:B00008IEUP

ぼくはほとんど音楽を論じる言葉をもたないのだけど、これはとてもよいとおもう。誰かが、この絶望と空虚さから次作では彼女はさらに飛躍するのではと書いていた。そういうことはわからないが、ぼくは音楽家として彼女が信用するに足ることを知る。ある意味で、こんな世界の状況に、おっちょこちょいな反応をせずにはいられないほうが、神経としてはまともなのだ。だから、彼女の発言はそれとして、(ぼくは尊敬に値すると思うけども)それが表現の苦悩につながることが信用できる所以だと思う。もちろん、ぼくはほかのアルバムを知らないので、相対評価でいいのかどうかはしらない。それと、不思議に不安を掻き立てる曲だということも付記。

http://www.du-ub.com/magazine/new/d-tune.html

http://wmg.jp/madonna/index.html

定義と論争 03:23

まとまってないので、覚えとして。

1 定義をなぜAdefBで形式化したくないのか。理由。AとBの間の非対称性が隠蔽されるがゆえに。Aは通例、語であるが、Bは通例、文である。また、定義であるから、AとBは内包的には等しいはず。ではなぜ、BはAではなく、AはBではないのか。それはBが、定義文が、語ではないからで、それゆえに、語Aの解釈が、決定されるとともに、多義的にもなる。つまり、Bは記号表現としてAと異なるという自明な事実の重要性、とりわけ、語と文の違い。

2 規約定立的な定義の使用も、論争的範疇であると定義を定義するのにさまたげにはならない。なぜなら、意味論において、無からの創造はありえない。定義行為は、すでにある語によって遂行される。規約定立的な定義の使用とは、実際には、論争状況においてこれはこのようにわたしが定義したのだと、主張しうるためにあらかじめの宣言であるとみなす。つまり、時間的に同時ではない論争状況。

3 定義は厳密に言えば、論争に外的な権威によって保証されている場合もあるが(たとえば法的定義)、おおむね、その根拠としての権威は、その定義の説得力にかかっているといえるだろう。つまり、その定義のルールにわれわれはあらかじめ暗黙のうちに従っていたのだ、という幻想を与えることによる。

4 そこで課題。

 特定の定義が説得力をもつ理由。そこからプラトン的な実在論的な意味論が再建されうるか? それともこの説得力の理由は別なところにあるか?

vermilion::text in 555F ”キャンディ、アイスクリーム、デッドマン その一” β  02:31

 555階”グラファイト・シティ”ではいつも誰かが何かしらを追っかけている。

 目が覚めると電話が凛々と啼いていた。糞っ、春だってのにひとを犬みたいに追い回しやがってと苛苛したというにはまだ足りない夢見心地の不機嫌で起きあがると、重い水を振り払うように頭を振って受話器を取った。受話器は死にかけの羊のような頼りなさで、冥界通信かと思うほど声は遠い。何度か聞きかえしてやっと相手は分署のライデルだと判った。すると、またくだらない汚れ仕事をママに預けて自分はぐっすりおねんねしたいというわけか。おれは急速に立ち上がる自分のなかの職業的偏執狂性向に身をゆだね、身支度をしながら委しい事情とやらを聞き出した。

 地獄の鬼婆のまぎれもない私生児ライデル・フォートワースがなげてよこした腐りかけの餌についていたトレード・マークはその名も高きエンディミオン・インク、お決まりの汚職がらみだった。グラファイト・シティの首根っこを押さえ、階の化学産業のトップテン・チャートには常連のエンディミオン・インクの研究員の死骸が、ザ・リバーの左岸に風船みたいにふくれあがって見つかったのがそもそもの始まりだった。そいつの名はすぐに警察の連中の地味な働きで判った(ご苦労様)、繊維合成の研究で飼われていた「秀才」ランドルー・ハロー(28)は前日までうきうきで豪遊しまわりの不審をかっていたらしいが、やつがどんな汚職に手を染めたのか、「残念だが」(ライデルらしい言い回しだ)、警察はかけらもつかんじゃいない。

 ザ・リバーは不気味な川だ。グラファイト・シティの真ん中を流れるけっこうな大河のくせに、葬式のとき以外、だれもその存在すら認めようとはしない。だから、おれはまずここに来ることにした。蒼白の空にはあつらえむきの鴉ども、黒い川にはいまでも死骸が流れているかのようだ。

 橋のうえでおれは川面を眺めながらコートに両手を突っ込み、過ぎ去った日々におれを罵倒して去っていった女たちの主張を仔細に検討し始めた。現場検証など警察がやり尽くしたに決まっている。だんだんとうんざりしてきて、けっきょく俺はろくでもない馬鹿だという結論に達しかけたころ、不意に声をかけてきた人物がいた。

 「どいてくださらない?」

 見るとそれはまだ若い、だがどこか悲しげな、しかし夢見がちなひとみには、自分は不幸せだと誰かに思い込まされているだけで、本当はすべては美しいのではないかと熱心に問い掛けるようなところがあった。要するに、おれは一目で彼女に参ったというわけだ。黒で統一されたワンピースは飾り気がなく、なおさら彼女を少女めいて見せていた。

 「なにをするんです?」

 だがおれは彼女が花束を持っているのを目ざとく見つけていたし、この件に関する資料はいくらおれが怠惰で有名だとはいえコーヒーといっしょに朝飯前に飲み込んでいたから、これがあのおろかなランドルーの残された恋人であるということはわかっていた。

 そう、そのときおれは彼女の名前を思い出せずにいたくらいだったのだ。

 その名、甘美なリジャイナという名を。

 グラファイト・シティの外部のことを誰も話題にしようとはしない。そこに何があるのかというのは、真理は実在するかというような、暇つぶしの話題にはなりえても、けっして大人がまじめに話題にするようなものではないとされていた。ときどき異様な風体の旅人たちがおとずれたが、かれらはすぐに立ち去ったし、ここグラファイト・シティの資本主義どっぷりの気風では、そうしたなぞめいたことは、広告業界でしか必要とされてはいない。だがおれは長い稼業の中で、もしかしたら、すべての背後にはばかばかしいような大きな秘密があって、エンディミオン・インクがそいつをしきっているんじゃないかというふうに感じ始めていた。つまり、ようするに、おれの愛する世俗的な暮らしに、奇妙な闇が紛れ込もうとしていたのだった。

 リジャイナ・エリスンにおれは鄭重至極に自己紹介すると、型どおりにお悔やみを述べて、近所の喫茶店に誘った。すこしだけ、熱心にすぎたかもしれない。

 ところが、奇妙な確信めいたものをたたえて彼女は、注文したコーヒーがじっくりとミルクと馴れ合うよりも早く、こんなことを言い出した。

 「ランドルーは、ぼくは魔女に会った、そういったわ」

続く。

vermilion

vermilion::FAQを充実させたいので、ぜひ、疑問、質問だけでもいいので、もちろん、自分なりの回答もふくめ、書き込んでみてください。お願いします。

あと、どこかでvermilionという語をver.millionと解釈してくださった方がいて面白かったです。たしかに、無数のヴァージョンというのはいいなあと。

ちなみにぼくが思いついた理由は、

1 フロートテンプルの朱塔玉座。いや、わからなくていいです。

2 バラードのバーミリオン・サンズ。

3 バミリオン・プレジャー・ナイト

くらいだったとおもいます。

キーワード日本人 04:11

のことで、id:yhleeさんが突出して際立ってしまう、それもクレーマーまがいに誤って理解されて、ということに、問題の質を感じる。実際に経緯を見れば、よんひゃんさんは、少なくともいちばん多くコメントでの議論に参加した人ではないし、編集を何度もした人でもない。なぜ代表視されてしまうのか。変である。

ちなみに、よんひゃんさんがされた編集の方針は、国籍による定義を本来のものとする、ということだった。

考えてみれば、日本人という言葉があいまいで、それゆえに軋轢をうむのは、意識的理解と、暗黙の理解との間に断層があるからだ。日本人というのは、日本という国のメンバー、つまり日本国民のことだ、とひとはいいうる。これは意識、建前で、これをつきつめると、日本国籍をもつものという定義になる。

だが、他方で、現実にイメージし、想定している対象は決して、日本国籍をもつものという範囲とはけっしてかさならない。それはむしろ、人種主義的で、民族中心の範疇だ。文化的で、人種主義的な同胞意識が問題になる。

つまりこういうことだ。概念の内包、意味としては、国籍ということが言われ、そのように主張される。他方で、概念の現実的対象、集合のメンバー、すなわち「外延」は、そうではない。そしてこの二重性こそが、マイノリティを暗黙のうちに、感覚的に、排除する根拠になってきている。

都合のいいように、状況状況で、一方から他方へと移るわけである。

この無意識の使い分けこそが、問題の源泉なのだと思う。だから、よんひゃんさんが国籍中心の定義を提案するとき、そこには、建前でそういうふうにいうなら、実際の用法も、そのように使用すべきだ、というのがあったのではないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/yhvh/20030501#p10

そんなひとがいるとは存じ上げませんでした。アドレスも張っていただけると確かめられるのですが、そういうわけには行かないのでしょうか。

追記。この件は落着した。http://d.hatena.ne.jp/yhlee/20030504#p1


Comments(in hatena)