■ 経済メモ
#追記。
#合理的期待形成学派については、そこからひどい博士論文を書く亜流
#(教育の経済学とか恋愛の経済学とか)という話を読んだことがあったのと、
#(このへんもうそかもしれない。ちょっと典拠を見つけられなかった)
#その人間観があまりにもぼくの基本的な人間観と背馳するのでいんちきで
#かたづけていいように思ったのですが、経済学においてサプライサイド派が
#いる位置と合理的期待形成学派が存在している位置、評価はやはりかなり違う
#もので、意見が違うからといって非経済学呼ばわりは不適切だった思います。
#http://www.post1.com/home/hiyori13/krugman/krugre.html
#
恐慌 大恐慌 ケインズ政策 金本位制 インフレ デフレ フィスカル・ポリシー 有効需要 ポスト・ケインジアン
http://manabow.com/keizai.html
わからないことばかりです。
http://allabout.co.jp/finance/economyabc/subject/msub_def.htm
http://allabout.co.jp/career/economyabc/closeup/CU20020322A/index.htm
http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/kobayashi/05.html
クルーグマンへの批判らしい。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/2069/Krugman01.html
http://sheepman.parfait.ne.jp/wiki/%A5%A4%A5%F3%A5%D5%A5%EC%CC%DC%C9%B8/
http://member.nifty.ne.jp/bunten/intage.htm
ところで、竹中平蔵ってサイプライサイダーなんですか。
いくらぼくが経済音痴でもサプライサイド経済学
合理的期待形成学派(こっちはまだ経済学と呼んでもいいものみたいだけど)と
がいんちきだというのはわかるつもりなんですが。
ちょっとそれはやばいんじゃないでしょうか。
でも金子勝がマルクス経済学だということも知らなかったからなあ。
これも参照。クルーグマンの本の書評で、保守的経済学を批判。
http://www.ok-corp.co.jp/book5.html
ニュークラシカル派の論理
http://www.adpweb.com/eco/eco246.html
http://www.adpweb.com/eco/eco247.html
http://www.adpweb.com/eco/eco248.html
規制緩和で政府介入を止めて競争力のない企業は淘汰して起業とイノベーションに期待すればいいのだ、というのはやはりおかしい気がする。
どうなんだろう。
そのへんも勉強しないといけないのだが、構造改革って、本当に有効なんでしょうか。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/TEST06.HTML
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/HO123.HTML
■ テレ朝
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030702-00000008-sks-ent
広瀬社長も「訴訟は今後の推移次第」と慎重に話したが、「『Mステ』は国内では権威ある番組。外国アーティストに軽んじられるのは、テレ朝だけの問題ではない。いい加減な決着はいけない」と話しており、傷ついたプライドの回復は、法廷に持ち込まれそうな勢いも見せている。
娯楽や歌番組に権威とは何の話だ。契約違反ならその責任を問えばいい。
契約違反ではなくて、単なる権威や仁義の問題ならどうでもいいことだし、国内的な論理で文句をいうのは筋違いだろう。あくまで、番組内容を、出演を了解した時点できちんと向こうが了解していたか、もしも伝わっていなかったとして、その場合に降りる権利があったか、ということを問題にすべきじゃないのか。
■ FOAF占い語彙
id:kotastyleさんがつくっておられます。
http://kota.s12.xrea.com/vocab/uranai/start.xht
http://d.hatena.ne.jp/kotastyle/20030701
つかってみてはいかがでしょう。
ちなみにぼくはメルロ・ポンティでした。
哲学者占い。
http://www2.tky.3web.ne.jp/~bites/tetu/
そういえば、あの作品から想像される作者像っていったいどんな……
http://d.hatena.ne.jp/cc2/20030702#1057112414
あ、FOAFでおもったのですが、
これだと占いのたびにアドホックに追加しないといけないですよね、語彙を。
RDFわからないんであれなんですが、
<foaf:Fotune>
<foaf:fortune_name>哲学者占い</foaf:fortune_name>
<foaf:fortune_result>メルロ・ポンティ</foaf:fortune_result>
<foaf:fortune_resource=”http://www2.tky.3web.ne.jp/~bites/tetu/“/>
</foaf:Fortune>
文法的に多分へんなんだとおもうんですが、占い、判断名を指定できるようにするといいんじゃないでしょうか。
■ vermilion ノート
リライトしようと思っているけれども、とりあえずちょっとだけ、あそこで転調するのは、まともに書くと最低であの五倍から十倍の分量が要請されたからです。あと前半は説明不足が目立つ。地名はセオリアス以外はおぼえる必要なし。たんにぼくはバスチアンみたいな意味のないカタカナ語フェティシズムなのです。できれば名前は全部二行に渡るくらいがいいとかはうそですが、ファイブスターの作者とそこは感性近いところ。問題は覚えるべき名詞とそうでないのをそれとなくわからせる工夫だろう。それから、アルウェンが町を燃やしたところは本来は説明ではなく具象的に描写すべきところ。おそらくはカットバックで挿入がいいか。シュリアの名前の一致の部分を感動的に盛り上げれば、もうすこし結末での転調のごまかしが目立たないかもしれない。外壁までいってレンガを持ってきたということはもうすこしわかりやすく強調すべきか、それともわかるひとだけのサインにすべきか。タロットの制限はあるのだがやや対応が適当になった。カップのキングが俗物になってしまっているのは改良の余地あり。キアスの性格付けはあいまい。好奇心の契機をもうちょっと全面的に出していくべきか。シュリアが女性であることももうすこし明確に。あと姿かたちの描写も。年齢なんかもつたわってないっぽいっていうか描写してない。本来なら長編としてみれば川を渡ったあたりで1 死体など、アルウェンに自分がしてしまったことを具象的に理解させて衝撃を受けさせる 2 キアスに気楽な立場から出て、かれもまた罪をになうものとして、なにか後悔せずにはいられないようなことをさせる、3 本質的にアルウェンとキアスの思考パターンを批判するような立場、身分の人物を出して、かれらを成長させる 4 シュリアを彼女の立場から語る といったことをやらねばならないのだが、枚数かかりすぎる。そのうえ、地の果てを求めていく同行二人というイメージまで出してしまったから大変。もちろん、以上の構想だけではなく、アルウェンとキアスのあいだに亀裂を書くことも必要だろう。作者的な観点を離れて同情せず外在的に批評すれば構成がなっていない。逃亡が不必要になった段階でどうするか、ということが投げ出されて伏線がはりっぱなしになっている。要所を無意味な「見え」「意味ありげなせりふ」「内容のない伏線」で気分的にごまかしている。芝居じみたところを取り去れば古典的な悲劇にすぎない。主役二人の書き分けができていない。また、かれらの主観に寄り添っているのでごまかしてあるが、このふたりは単に無責任なのであって、行為の動機に説得力がない。そこで課題になってくるのは、三人の関係性をもうすこし煮詰めることだろう。
■ ぶんしょうのわかりやすさについて
http://bx.sakura.ne.jp/%7Ekyou/CGI/diary/log/wd200306.shtml#ad30
http://d.hatena.ne.jp/koseki/20030703
結論からいうと、
1 事柄そのものの複雑さをそこなうことなく正確に表現しようとすれば、読み手にとって難解になりうるけれども、これをわかりやすくすることはどうやっても事柄そのものの複雑さを損なう場合。
2 また、事柄そのものはもしかしたら簡単なのかもしれないが、そもそもその時点での一般の水準でも、まだそれが結論の出ていない問題であるがゆえに、書き手の努力によっても、明確に表現することができないが、さりとて議論自体しなければそれが明確になることもないだろうから議論しなければならない場合。
すくなくともそうした場合に、読者が難解さを書き手の怠惰に帰するのは間違いだし、その非難に乗じて「普及版」のわかりやすい言説を提示する人は不誠実といわれてもしかたがありません。
論理的な文章すなわちすでに理解していることを伝達する目的でかかれるものとは限らない。また一方で、「冷麺」でかかれているのは、事柄そのものの難解さのことであって、書き手がわかりやすく努力することは前提なのであり、そのうえでなお、わかりにくくならざるをえないことは確実に存在する。わかりにくさは、伝達の場面だけで介在するわけではないのです。
このふたつのことは、ひとつのことの別の二つの言い換えだということもできます。
つまり、私たちは、すでに、少なくとも一方が明確に理解していることだけを話し合うわけにはいかない、ということです。そもそも、明確に言語化しうる領域だけを話し合うわけにすらいかないのです。事柄そのものが難解さをどうしても要求することはあるのです。明確に理解していることを透明に伝達することだけを、たとえ論理的なルールの上での、知識の獲得を目的とした議論にかぎったとしても、話し合うことの領域として限定したとしたら、わたしたちの思想は、既知のなかだけで伝達を繰り返すだけで、創造的過程をもつことはできないでしょう。
言い換えれば、たとえ論理的な問題を論じるものであっても、それを宗教や文芸というものと、それほど明確に区別することはできない。逆にいえば、宗教や文学という言い方で切り出された「それ以外」という領域のことをきちんと考えれば、そこで難解さが存在している意味は、事柄そのものに内在しているのであって、「伝達技術、狭義のレトリック」だけにかぎった理由ではありません。特殊な関係を結ぶという言い方はきわめて難解ですが、レトリカルな問題を指していると受け取っておきます。
また別の観点から言えば、それぞれの場合に読者が難解さを批判していいかどうか、そもそもその難解さが努力によってどうにかなるようなものか、ということと、書き手が難解さを減らす努力をするべきかどうかということは別です。後者の努力義務は当然常にありますが、前者、難解さを書き手の責任に帰することが、つねに正当かどうかは、自明ではありません。
だから、ある文章の難解さが、書き手の怠惰のせいであるか、読み手の怠惰のせいであるか、それは、事柄に則して考えなければならないのだし、そして、その基準は、論理的な伝達目的の文章であるか、感性的なそれ以外の目的の、あるいは修辞的文章であるか、ということではありません。かかって、その基準は、その表現されようとしている事柄の、本質的ななかみの複雑さによります。
ついでに文芸のこととして言えば、文学は基本的には難解さを目指して書くことなどありえないと思います。正確に、その事柄を書くことを目指すがゆえに、普通にはない表現になるだけです。
真実は常に簡潔であり、つまり事柄そのものに難解さはなく、つねに難解さは伝達の場面で付随するものだ、というのは迷信であり、そういう迷信が、もちろん、難解なことは高尚であるという迷信と同じように、読みの怠惰をゆるしているということは、多いのではないでしょうか。
Comments(in hatena)
sheepman『合理的期待形成学派はインチキじゃないです。ルーカスはノーベル経済学賞も授賞しています。』
JAKE『いんちきではない証拠に権威を持ち出しては議論する資格を失いますよ>sheepmanさん』
sheepman『言っている意味が良く分かりません。ノーベル賞を授賞していることを例に挙げることによって、ノーベル賞を授賞する程度には合理的期待形成学派が経済学という学問でそれなりの位置を占めているという事実を示すことができていると思いますが。それにクルーグマンは「経済政策を売合り歩く人々」の中で理的期待形成学派を「サプライ・サイド学派」と一緒に批判するなんてことはしていない。「サプライ・サイド学派」は傍流に過ぎないとだけ言っている。保守派経済学が「サプライ・サイド学派」へと「展開」したとは書いていない。権威を持ち出しては議論すること、つまりソースを持ち出して議論することはどんどん推奨されるべきだと思います。必要なのは権威を持ち出さないことではなく、矛盾がある場合に権威に物おじせずに批判することだと僕は考えます。』
相一郎『「多くの人が、或いは権威がそれを認めている」ということと「そのことの真偽」は関係ないってことでしょ。「確からしい」という印象を与えるには足りますが。世界中の人がカソリックになれば法王の言葉が全て真理になるわけじゃなし。』