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Drifting Antigone Frontline

2003/07/04 00:00 JST

悪魔に関する短い報告 00:18

http://honyaku.naver.co.jp/ktj.cgi?css_url=http://www.zaca.net/board/board_read.php%3fno%3d10%26db%3dshot_novel

#なんか翻訳サイトがリファラーで制限してるっぽいのでhttp://honyaku.naver.co.jp/ からどうぞ。http://www.zaca.net/board/board_read.php%3fno%3d10%26db%3dshot_novel

ちょっとおもしろかった。星新一ふうだが、文体がけっこう緻密。

ていうかぱよっ子なので。 22:43

http://www.jvcmusic.co.jp/m-serve/artist/mikako/webradio_f.html

障害? 09:38

キーワードのリンク捕捉機能が効かなくなっているようだ。

#負荷軽減措置だったようです。

むずかしい文章の続き 00:41

http://d.hatena.ne.jp/koseki/20030703

まず、ぼくの文章では普及版というのは、劣化コピーの意味で使っています。

同じ言葉なので読む方はkosekiさんの文章での意味と混同しないようにしてください。

つぎに、ぼくはやはり「冷麺」の文章で十分わかりやすく委曲を尽くして述べられていると思うのですが、やさしく書けることを難しく書くことは批判しています。

ですから、やさしく書けるのなら、やさしく書くべきだ、その義務は免除されない、ということは再三、強調しています。

ですから、やさしく書ける場合や、やさしく書く方法について、やさしくなるときにはやさしく書こう、ということについていくら主張されても、そのことには同意しています。もちろん、そうした方法はすばらしいし、やるべきだとおもいます。

真実は常に簡潔であり、つまり事柄そのものに難解さはなく、つねに難解さは伝達の場面で付随するものだ、というのは迷信であり、そういう迷信が、もちろん、難解なことは高尚であるという迷信と同じように、読みの怠惰をゆるしているということは、多いのではないでしょうか。

という点が、対立点であると思います。わたしは事柄の難解さは解消不可能である場合がある、と主張しているわけです。

1 事柄そのものの複雑さをそこなうことなく正確に表現しようとすれば、読み手にとって難解になりうるけれども、これをわかりやすくすることはどうやっても事柄そのものの複雑さを損なう場合。

2 また、事柄そのものはもしかしたら簡単なのかもしれないが、そもそもその時点での一般の水準でも、まだそれが結論の出ていない問題であるがゆえに、書き手の努力によっても、明確に表現することができないが、さりとて議論自体しなければそれが明確になることもないだろうから議論しなければならない場合。

問題は事柄の複雑さが、表現のレベルで難解さに直結するか、ということでした。わたしは難解さを、理解するのに手間がかかる、という意味でも理解しています。おそらく、そこに、彼我の見解の重なる地点があるように思います。ひとつひとつのステップはわかりやすいけれども、それらのステップをかなりたくさん、かつ慎重に、かつ手間ひまかけてたどれば、だれでも理解できる、ということは、うえでの「1」の場合については、わたしは認めます。それは、そもそも普遍的な論理というものの存立条件でしょう。わたしは、そのような書かれ方は、普通は、難解な文章の範疇にいれられるのではないか、といっているわけです。わたしは、読み手の読みにおける努力量を難解さの基準として理解していたのでした。有名な、プラトンが奴隷の子供に、ピタゴラスの定理を理解させる挿話のように、手間をおしまなければ、普遍的な知識は、原理的には、ひとつひとつのステップは自明なものに分解可能だと思います。しかしそのような文章は、じつはジャーゴンをもちいた雰囲気的な比ゆを使用してイメージにたよった文章より、はるかに難解ですし、記憶力や理解力を酷使します。そして理解するとは、そのように苦労することなのです。

また2の場合については、あるいはその他の、そもそも書き手が十分には理解していないけれども、それを書くことに意味がある場合については、かならずしも、わたしは、「ひとつひとつのステップは平明で全体として難解」にすら書けるかどうか疑問ですが、すくなくとも問題の所在についてはそのように書くことは可能でしょう。ただ、そのような文章が、「平易」であると語の普通の意味で言えるかどうかは場合によると思います。

ペダンチストという語があらわしているように、理解可能性をあたえない難解さ(とくに隠語やジャーゴンをもちいたり、論理がおかしい場合)はもとの「冷麺」の文章も排斥しています。その意味で、ぼくは元来、こせきさんの論は、あの文章の後段のみに着目して、前段の意味を軽視していると感じていました。問題は、理解可能性を与える難解さ(手順をきちんとそれなりの努力を踏めばだれでも普遍的に理解できる、つまり慎重に「読む」ことさえすれば、理解の手がかりはきちんと文章の内部で与えられている、そういう難解さ)というものは、事柄の複雑さによっては、解消不可能だということです。

ついでにいえば、現代思想の単語という例でもとの文章が示しているように、文章の長さがかぎられている、ということは無視できない要素だと思います。それは、つみかさねられてきた議論の伝統をちゃらにしない、きちんと活用すべきだ、ということでもあるからです。その概念ができるまでに千年かかったものは、やはりその概念と日常語のあいだに千年分の距離があるのです。その距離を縮めるのに千年かかるとは言いませんが、それなりの時間は必要なのです。ですから、場合によっては、もちろんさけられればそれにこしたことはありませんが、文章の長さという外的な制約によって理解可能性を与える難解さで書くことすらできずに、部分的に省略法を伝統に参照してもちいざるを得ないこともあるでしょう。それはたしかに過剰であれば独善的ですが、つねに時間が取れるわけではない以上、またすべての文章がいちから語ることが必要ではない以上、ある程度は避けられないことだと思います。もちろん、その「程度」いかんは場合場合で経験的に批判していくべきことだと思いますが。しかしそれは、教養というものをどれだけ前提にしていいかというまた別の論点にうつるのでここでは論じません。

問題なのは、むずかしいことは、理解するのに手間がかかるのだ、ということです。だからこそ、むずかしくないことをむずかしく語る輩や、むずかしいことをやさしく(劣化させて)語ることが批判されるべきなのでしょう。


Comments(in hatena)

DocSeri『機能制限中だったようです>http://www.hatena.ne.jp/iwashi?mode=detail&iid=2155』