■ 利益という言葉
http://d.hatena.ne.jp/kouda_dc/20030601#p2
直接関係するかどうかわからにゃいのですが、道徳的な問題での功利主義的な合理化の文脈(漢字多い)にはいつも違和感があって、そこにニーチェ的な議論が関係してくるとちょっと、と立ち止まってしまう。
功利主義的な道徳や倫理の基礎付けにぼくが引っかかるのは、「利益」というそれこそ非常に不可解な概念を前提におくからなのだと思う。ベンサムのような俗人はともかくとしても、利益という言葉は、社会的になにが欲望されるか、されるべきか、ということへの規範的含意がある。「利益」とは、欲望されるべき、されるはずのものごとという社会規範の概念なのではないか。
利益は合理主義的な目的意識と、個人的欲望とがまじりあった概念で、このうえなく、ブルジョワな感じがする。つまり、十九世紀的な世俗の実際家。それは利益という概念が、欲望の軽量可能性という不可思議な含意をもつこととも関係すると思う。最大化ということが何を意味するのか、じつは明確ではないのだ。
それが選択の連鎖を通じてあらわれる近代経済学的な限界効用を意味するとして(つまり、選択の集積から、欲望の強度を虚構的に「構成する」こと)、実際には、個々の選択は個々の理由によってなされるのだから、そうした加法には無理がある。
で、本題に無理につなげると、わたしの倫理の基礎付けにわたしの利益をもちだすことで、じつは、わたしの欲望や意志ということが隠されてしまうのではないか。利益の背後には欲望があり、それは愛の欲望だったり破滅の欲望だったりする。
殺人が自分にとって利益ならコスト配慮をした上でそうすべきだというのはニーチェ的な議論のようで、じつはそうではないので、ニーチェはそうすることでしか、自己を、そして自己の欲望を肯定できないならそうすべきという議論をした上で、しかし殺人によってしか肯定できない欲望はないという含意を残している。(それが誰かの言う「殺すことはない」だとおもう)
ひとはみずからの利益については知っている、あるいは知っていると思う(なぜなら本質的に利益は一般観念であり、他者によって、社会的に決定されるものだから)、しかし、自分がなにを本当は欲望しているのかを知らない。そしてそのことこそ、倫理にとっては重要なのだと思う。
■ vermilion
新規参入が。
まだ完結してないみたいなので感想は後ほど。
いつでもあたらしい書き手をお待ちしています。
あと、読んでくれる人は確実に多いと思います。
■ イスラエル
http://d.hatena.ne.jp/spacelab/
http://d.hatena.ne.jp/cider_kondo/
いつのまにか面白い話に。
ぼくは細かい話にはたちいらないけれども、問題状況の存在そのものが知られることは決定的に重要だと思う。その意味で、単なる辞書的定義以上に、キーワードに、そういう資料へのリンクが張られ、入り口として機能することは期待されていい。
イスラエルはたしかに不正を行っており、そのことが反テロという名目の中でかき消される傾向がある。デイビッド・グロスマンなどのイスラエルの中のさまざまな多様な声も存在するわけだし、問題は複雑だが、基本的には、イスラエルの不正についての記述は、イスラエルのごく穏当な記述と併記されるだけの価値があるだろう。(その意味で私は現在の記述は、ちょっと辞書的過ぎると思う)もちろん、そこには、イスラエル世俗右派やネオコン的な立場からの記述も追加されていい。(本当は、もっとつっこんで、イスラエルの存在を認めないイスラエルの宗教右派という立場の記述もあるともっと面白いけど)
そこに葛藤があることを知ることは、どの立場を選択するか以前に、ともかく必要なことだ。どちらの陣営であれ、成功した不正は、葛藤の存在そのものを隠蔽する傾向にあるのだから。
わたしたちは歴史的出来事に対するような中立的な場にいるわけではなく、つねに巻き込まれている。
キーワードのはなしを別にしていえば、最近のシャロンの政策はどう考えても異常で、防衛的反応こそが暴虐に直結するのだということを明確に示しているけれども、その野蛮の報道はあまりにも少ない。それに対してパレスチナの自爆テロは比較的大げさに取り上げられる。たしかに殺される人間には殺す人間にやむをえない事情や理想があるかなどどうでもいいことだ。しかし、戦車で一般市民の居住区を蹂躙し、日常的に封鎖を行う軍隊と、それに対抗する過激派のテロルを同列に論じるのはあきらかにバランスを失している。
おもに王制の湾岸アラブ諸国は建前としてはイスラエルを非難せざるを得ないが、それらが、アメリカの支援を大前提にして、それぬきには存続し得ない世俗の腐敗した非民主的体制である限りで、実際にはイスラエルの生存を脅かすような意図も動機もない。(皮肉なことに、アラブが民主化され、真に民衆に基盤を持った政府がアラブ諸国で成立すれば、短期的にはイスラエルの生存はおびやかされるかもしれない。)エジプトやイラクもその点では同様だろう。だから、実際にはパレスチナ問題をイスラエル対アラブ諸国という枠組みで考えるのは正しくない。アラブ諸国民とイスラエルの間に対立があり、それがイスラム系の非政府組織を通じて現実化しているので、事実問題としてイスラエルの生存が危機に瀕しているかといえば答えには否定的だと思う。
勿論、すでに建国されてこれだけの年月が経って、イスラエルの存在そのものをどうこうすべきという議論はまちがっているが、イスラエルの建国そのものは根拠のない行為で、不正であった、ということは確認しておくべきだと思う。(無論、反対の意見も参照してほしい。エクソダス号事件とか、ホロコーストとか)そのことへの理解を抜きにすると、パレスチナ問題は単なる宗教対立に見えてしまう。
Comments(in hatena)
滅・こぉる『「利益」のかわりに「幸福」に基づく功利主義はどうなるでしょうか?』