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Drifting Antigone Frontline

2003/05/09 00:00 JST

rss生成CGI 02:02

えー、修正があります。

すでにもっておられる方は

$description = $description . ” “;

の下に

$description =~ s/&/&/g;

の行を足してください。

&が素で現れるとエラーになります。

あるいは新しいやつを落としてください。

不手際をお詫びします。

http://jouno.s11.xrea.com/makerss.zip

identity/traceability  05:50

このセクション、わかりやすさを考慮してません。メモとして。というか哲学的なことを厳密にじゃなく読むのが苦痛じゃないひとでないとつらいかも。まとまってないし適当だし。

http://d.hatena.ne.jp/nobody/20030508#1052321711

http://d.hatena.ne.jp/cider_kondo/20030507#p2

http://d.hatena.ne.jp/nazoking/20030504#1051985612

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20030503

http://www.mayq.net/junky00.html

このへん、おもしろい話題がゆるーく関係しているような気がする。つまり物事のアイデンティティという事柄だ。哲学的にいえば同定するという概念の意味が問われているんだと思う。(注意! 同一性というべきかも。同定とは定めることだが、変化の前提としての同一性は定めることではない。いわば、推移のためのスプリングボードだ。)そしてそのことが、記述的な極と規範的な極に分裂しているような気もして、そこにネットワークということが絡んでくると、もうなにがなんだか。

わたしがわたしとして同定されるのは、わたしの移動も含めた変化の連続的推移が追跡可能だからだ。RFIDなんかも結局そこに関係してくるんだと思う。

いいかえれば、推移的に追跡可能な、ある範囲で閉じた領域がかりにわたしなんだろう。だから、この推移的追跡をふりきってしまえば、わたしはもはや私でなくなることができる。あるいは、この推移的に追跡される領域を閉じる必然性がなくなる。

 「あとをくらませ!」ベルトルト・ブレヒト

 こういうことと、規範的な同一律、わたしは、……だ、という言い方はどういう関係があるんだろう。わたしは、一方では推移性、追跡可能性によって同定される。他方で、わたしは、反復によって同定される。

 規範的言明。定義。それは反復である。そう書き付けてみよう。(ただちに反論のこだまがきそうだが、いまだその準備はない)

 わたしは記号において「同一」であり、実態において「同じ」である。ここで「同一」と「同じ」を区別する。同一とはひとつのものが自身に等しいことをさす。同じとは二つものが同じであることだ。同一性は差異を前提にしないが、同じは際を前提にする。すくなくとも、ふたつは別の実体でなくてはならないから。

 定義における記号の過剰。すなわち同一の内包から複数の記号。(定義項と被定義項)

 しかしひとたび定義が現動化されると、今度は意味の過剰が出現する。

 すなわち、ひとつの記号列が複数の意味を産出する。(解釈の争い) 

 同一と同じは、たとえば名札とそれをつけているひとの関係に似ている。タグは同一である必要がある。追跡可能性ということ。

 言葉の意味は、二つの仕方で産出される。

 1 推移的追跡可能性によって。記号の同一性による意味の差異的同定。

 2 定義という記号列の反復。反復による多義性。

 結局、わたしはネットワークの中での用法や位置なのだろうか。それとも、つねに一定のみずからつくりだす記号へと反復する差異への反復者なのだろうか。

 同定するということは、その意味を限定し、それを支配し、安心するためのものでもある。だが、キルケゴールが書いたように、未来への反復というものがある。わたしはみずからをある、いまだ規定され尽くしていない潜在性とかさなりあう記号へとみずからを同定することで、差異へと反復する。

 ある言葉を

 1 その用法の集合へのポインターによって規定するとき、わたしたちはある含意にすでに引き裂かれている。

 1 1 なぜなら、そのような用法の集合は、静的に集積されているのではない。そのようなさまざまな用法を産出する力の場の効果、そうしたせめぎあいの化石なのだ。だから、むしろ集合への参照によって規定するとき、その潜在性も導入される、というべきだろう。そしてその力の場はふたたび語を分裂させようとする。

 2 その同意された伝来の定義、記号列によって規定するとき、わたしたちはやはりある矛盾へと差し出される。

 2 1 なぜなら、記号は自らの解釈をみずから指定することはできないからだ。古典的定義は、その定義をどう解釈すべきかということを指定しない。ゆえに、古典的定義はつねに現代的に解釈されざるを得ない。では、この解釈はどこから到来するのだろうか。わたしたちはふたたび現代的解釈という行為の本質、すなわち、反復へとつれもどされる。つまりここでは同一の記号に帰属する差異をはらんだ「同じもの」つまり異なる内包が問題になるからだ。ここでひとは推移的、追跡可能性に出会う。

 簡潔に、なるべく論争を排除するために最低限の定義にかぎろうという行為もまた無数の矛盾へとみずからを切り裂く。なぜなら、一般に、限定が少ないほど、物事は多義的になるからだ。また、簡潔な同定命題はすでに述べた矛盾をより深刻化させる。そのふたつの言葉が等しいとひとは定義において語る。しかし、等しくないからこそ、二つの言葉が存在し、その効果も異なる。ということは、定義の真の意味は、言葉を説明することではなく、支配、被支配の関係を打ち立てること、支配と隷属の弁証法にほかならない。誰が「主語」になる権力、権利をもつか、そしてそれは確実に暴力へと関係するのだ。

 考えるべきは反復と連鎖の関係のはず。ネットワークとアイデンティティはどのようにして関係し、あるいは「無関係=する」のか。

 そうか。反復とはネットワークにおいて、pingがぐるぐるめぐった挙句、戻ってくるということ? 循環、永遠回帰?

 定義の多様性。見えてきたひとつのメタファー。

 わたしはあるいは主語は、あるいは単語は、ネットワークへみずからの無数の影、分身、構成要素、あるいは断片、端的にいってpingを飛ばす。それらは回帰する。ここに規範的な同一性の側面がある。しかし、これらのpingは無数のネットワークを無数の経路でたどって回帰するので、その回帰の周期は必然的にずれ、多様化し、あるいはパケットは失われ、あるいは他のパケットがまぎれこむ。

 こうして、回帰は回帰でありながら、その複数の周期こそが、わたしを、主語を、単語をずれさせ、推移させ、反復へとひらく。


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