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Drifting Antigone Frontline

2003/05/12 00:00 JST

はてな質問 javascript 02:12

http://www.hatena.ne.jp/1052647075

おしえてください。

kajiさんをふたたび宣伝(プロパガンダ)してみる 00:32

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/3102/txts.htm

微妙にテンションが落ち気味なのでゆっくりと。

かじさんの作品はとりあえず有料でないことに感謝せねばならない。

ここには、うつくしい夜と吐息と花がある。

あとは、云うまでもない。それだけいえば十分だ。

さあ、読みたまえ!

 物語論のためのメモ 00:32

 物語のはじめにあるのは欠如ではない。過剰である。不可視にされた潜勢だ。

 いわば宙吊りにされたアンバランス、歪められ、引き絞られた弓、それゆえに現勢としては絶対的な静止。これを、漱石に倣って、端粛と呼ぼう。(「草枕」)それは語られない。むしろ隠蔽される。あたかも、物語は外来者や超越者や偶然といった、系に対して外的な要因によって開始するがごとく。しかしハムレットの冒頭にあるのは、幽霊という超越でも父の欠如でもなく、ある政治的で心理的な過剰なのである。この過剰こそが、遡行的に欠如を想像しつづける。

 物語の語りの冒頭は絶対的な反復の参照点である。物語は複数のキャラクターをさす名詞を基準にした周期からなる複数の反復体だ。この無数の回帰により物語りは構成される。そしてある周期はその周期を終える前に別の周期を平行して起動する。この複数のスレッドの連鎖の参照点が語りの冒頭なのだ。したがって、ある意味で、それは語りが持続する限り、つねに参照点として現前している。

 規範としての物語は欠如と回復、対立と和解のシェーマによって物語を取り締まる。抑圧的なこのコードの専制に対して、ものがたりてきなるものは反逆的で遊星的である。欠如と回復の対に対しては過剰が、対立と和解の対に対しては交雑がさしむけられる。コードを反復したいという規範的物語の欲望だけを語ることには意味がない。物語規範によって統御されようとしながらのがれる物語的な欲望とは、この反復をより過剰に現働化するからだ。物語的な反復の欲望とは、過剰応用の欲望である。本来想定されていなかったものまでも反復の対象にすることで原型を遡行的に改変する、そのような未来への反復こそがものがたりてきなのだ。

 物語とは連続性と連鎖性を反復することでうちたてつつ豹変させる。それは豊饒を意図するのだが、他方で閉じようとする円環もかかえこむ。かたることは説明することではなく、また図式に押し込めるとでもなく、参照空間へとひらくことだ。ある事柄が、かつておきた事柄への反復として位置付けられたとき、何が起こるのか。

 物語は複数のリズムからなるが、根源的なリズムがあるわけではなく、複数のリズムの共鳴があるだけだ。あるリズムから別のリズムへと流出する記号のうつくしさ。

資本論と物語論。

大雑把な類似を描くことは出来ないわけではない。

 生産領域 作家論

 分配領域 作品論

 交換領域 テキスト論

 消費領域 読者論

 このように考えると、ある意味で、俗流化したテキスト論、意味相対主義が自由主義経済とある類縁性をもつことはかなり確実だということがわかる。

 もちろん、上記の対応は完全に間違った対応であって、主体を前提にしない形で再配分されなければならないが、つまり左辺を右辺によって理解するのではなく、左辺によって右辺を理解しなおすものでなければならない。


Comments(in hatena)

mkomiya『試してはいないですが、window.location.replace(URL)だとobject参照できませんかねえ?』