■ 所有とWIKI
http://sheepman.parfait.ne.jp/wiki/Wiki%A4%C8%BD%F0%CC%BE/
最近、人類学の「交易する人間」今村仁司を読んだので、そのことで少し考えたこと。といっても、議論に参加するわけではなく、所有ということについてのメモ。
ひとは二種類の所有感情をアルカイックな社会では抱いている。
1 まず、自分はある全体、共同体、あるいは超越的な存在に帰属し、所有されているという感情、信念。これは自分がすでに気がついたら他なるものによって存在を一方的に贈与され、他なるものによってつくりあげられているという事態に由来し、共同体的所有を基礎付ける。それゆえにこの負い目感情から贈与の返報をすることによって逃れようという意志が働く。ボランティアや貴族の義務といった観念はここに由来する。実際宝くじにあたったひとがまわりにおごるのも同様である。
2 また同時に人は、自分の所有物は、自分に人格的に帰属していると考える。それは自己の何か霊的で本質的、精神的で超越的な、なにかかけがえのない一部を含んでいる。そのため、前近代的社会では、すべての事物に「本来の」所有者がおり、譲渡や贈与はあくまでも一時的なもので、本来的には必ず、その本来の所有者の下に回帰すると観念され、また実際にしばしばそうなる。(日本史においては、徳政令において、抵当に入った土地が返却されるのもこの機制である)
この二つの観念は近代以前においては矛盾しません。私は神的なものに所有され、それによって一方的に贈与された存在という借りを負っているものとして、自分のものと人格的で親密な絆を持つわけです。
気前のい豊穣な自然から贈与された素材、あるいは贈与としての自然を、ひとはかかわることで自分と何か人格的できりはなしがたい絆を持つものに変えます。この二重の絆こそ、所有の観念の錯綜の原点である、と人類学的な立場からは言えるようなのです。
これについては私にとって私であることの二重性を考えます。私が存在することはそれ自体としては偶然にすぎない。しかし、私にとっては私が存在することは必然だ。また、私が私であることは必然なのか偶然なのか。
レガシーとしてのものだけではなく、わたしの作り出すものは、すべて、わたしの他者たちとのかかわりでうみだされたものです。つまり、それは無名の他者たちからわたしに恩寵のような贈与として与えられた。それは名前をもつ特定の他者というよりも、他者たちとのかかわりという事実そのものの贈与です。そのことにわたしは借りを負っており、その返礼としてふたたび別の他者へおなじような贈与を行う。
だが同時にわたしはそのようなかかわりの中でうみだされた「わたし」を部分的に作品として他者に贈与することで、自分のかけがえのない一部を失い、本質的に自己に属するものから切り離され、小さな死を経験する。その意味でこの経験は供犠といっていい。 だからその贈与はいつか返礼の連鎖の中で回帰すべきであり、本来的に帰属する場所へ戻ってくるべきだ。
この二種類の経験の統一が壊れて、円環は回帰せず、譲渡は単なる、そして後戻りのできない移動となって、自然や世界、歴史、伝統はおおいなる贈与者ではなくたんなる操作対象、死んだ素材になってしまったことが、この二つの態度に亀裂がひらき、対立が必然になってしまいがちな理由のような気がします。
■ rss for textan
http://jouno.s11.xrea.com:8080/b2/index.php?p=236&more=1&c=1&tb=1
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■ タバコ、高校生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030515-00000151-mai-soci
小学生からじゃないと間に合わないみたいです。
■ カルヴィーノとか
http://bm.que.ne.jp/text/?200305b#200305141
すごいぞ河出!
■ アリストテレス この項いろいろ訂正あり。
ARISTOTELISがあってARISTOTELESがない。
たいへん、気になる。たとえば大学生なんかのページで哲学者の名前や概念がどんどん英語で出てきたりするのは、英語の本を読んでいるところなんだろうからいいんだけど(もっともそういう場合でも漢字の読みみたいに、これはたとえばヴェルギリウスの英語読みだ、とかそういう意識があったほうがいいと思うけど)、日本語の文脈で英語読みだとどうかとおもったりする。ヴァージルとか、シーザーとか(これは定着しちゃったけど)
ほんらい、この哲学者の名前はこうだ。
Αριστοτελησ
で、標準的なアルファベットへの翻字では
http://www.ritsumei.ac.jp/www-lib/runners3/transtabl.htm
Aristoteles
である。
ちなみに現代ギリシャ語ではaristotelisのほうが発音が近いみたいだけど、古典では違うだろう。英語では普通はaristotleだけども、おそらく(よくわからないのだが)これは英語のつづりなのだと思う。(訂正。違うらしい)
http://www.wikipedia.org/wiki/Aristotle
英語のつづりとして紹介されているならともかく、アリストテレスから飛ぶように指示されているのが、英語つづりというのは、なんか釈然としない。(注。どうやらおそらくだけどラテン語のようだ)
(追記。英語うんぬんの話とaristotelisのキーワードの綴りの話はあまり関係ない事情らしい。ただ論旨自体にはさほど影響しないのでそのままにしておく。一般的な綴りのほうがいい、という話である。ただ例の選び方はまずかった。反省)
この場合に限らず、歴史人名とか概念とかで、その必要がないのに英語を使われると、けっこう途方にくれる。チャールズ大帝とかいわれると、誰ですか、それは、と言いたくなる。国名についても(キーワードもだけど)なぜか外務省のサイトは英語表記だったりするのだが、哲学の項にphilosophyと書く必要は特にないと思うし。とくにその英語の単語からの翻訳でほかの言語に対応語がない場合はともかく。
まあ、ほかはともかく、やっぱり気になるのは歴史人名。ひとむかしまえはほんとうにぜんぶ英語読みだった。勘弁してほしい。
別に現地音主義が万能とは言わないけれど、英語表記をとくに足す理由もわからない。普通は、そういう注記をする場合は、それが本来の名前、翻訳の元の語ですよ、という意味だろう。そういう意味で、英語の単語を紹介するのはあきらかに変だと思う。
Comments(in hatena)
tomoya『アリストテレスに関しては、さいとうさんが初めてはてなダイアリーを書いたときに試しに登録されたもので、書名からきていますので特に深い意味はないと思われます。哲学に関わる方なので、さいとうさんの本家のサイトも実に見ごたえがありますよ。http://www.onyx.dti.ne.jp/~saitone/platonism.htm』
jouno『いや、それはそれでいいんですよ。aristotelesもあったほうがいいだろうし、アリストテレスから誘導するならそっちのほうがいいだろうということです。意図とか、語の登録そのものがどうこうという話じゃないので。』
tomoya『そうですね。根本的な主題は別の話しですね。僕も人名の無意味な英語表記は好まないのですが(単純に日本語として文脈にあっていないと思われるし)たまに発音の関係上複数の表記が用いられる人名は悩みの種で、そのときは英語表記を付け加えたりします。』
jouno『翻訳語の場合、もとの単語は何かというのは実は結構微妙な問題ですね。実際の経緯としては英語経由の場合もあるけど、じゃあ、その単語のもとの単語は英語といってよいかとか。基本的には、複数併記が正しいんだと思います。減らすよりは増やす方向で。』
jouno『たとえば、共和国という語はほんらいはres publicaですが、この場合はそこまでさかのぼるのは変です。じゃあ、republicの訳語かというと、別にほかの西欧語の対応する語でも日本語との関係で言えば対等なわけで、とくに英語である必要はない。もちろん、単に例示としてなら英語でもいいわけですが。ただ人名はやはり気になります。』
jouno『歴史的経緯でいえば、実際英語経由が多いんですけどね。』
じょうの『あーあと補足しておくと、英語の単語の英語表記がどうこうという話ではなく、英語というわけではない西欧語の英語表記という話です。』