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Drifting Antigone Frontline

2003/07/08 00:00 JST

小悪魔的美少年 04:28

http://d.hatena.ne.jp/cc2/20030709#1057690845

というとラシャーヌを思い出してしまうのだった。

と、書いたそばから下のセクション 05:05

小宮さんはタームのあいまいさを問題にしているのだからすこし解釈違うのかも知れないと思い始めもするのだけれど、まあいいや。

哲学的な問題の場所 23:33

http://d.hatena.ne.jp/mkomiya/20030708#p1

批判そのものは全くそのとおりだと思うことを明らかにした上で、ただ、文系とか思想とかいうとき、とくに例にあがっているフレーズから考えて、哲学もはいっているようなのですが、哲学的な問題に関しては、代案としてあげている認知科学的方法をとるべきだというのは、間違っていると思うということを以下に書きます。文脈からはまったく脇筋なので、そういうものとしてお読みください。むしろ自分の興味のことを書きたかったというほうが適切かもしれません。

経験によっては哲学の領域の問題は検証不可能です。現代思想とかそういうくくりになると、経験によって(実験によって)検証可能な問題を議論している場合もありますが(とくに政治論や社会科学の議論)、原則的に哲学固有の領域は、経験によっては原理的に検証も反証もされません。逆にいえば、経験によって検証もしくは反証される事柄は、科学の領域に属します。「時間は流れるのか」という問いや、「善とは何か」という問いは、経験によって明らかになる世界のありようから独立しています。もちろん、「ひとはなぜ時間を流れると感じるのか」や「ひとが時間を流れると感じているとき意識で何が起きているのか」は経験によって解明可能です。だからあとのふたつの問いは哲学の問いではなく、認知科学の問いです。認知科学と哲学の領域は重なっていません。(これは言い過ぎだった。ただこのふたつは別のもので、一方を他方に解消できない、ということ。もちろん、この二つの領域はお互いに対してきわめて示唆的でありうる)哲学はだからむしろ、言葉の意味のこんぐらがりを整理しようという試みでもあるわけで、その意味が適用される対象世界の経験的ありようをうんぬんしているのではないのです。ひとがこれこれと云ったとき、そのことによって同時に何を意味してしまうか、これも哲学の問いです。因果関係をあきらかにするのが科学ですが、哲学は因果関係を解明しません。哲学は、概念を明らかにするのであって、概念の指示対象の経験的ありようをあきらかにするのではないのです。念のために書くと、同様に、ひとが善とか悪の意識をもつのはなぜか(原因は何か)、それはどのような過程でおきるのか、あるいはそのような意識に対応する物質的状態は何か、というのは、哲学の問いではありません。いいかえましょう。これは「原因」の探求と「理由や根拠」の探求の違いでもあります。

http://www.mayq.net/koumori2.html

コウモリであることがどのようなことかをわれわれは知ることができない。コウモリであることがどのような物質的過程かわれわれは知ることができる。このふたつの命題は両立する。それはコウモリであることが何か心霊的、精神的なものによって成立しているからでは、ない。そうではなく、この二つが別のことを問うているからだ。コウモリであることを成立させる必要十分条件をわれわれは確定できる。そのことはしかし、その必要十分条件が、コウモリであること、「である」ということにはならない。これは徹頭徹尾、言葉と意味にかかわる問題である。わたしは痛みを発生させる脳状態を確定しうる。その脳状態は痛みの成立の必要十分条件だとしよう。絶対にそれなしに痛みはなく、絶対にそれがあれば必然的に痛みが経験される。では、それが痛み「である」といっていいか。違う。

http://www.miyazaki-u.ac.jp/~e02702u/estimation/philosophy.html

 たまたまこれもネーゲル。人生に意味があるか、という問いも経験によっては検証も反証も不可能、ではこれは有意味な議論の対象にならないか、宗教的信仰の問題か、違う、哲学的に問われうる。そのとき、哲学的に問うとはどういうことか。人生に意味があると意味がないとでは何が異なるか、人生が意味を持つとはどういうことか、などなどを吟味して、少なくとも人生に意味があるか、という問いが同時に意味していることを明らかにし、この言明が論理的矛盾を内包しているか、またこの言明を支持することによってどういう別の言明が道連れにされるか、などを明らかにできる。そのことによって、この問題に関するひとの知識は明らかに増大する。ある意味では、たしかにウィトゲンシュタインがいうように、哲学とはこうした言葉の意味内容が明晰に分析されていないがゆえにおきる思考や語りの混乱を治癒させる行為以外のものではない。

http://www.sv.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~irifuji/absence_of_qualia.html

なおこれはまったくクオリアの茂木さんの領域と重なってくるあたりなのだった。(ちなみにしつこく書いておくとクオリアがどういう場合に備わるのかを解明するのは経験科学の問題である)心身問題は経験的データによって解決しうる問題なのだろうか? そのことそのものを考えることは哲学に属するように思える。また、たとえば科学は独我論を反駁することも肯定することもできないだろう。独我論が間違っていることを科学的に証明することはできない。同様に、じつは創造説が間違っていることを科学的に証明することもできない。これはラッセルの「世界五分前創造仮説」と同様の問題で、科学はこれを「最善説明」の原理で反駁するけれども、これはじつは反駁ではない。「最善説明」(与えうる説明のうちもっとも首尾一貫していて経済的な説明を支持する)というのは、科学における「要請」であって、それ自体の正当性は科学の内部では根拠付けられ得ない。「世界五分前創造仮説」や「独我論」がただしいかもしれないのだ。こうした仮説を批判、吟味するのは哲学である。つまりそれらがただしい、ということにもただしくない、ということにも意味がない、あるいは意味があるとしてもそれは哲学的な違いを生み出すだけで、経験的に違いを生まない、ではそこでうまれる哲学的な違いとはなにか……などなどというのが哲学の問いである。

 ぼくは別にid:mkomiyaさんに反論したいというよりも、哲学固有の、科学に還元不可能な領域はあるということを示したかっただけなんですが、そこで、そういえばAI関係や心身問題、独我論、チューリングテストあたりは非常に興味のあるテーマだったので、そっちにも脱線したのでした。もちろん、考えることを放棄して、低級な哲学史のあげつらいに論じる徒はまったく愚劣です。ですが、哲学的、思想的問題が、実証的データによって解決がつくというのは間違いです。すくなくともそのかなりの部分は、実証的データによっては原理的に解決できません。心身問題やクオリアの問題がどちらに属するかは正直に言えば微妙だと思っています。まさに中間的領域に属しているように思われるからです。ただ、やはり、クオリアを発生させる物理的構造と、クオリアは区別すべき差異が残ると思います。クオリアの発生条件とその存続過程は物理的探求によって特定可能でしょう。しかし、それをクオリア「である」と呼んでいいか、という哲学的問題は消去できないと思います。

PDF 心の哲学 な、ながい

http://www.phsc.jp/~nishiwaki/doc/nishiwaki/1999/19991114.pdf



22:00

http://d.hatena.ne.jp/nazoking/20030708#1057662402

 ぼくはそうは思わない。世界は簡潔で調和的に記述可能だろうが、それは何かを無視することによってだろう。いいかえれば、つねに説明不可能な残余が残る。難解さは原理的に除去不可能だ。そしてだからこそ、自然科学には意味がある。経験論とは、その説明不可能なものをたえず自然から引き出す行為だからだ。たとえ人間の理解力の自然的限界を考慮におかなくても、けっして世界は純粋に明解にはならない。心理や意味というような領域だけが、そのようなあいまいさをもっているわけでは全くない。自然科学は、単に、不可解なことを前にしたとき、それは将来簡潔な形で説明可能になる、と信じることに都合上しているだけだ。つねに不可解なものは簡潔な説明に置き換えられていく、という信念は正しいが、そこから一歩飛躍して、だから究極にはすべてが明快に説明しうるはずだ、と考えたとしたらそれは間違っている。自然は常に一歩先を行くからだ。この過程には終わりはない。すべてものごとは理解すればするほど簡単ではなくなる。簡潔で合理的な美しさには、つねにどこで語るものが探求をやめて「説明」の側へとスタンスを移したか(何を無視してもいい細部として無視することに決めたか)の痕跡が残っているのだ。(もちろん、人間が無矛盾な体系として人為的につくりあげた規約の体系はそのかぎりではないが、まさにそういうものとしてつくったものなのだから、これは当然)

デフレがいけない理由 05:05

http://www.iser.osaka-u.ac.jp/~ohtake/paper/deflation.htm

これは分かりやすかった。

Blosxom のデータ取得処理のクロージャ化 05:15

http://torus.jp/blosxom/blosxom_fetch.html

MySQL接続のプラグインができるとかなり面白いですね。


Comments(in hatena)

tokyocat『「コウモリであるとはどのようなことか」。リンク先(http://www.mayq.net/koumori2.html)で述べている私(Junky=tokyocat)の理解はやや混乱しているところがあるかもしれません。そのあとに続くJounoさんの説明で、改めて整然と納得できた気がします。ところで、野矢茂樹の『哲学・航海日誌』という本は「他人の痛みが私には分からない(と言いたくなる)のは何故か」という問いから始まります。こうした思考を追うことで、哲学の論述が自然科学のそれと違ってどのように独特なのかがいくらか実感できたように思います。しかし、こうした論述をめぐって解けない疑問に出会ったとき、自分の考えが不十分だから解けないのか、そもそも原理的に解けない性質の疑問だから解けないのか、そのへんの区分けがはっきりできないと先に進めないですね。そういうことからも、今回のやりとりは興味深いです。』