■ カテゴリー
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20030604#1054651969
ぼくもキーワードのカテゴライズとか分類は意味がないと思ってるのですが(キーワードツリーをたどってキーワードは読まれるのではなく、自動リンクによって通例読まれるものなので。そもそもぼくには以前も書いたけれど、キーワードツリーが存在する場合の用途がわからない)、この提案、単純に誰もやらないでしょう。分類のための分類をしたいと思ってる人はいないわけで、あくまでも、どうせ分類するならこっちが正しいだろう、というふうにモチベーションが成立しているんですから。それに、そういうキーワード分類表は、書く側にもしあったとしても、見る側に需要がない。
ただ、キーワードの説明文はぼくは有用だと思ってます。そこそこ知っている単語が自動リンクされて見に行ってみると、知らなかったこと、おもしろそうな情報へのリンクがあった、という事態は有用だからです。その意味で、説明文は定義ではなく、知識への入り口として機能すべきだろうと。
(なので、端的で中立的な定義だけがぽつんと一行書いてあるのは好ましくないと思う。もっと雑学的であっていい。そのうえで、あまりに個人的な定義であってはならない)
逆にいえば、べつに調べようと思わなかった単語のことを、キーワードリンクされてたまたまのぞいてみた事柄をきっかけに興味を持って検索してみる、というようなことは起こるわけで、また、説明を要する語の注釈をいちいち文中で書かなくていい、という場合もメリットです。
でもたしかに、ツリーを存在させる、あるいはツリーが存在しているという状態を踏まえた上でなら、それ自体はキーワードではない、カテゴリーというものをつくるのが解決法のような気はします。集合論で言うなら、カテゴリーがキーワードと同列の存在論的地位を持ってるのはおかしいわけで、あの犬やこの犬ではない犬一般というものがあの犬やこの犬の存在と同じ意味で存在しているかのごとくだし。(その意味では、これは唯名論ではなく実在論なのだな。)
でも根本的にはぼくはシステムからキーワードツリーをなくして、それぞれのキーワードの属性として「関連キーワード」というのをつくるのがいいんじゃないかとおもう。要は関連キーワードへの移動を支援することだけなので。
あるいはツリーを残しても、複数ツリーに帰属できればすむことではなかろうか。そっちのほうがすっきりしてるとおもう。
あ、やっとyms-zunさんの提案の趣旨がわかった。
多重カテゴリー帰属を実行しようということか。
しかしちょっと説明が不足していると思う。
1 分類用のキーワードをはてなダイアリークラブに作る。
2 そのキーワードに帰属させたいキーワードの説明文中にそのキーワードを書く。
3 「を含むキーワード」捕捉機能によって、その(最初に作ったクラブの)キーワードの下には(そのキーワードを説明文に記入した)リストができる。
と、いうことか。
シンプルに表現すれば「ツリー機能を『を含むキーワード』機能で代行する」。
或る程度はvermilionでやってたりする手ではないか。
じゃあ、単純にクラブのキーワードには識別子をつけるというルールに従って、カテゴリーというクラブを作って、たとえば人間カテゴリーは、「カテゴリー::人間」というキーワードを作り、この語を帰属させたい語に書けばいいわけだ。
この場合、システム的に用意されているツリーと違うのは、多重帰属が可能ということ。
ひとつ問題があるとすれば、システム的に現にキーワードツリーがあるということで、これがなくなれば、このやりかたは面白い。あるいは既存のツリーを全部わやにして、システム的に用意されているツリーは「ないものと考える」というようなことが必要だろうと思うけど。
なぜなら、公式なものがどうあるべきかということが葛藤をもたらすのだから、代案を用意しても公式なものが存在している限りは問題は依然として残る。
だからやはり、キーワードが、複数のツリー上の位置に存在できるようにシステム的に変更するのが一番なんだろうと思います。
つまり、「まれに」と文言に書いてあっても、現にほとんどのキーワードがツリー上に分類されている事態を見たとき、そのインパクトは無視できないし、そうした感覚を前提にすると、「あえて分類する」意識というより、すでに分類されてしまっているものを「こっちのほうが適切だろう」というふうに動かす意識というのは避けられないように思います。と、ともに、視覚的なイメージとして、同一キーワードの下にあまりにたくさんのキーワードが並んでいるのは、見苦しく感じてしまう、というのもおそらくはあるでしょう。
■ 大量破壊兵器
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030603-00000057-mai-int
http://www5.big.or.jp/~hellcat/news/
結局見つからないらしい。
ラムズフェルドは戦争前に破壊されていたかもと言い出している。
情報機関が意図的に大量破壊兵器の存在を示唆するように情報操作した疑惑が色濃く出てきている。
これが戦争の主要な理由として主張されたことを想起しよう。
■ 幸福論
V 幸福
幸福は厩の中にゐる
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。
頑なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。
幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。
頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意気銷沈して、怒りやすく、
人に嫌はれて、自らも悲しい。
されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!
中原中也から。
幸福は状態を表す。幸福の実現を基準とする倫理を考えてみる。まず、ただちに実践的な困難を思いつく。ある行為が幸福を実現するのに寄与したかどうかの貢献度の判断は、なされうるだろうか? これは結果を基準とする倫理一般にあてはまる困難だ。また結果に依存する倫理は、当然、ある行為が、遡及的に善になったり悪になったりすることを受け入れなければならない。結果基準の倫理においては、行為はなされた瞬間は善でも悪でもない。
勿論、この困難を回避するために、主意主義的に、「幸福の実現を意図して行われる行為かどうか」を基準にする手もある。しかしここで「幸福」という言葉の多義性が問題になる。幸福は主観的経験の名だからである。幸福経験の客観的測定基準は存在可能だろうか。ここでも回避のために、「幸福であると行為者が考える状態を実現するためになると行為者が意図してなされたかどうか」を基準にすることもできる。しかし、この倫理、実に押し付けがましい。
幸福の最大化を目指す功利主義道徳というとき、実際の内容はいくつかバリエーションがありうる。そのうち、成立しないものもあるし、成立するものもある。しかし成立するものはかなりおしつけがましいものになって、成立するが支持したくない、というものになりがちだ。
そこで、ある行為がある他者の幸福な経験を実現するのに寄与するということが、確定しうる、という仮定を置いてみる。そこで、この行為を実行することを求める倫理、というのを想定する。さて、この倫理は、論理的に論点先取になることを回避しているか、実践的に擁護したいようなものか、という二種類の問いが現れる。
第一の批判としては、幸福な状態を実現することを選択する行為は、それ自体、非功利主義的な倫理的判断ではないのか、という批判は可能だ。つまり、幸福をよいことだと考えるから、幸福が基準になるのだろうというわけである。功利主義には、非功利主義的な前提的な倫理判断があるのではないか、と問いうる。これに対して、もちろんそうだが、あらゆる倫理は無限後退を避けるためにはそのような無前提の決定を必要とするのであり、功利主義に限らない、と答えうる。
したがって、この批判は、功利主義道徳、という概念が、道徳は、非倫理的な欲求や快楽などによって根拠づけられるという想定への批判となる。この特定の倫理への批判にはならないけど。もっとも、この特定の場合には、自分の幸福か、他者の幸福かでまた違うけど。
善美を同一視する根拠自体はなお問われうるわけである。
ではつぎに、この倫理は擁護したくなるようなものか。となれば、主観的経験としての「幸福」は、倫理的な目的とする状態と一致するか、ということをあなたがどう選択するかにかかっている。
逆に、幸福を客観的状態として定義した場合は、そこに、それこそが幸福なのだという倫理的判断があることは明らかだろう。
とりあえず、最低限いいうるのは、幸福やその他を基準にすることによって、倫理的判断の恣意性(というか、ある倫理を選択することの恣意性、あるいは無限後退を避けるための無前提の決断)を回避することはできない、ということであり、それこそが証明したいことであった。以上。
(だからといって倫理的相対主義に与する気はないので、そのへんはむずかしい。つまり、わたしがわたしであることにとっては所与であることを導入すれば、それを前提にしない純粋な可能性の次元での相対性は、絶対性や客観性を、その限定の範囲内では獲得する、とおもう。わたしにとってわたしが存在しないと、倫理的問題は存在しないので、その意味で、この限定は実践的に正当化されると思う。ただし、この限定をあまりに限定して解釈すると、共同体道徳規範の無批判な肯定になってしまう。このあたりはつめる必要があるところ)
■ 日記論ブログ論ウェブロ論……
blogをさもそれがひろまりさえすればばら色の未来みたいなことをいうビジネス方面の言説を批判するのにweb日記とか既存のコンテンツとの同質性を言うのはいいんだけど、それだけだと、少しもウェブサイトというものについての認識が広がらない。
blogふうのことが前から日本にあったとか、すでやってるとか、blogツールなしでもできるとか、blogにしてとくになにかいいことがあるのかとか、そういうことを大前提にした上で、狭義の特殊blog的な、サイトの内容ジャンルとしてのブログというのは、ジャンルとしておいていいだろうと思うわけです。
(もちろん、そこで、内容ジャンルとしてのblogというものをあたらしく立てる必然性はない、という議論をしてもいい。はたしてblogは存在するか?)
そういうふうに限定した上でなら、そこに対比的に、テキストサイトやweb日記をもってくることはカテゴリー・エラーにならないと思うんで、そういう用語の整理の上で、たとえばblogツールであるMTでweb日記を書く、というような語法が成り立つ。
で、blogと対比して言及するからなんだろうけど、ちょっと気になるのは、テキストサイトとweb日記の区別があいまいな感じがすること。テキストサイトというのは、たしかに、テキスト中心のサイト(画像に対比した場合の)のことをいう用法もあるけど、やっぱり基本的には、「読み物としての面白さを目的に、事実であることを前提にせずかかれたテキストを中心にするサイト」のことでしょう。つまり、ここでは狭義の「面白さ、エンターテイメント」が目標になってる。
そこでむかしエンターテイメントにからんで考えたことなのだけど、エンターテイメントの「面白さ」はテキストを読む動機という意味での「おもしろさ」一般と一致しないわけで、純文学だって、「面白い」から読むわけです。ひとの日記を読む場合でもそう。その辺の区別をしておかないといけないとおもう。
(このへん、基本的に日単位の更新のコンテンツのことをすべて日記と呼んできた歴史がたたっている気もする。)
て、書いてから、けっこうどうでもいいような気もしてきた。
分類学はむずかしくてめんどくさい。
■ vermilionキーワード
これはやっぱむずかしいですよね。
夢と希望と殺意の固まり
vermilion::夢と希望と殺意の固まり
作中で使っておられるので、リンクさせる場合、本当は単語そのままで登録したいというのはそうなんですが、残念ながらクラブのキーワードは識別子をつけなきゃいけないということになってます。(運営側の回答により)
参照。
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030423#p1
文中でキーワードを使う場合は、<a href=”keyword:vermilion::単語”>単語</a>という形でお願いします。
で、vermilionの当該項目にその旨明記しました。
■ 「バロン」を見た。
とてもよかった。
こういう現実離れにばかり惹かれるのは問題あるかもしれないけれど。
要するにラ・マンチャなかんじなのである。
それはそうと、ユマ・サーマンが美人で、ていうか、
サラ・ポリーがすげえかわいい。
その関連でアボンリーへの道というドラマがあることを知る。
見たい。
■
イカス。
Comments(in hatena)
yukatti『「アボンリーへの道」NHKの本放送で見てましたー。プリンス・エドワード島の魅力たっぷりの垂涎もの群像ドラマ。主人公のセーラ役で彼女は当時はセーラ・ポリーという表記だったので、なんか彼女自身と役が重なって見えてしまって。繊細なかわいらしさだったです。』
jouno『ますますよさげですね。そうか、NHKでやってたのかあ。』
achaco『[エンターテイメントの「面白さ」はテキストを読む動機という意味での「おもしろさ」一般と一致しない」なるほど。そこのところ最近煩悶してたのですが、多分自分が読む側の時はわかってるのに、書く側になるとどっかいっちゃっているのかも、と思いました。カテゴライズとか』