■ メアリージェーンの続き
http://www.moodindigo.org/blog/archives/000063.html
いちおう、続きというか訂正を。大麻を解禁したいという趣旨ではなくて、所持だけで厳罰に処するのはどうか、という議論なら、十分にまともな検討に値する話で、暴論とはいえない、ということです。もっともまえに書いた文章の本筋は法律だからだめなんだという連中のだめさを言いたかったので、こちらの論点は言及しただけなんですが、西海岸ヒッピー的な大麻礼賛に同調しているわけではないので念のため。社会的な場所での使用はある程度の規制があって当然だと思います。あと、身体的依存がないにせよ心理的依存の問題はどうか、というのを調べたかったのですが、なんかうまく見つけられなかったので保留。検索ではやっぱり非犯罪化(単なる解禁ではなく)のひとの論説のほうが圧倒的に多く出てきます。まあ、わざわざ何か言おうと思う人は現状に批判的な人だということはあるでしょうが。
■ 以下、よそでの議論の続き。
■ http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/?date=20030518#p27
ですから、そのことには同意見なんですってば。ぼくは、どっちに書いたって同じで内容が問題だと思ってるんですって。同じだと思ってるからこそ、どちらに書くかまとめられないといってるんです。区別がないから書く場所が拡散してるんですよ。
トラックバックというのは、ひとつの話題を読者に明示するということと、書く時の便宜の問題なんです。で、コメントに書いたり日記に書いたり不便だということです。形式によって話題という観念的統一が存在したりしなくなったりするなんていってませんよ。
なぜコメントに書くかといえば言及を確実に相手に通知し、かつ読者にそれを明示するためです。しかし、ながい本格的な文章は日記に書いたほうがいい。その両方の必要のためにトラックバックを使いたい。そのための解決策なんです。では書いたよとメッセージを残せばいい、というのはまさにそのとおりで、だから、ぼくは、そういってるんですって。トラックバックという仕組みとコメントに書いたよってメッセージを書くのは、完全に同等で、それが自動化されてるだけの違いなんですってば。その自動化され、ひとつの仕組み、制度(トラックバックと呼ばれ了解されるということ)となってるっていうことをぼくは評価してるので、それ以外のことを言ってるわけではないんですよ。だから、トラックバック専用のコメント欄があって、みんなが言及したときそこに手動で言及通知をするという制度習慣がうまれたとしたら、わたしはそれをトラックバックと呼びます。わたしは技術的方法のレベルではなく、そういうレベルでトラックバックを認識しているんです。つまり、制度として、とらえているわけです。逆にいえば、トラックバックの実装を、まったくトラックバックを行う以外の目的で使用することは可能です。
■ http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/?date=20030518#p32
うえとつながることですが、データが意味を自称するというとき、意味していたのは、リンク文字列というデータにトラックバックという文字列があるために人間がそれをトラックバックとしてリンクとは区別して認識するという事実です。そのとき、わたしは見ている人がトラックバックという解釈制度の内部にいるとみなしていました。だから、その前提のもとでは解釈に自由度はありません。確実に言及の通知と解釈されるわけです。これに対し、リンク元の場合は、そのような制度が存在しません。したがって、人間の解釈行為の自由と不確実性、あるいは人間による解釈の努力の必要があります。(これははたして言及の通知を意味しているのだろうか?)
ですから、データが意味を自称するのは、ページの閲覧者に対してです。自称するという言い方をしたのは、一定の規約のもとにあるばあい、それをトラックバックとして理解するかどうかに自由度はないからです。人間は、受動的に自称を受け取る客体です。ある解釈制度をうけいれているという前提のもとでは。自動処理というのは、送ったという事実が(ついでにいうとpingがおくるのはXMLじゃないです)、トラックバックとして理解されるように制度によって規定された文字列に変換される部分についてです。
データ自身は意味を自称しません。コンピュータは規約にしたがって解析します。そしておそらく表示もするでしょう。
しかし、最終的な解釈はその表示を見た人間が行います。トラックバックであるなら REFERRER とは違う方法でわざわざ送るのだから、より反応すべきものと考えるでしょう。
わたしはこれと違うことはいってません。ただ、解釈する人間は、そのトラックバックであるというなんらかの制度的に規定された指標に対して、その制度に規定された理解をすることを強いられるという意味で、(具体的にいえば、反応するかどうかではなく、トラックバックをされたと認識するということ)、データの側に主体をおいてかたることは正当である、とみなしたのです。
■ 思考
発散したままというか、ぼくは個別の突っ込まれたところに弁明しているつもりなので、それらを統合してひとつの対抗する中心的な主題があるわけではないんですけどね。勿論、トラックバックとコメント欄は違うという話は経緯としてあるんですけど、別にその話はもうぼくとしては終わってるんですよ。ぼくは、ぼくがどういう意味でそう言ったか、そしてそういう意味でいっていた以上、少なくともその批判はあたらない、という意味のことをいろいろな論点で言ってるだけで、もとの議論を進展させてるわけじゃないんですよ。なぜならトラックバックが、すくなくともリンク元にたいして一定の有用性を持っている、という意見が得られた段階で、別に僕はそれでかまわないので、あとは、その経緯で出てきた個別の論点について、ひととおり、そういう意味でいってたわけじゃないんですよ、というはなしをしてるんです。
それに、個々の話題に関心がもてなければ反応する義理もないわけですし。思考うんぬんの話にはわたしは、ちゃんと、ついでに、とか、趣味の問題、という言い方で、別の話題だし反応する必要もない、ということは明示しています。というか、あれはそういう言い方をした原因、動機の説明で、べつにそれをもって正当化しているわけではなく説明しただけです。「だから」趣味の問題って書いてるんですって。
■ うーむ
たとえば「送受信するデータが RFC822(メール)であってもかまわないのです。」にぼくはべつに反対じゃない。データは意味を自称しないというのは、厳密に言えばそれはそうです。記号は客体であり物でしかない。でも、その議論は、文脈をはなれて、その言葉遣いだけを取り出していると思う。たしかに、不用意に解釈されうる言い方ではあった。しかし、すでに書いたように、トラックバックのリンクは、読者にとって、リンク元の表示とは区別して言及の通知として読まれる。そしてそのように読むことを、記号そのものではないにせよ、トラックバックという制度が強要する。主体性はその記号の側にある。その事態をさして、自称する、という言い方をすることが不適切だとは思わない。また、そういう経験上の事態をさしていることは文脈的に不明確ではなかったと思う。たとえば、赤信号はわたしに通行を禁止する。たしかにこの言葉遣いはおかしい。だが、現実にわたしは赤信号をそのような意味以外に解釈する自由を持たない、この意味論的な場においてわたしは客体です。(実際に解釈行為をやっているのは確かに私ですが、わたしはそのような意識をもたない)経験的な実感のレベルでは、トラックバックの表示された文字列が、自分はトラックバックであると読者に自称するんです。そのような事態をさして、トラックバックが有用であるという議論の文脈で語られている以上、わたしはそのような意味でデータの性質について誤解をして、そういう言い方をしたわけではない、ということです。あくまでも、トラックバックのリンクは、それを見る人間に特定の意味、解釈を強要するという論点は動かない。もちろん、この言葉遣いは、より正確にいえば、トラックバックのリンクはどういう表示のされ方をして、そしてどういう場合に、どういう意味をこめて使われるものだ、ということに、制度的な理解が存在することを前提にして、その制度全体が強要するので、記号単体が強要するわけではないから厳密にはまちがっている。しかし、その差異はこのさい、文脈から敷衍可能だし、問題にしていた論点にとっては無関係でした。わたしは文脈からはなれて、データは意味を自称するというテーゼを無限定にのべたわけではなかったはずですし、そのことの是非そのものを論じる意志ももちません。わたしは、あくまでも、そういう言い方で、特定の事態を言い表したのだったからです。
■
より正確にいうと、確かに私は二つの段階について両方ともデータが意味を自称すると述べていた。しかし、CGIに対して、pingが意味を自称するというとき、それはそれがpingとしてリファラとは別のものとしてあつかわれる、自動認識される、別物として処理される、という事態をさした。これは、データが解析されて分類されるというだけだ。しかしこの点に関しては、わたしは、機械による解析行為を、解釈に含める広い意味で解釈という言葉を使ったと述べた。したがって、私がここで弁明したく思っているのは、機械が実際に人間的な意味で意味を理解しているとわたしが誤解したがゆえにそのように語った、という理解にたいして、違う、ということだけである。
そのような解釈という言葉の使用の適切性に関しては、そもそも普通に自動認識というような用法がある、ということがひとつ、それから、データを分析する場合に送信側が受信側の解析方法を理解して、ただしく解析されるようにコード化して送る場合と、送信側は受信されることを想定せず、受信側が一方的に捕捉している場合(リンク元)との違いを明確にするには
(POSTのpingのルールのレベルではすべてのPOSTアクセスがそうなのでこの区別は無意味ですが、POSTのルールにのっとったうえで、たとえばblognameという変数を用いるとか、urlの末尾に記事idの数字をつけるとか、そういう上位の、あるいは特定のルールがさらに上層にある。このルールが存在しない通信を想像した場合、受信側はさまざまなの情報記述の可能性を考慮して、複雑な解析ルーチンを組む必要がある)、
データが「整形」されていることを意味が記述されていると表現することは有益だと考えた、ことがある。
つぎにそうして処理されて文字列となったリンクが閲覧者に対して意味を訴える場面については、すでに述べた。
Comments(in hatena)