back_to_index

Drifting Antigone Frontline

2003/07/09 00:00 JST

vermilion

vermilionの一篇だと言い張っても面白いと思う。カフカの短編。

掟の門 Vor dem Gesetz Franz Kafka

掟の門前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。今はだめだ、っと門番は言った。男は思案した。今はだめだとしても、あとでならいいのか、とたずねた。

「たぶんな。とにかく今はだめだ」

と、門番は答えた。

掟の門はいつもどおり開いたままだった。門番が脇へよったので、男は中をのぞきこんだ。これをみて門番は笑った。

「そんなに入りたいのなら、おれにかまわず入るがいい。しかし言っとくが、おれはこのとおり力持ちだ。それでもほんの下っぱで、中に入ると部屋ごとに一人ずつ、順ぐりにすごいのがいる。このおれにしても三番目の番人をみただけで、すくみあがってしまうほどだ」

こんなに厄介だとは思わなかった。掟の門は誰にも開かれているはずだと男は思った。しかし、毛皮のマントを身につけた門番の、その大きな尖り鼻と、ひょろひょろはえた黒くて長い蒙古髯をみていると、おとなしく待っている方がよさそうだった。門番が小さな腰掛けを貸してくれた。門の脇にすわってもいいという。男は腰を下ろして待ちつづけた。何年も待ちつづけた。その間、許しを得るためにあれこれ手をつくした。くどくど懇願して門番にうるさがられた。ときたまのことだが、門番が訊いてくれた。故郷のことやほかのことをたずねてくれた。とはいえ、お偉方がするような気のないやつで、おしまいにはいっつも、まだだめだ、と言うのだった。

たずさえてきたいろいろな品を、男は門番につぎつぎと贈り物にした。そのつど門番は平然と受けとって、こう言った。

「おまえの気がすむようにもらっておく。何かしのこしたことがあるなどと思わないようにだな。しかし、ただそれだけのことだ」

永い歳月のあいだ、男はずっとこの門番を眺めてきた。ほかの番人のことは忘れてしまった。ひとりこの門番が掟の門の立ち入りを阻んでいると思えてならない。彼は身の不運を嘆いた。はじめの数年は、はげしく声を荒げて、のちにはぶつぶつとひとりごとのように呟きながら。

そのうち、子どもっぽくなった。永らく門番をみつめてきたので、毛皮の襟にとまったノミにもすぐに気がつく。するとノミにまで、おねがいだ、この人の気持ちをどうにかしてくれ、などとたのんだりした。そのうち視力が弱ってきた。あたりが暗くなったのか、それとも目のせいなのかわからない。いまや暗闇のなかに燦然と、掟の戸口を通してきらめくものがみえる。いのちが尽きかけていた。死のまぎわに、これまでのあらゆることが凝縮して一つの問いとなった。ついぞ口にしたことのない問いだった。からだの凝縮がはじまっていた。もう起き上がれない。すっかりちぢんでしまった男の上に、大男の門番がかがみこんだ。

「欲の深いやつだ」

と、門番は言った。

「まだ何が知りたいのだ」

「誰もが掟を求めているというのに・・・」

と、男は言った。

「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」

いのちの火が消えかけていた。うすれていく意識を呼びもどすかのように門番がどなった。

「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」

id:hirusaiさん 23:10

 哲学は自分だけの特別な領域をもたない、というのもある面で本当だと思います。

 ではその言葉がなぜ哲学の言葉になって、科学の言葉ではないのか、を考えなければならないと思います。

 ぼくは、それは、「概念」によって、それぞれの経験をしなくても判断できる事柄、レベルのことを主張する、ということが、区別する理由だと思います。

 そういう意味で、取り扱い方の問題だと思います。

 ぼくは学問として哲学を正式にならったわけではないので当然まちがいもあるとおもいますが、ベルクソンは、相対性理論が記述する事実関係を批判したのではなくて、相対性理論のよってたつ哲学的な考えを批判したのだと思います。

 ですから、かれの批判の妥当性はわかりませんが、ベルクソンの主張する哲学的立場のバージョンにのっとった相対性理論は、アインシュタインの相対性理論と、数学的、物理学的には、つまり事実関係については完全に同一のことを予測し、説明すると思います。違いは哲学のフィールドにあるわけです。また、そうでないとしたら(つまり、ベルクソンが事実を調べることによって結果次第で正しくなったり間違ったりするようなレベルで批判をしたのなら)、そのときかれは哲学ではなくて、科学の主張をしていたことになるのだと思います。

ラッセル 指示について

http://members15.cool.ne.jp/~russell/0075-DEN.HTM

論理実証主義

http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card15987.html

価値判断と事実

http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7781/778122.htm

哲学は二流の科学か 22:51

http://www.wakate-forum.ath.cx/data/2001/resume3.html

劇団ひとりはとてもよい 05:54

http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20030707

とおもう。

とくに「本能のハイキック」で一回目しか出なかったひとがいたことは記憶に新しい。

室町ポエムから幕末ポエム 05:09

http://d.hatena.ne.jp/Harry/

江戸ポエムがない……つうか江戸ポエムっていいにくい。むしろ、エド・ポ絵夢という感じがいいと思う。ポは初恋のポで。 

あと、あいかわらずホストはやばいらしい。

むしろ流れに掉さしてみた。 05:17

http://www.enpitu.ne.jp/usr5/58244/diary.html

なんとなく哲学してみたら結果が出ないのでリストラされそうな勢いであるいたら右足と左足の動かし方がわからない。リスとトラではトラトラトラていやマックスに決まり。

そういうわけで、ミニミニミクロを聞いていたりする。

そういえばキーワードで見たらデフレはいっぱいあるのにだれもインフレって言葉使ってない。インフレになると守銭奴が損すると聞いたのでぼくのインフレ待望論、とかいうとさわやか風。ちなみにぼくとかいってるからってムラカミハルキさんのことがどうこういいたいわけでは。むしろノルウェイってどこだか覚えてないくらいの感じ。

インフレになって徳政令になって壁という壁が落書きだらけになるといいと思う。うそです。みんな刑務所に入れてしまえ。

なんて書くと金魚を……でも猫レンジは絶対反対。猫かわいい。むしろ猫の写真だけでインターネットをつくるといいとおもう。ねこでなく、かつかわいくないものがたくさんあるので、すべてかわいいものはねこである。証明終わり。(論理実証主義してみた。これ本当。)

#最近の話題がわからないとわからない文章を書いてちょっと反省した。フローベールにこんなんじゃなれない。

CMSとblog 05:41

http://artifact-jp.com/mt/archives/200307/cmsblog.html

論点を整理してみる。

山田BBSでの議論に則して言うと、コミュニティ志向の「そのサイトで何かをする」タイプのサイトにはnuke系をはじめとしてのいわゆるCMSツールがふさわしいというのには、はじめから合意があった。そこに異論が出されていると誤認した人がいたから混乱していたので、争点は、blogツールで、複数エディターによる運営ということがあるのだから、単に「blogツールで複数で運営はおかしい」とだけいったらそのエディターグループ形式も含むことになる。この形式は殆どのblogツールは設計段階で予定しているし、実際そういう運営もたくさんある。そこをどう考えてるんだ、ということだった。そこに返事がなかったからループしたと考えていいとおもう。

ポータル形式とマガジン・ダイアリー形式がどう違うかというとかなり簡潔にいえると思う。語る相手が違う。ポータルでは、メンバー同士が語り合う。マガジン・ダイアリー形式では、読者、他サイトに向けて語る。スラドなんかは中間形態で、2chなんかの掲示板もそういっていいと思う。つまり、「パネル・ディスカッション的」

10:20

http://d.hatena.ne.jp/mkomiya/20030709

 えーと最初の部分についてはたんなる誤解だと思います。

 というか、そんな、形而上学的なことはいってませんよ。

 哲学の扱う問題が、経験的データによって検証することで検証あるいは反証できない、ということを、経験的ありようから独立している、と表現したわけです。

 牛が、馬と親戚かどうかというような問いは、経験的現実によって左右されます。しかし、生きることがよいことかどうかを、経験的現実を調べて、結果Aだったらいいことで、Bだったら悪いことになる、とはいえない。そういうことをいってるだけです。

 また、独立して存在している場所なんかありませんし、そういういことはいっていません。次の問いもそうですが、「ある」ということばを物質的に存在しているという意味にだけとるのは明らかに変です。(注意してください。わたしは唯物論を手放してはいません)「ある」という言葉のオーダーが違うということです。たとえば、牛という言葉は「ある」けれども、それは「牛」があるのと同じオーダー、意味で存在しているわけではない。さらに、「美しさ」という概念も存在しますが、それが花瓶が存在するのと同じ意味、オーダーで存在していないといったからといって、美しさそれ自体が形而上学的にどこかに幽霊みたいにあるといっているわけではありません。

 あと、言及されている残りの部分は別の文脈で書いたことで、段落的にも意味的にもつながっていないので勘弁してください。その部分は、id:nazokingさんへの応答です。別の話を混ぜたくないので。

 ちょっと「ある」という言葉の用法にかなり無理をさせているように思います。たとえば「哲学」は存在しますよね。それはどのようにどこに存在するんですか。このとき、存在するを、花瓶が存在するという意味でとったらあきらかに不条理でしょう。個別の哲学的言説の存在はあきらかに「哲学」が存在するということとイコールではありません。では、わたしが哲学と考えているときのその思念の物質的存在が「哲学」という概念の存在とイコールでしょうか。それも違います。なぜなら、わたしの哲学という思念とあなたの哲学という思念はあきらかに別個のものですが、哲学が二つあるとは言わないからです。哲学と科学は抽象化の仕方が違うのです。それが、異なる対象を持つ、ということです。

 概念は、物質的な根拠、いわば身体がなければ存在できません。それはまさにその当然で、それから独立してどこか空中に存在しているなどということを主張してなどいません。じつをいえばそんなことは古典ギリシア時代くらいの哲学ででもなければ主張されたことはありません。ただ端的に、概念が存在しているというとき、その存在しているという言葉は、花瓶が存在しているというときの存在しているという言葉とは、違う意味で使われており、それはつまり、花瓶の自己同一性の基準と概念の自己同一性の基準は違うということなのです。

 また、哲学の対象が経験的領域から独立しているというのはたしかにあいまいな言い方だったかもしれません。哲学的問題の解決は、論理によって、概念を分析し、概念同志の関係を明確化することによってしか果たされないのであり、概念の指し示している対象の属性には左右されない、ということです。

 コウモリについてはえーとなぜここで記号の恣意性が出てくるのか理解できないのですが。コウモリにとってのコウモリであることの経験をまず考えましょう。われわれは、このコウモリであることの経験を過不足なく、それがどのように生起するか、そしてどのようにほかのものと区別されるのか、を記述し理解することができます。ここで、問題にしているのは、そのような理解、知識は、コウモリにとってコウモリであることはどのようなことか、を全く理解させない、ということです。つまり、われわれはコウモリにとってのコウモリであることという経験の存在条件を確定できる。としても、そのことによって、わたしが、コウモリにとってコウモリであることがどのようなことか、を理解したことにはならない、ということです。

 あと、68年以降の思想による形而上学批判が哲学批判であったというのは、事実と違います。否定されたのは形而上学です。形而上学とは、真理それ自体をひとは知ることができるし、それはそれを語る言葉から独立している、という立場のことです。ポスト構造主義は哲学ですよ。形而上学批判は哲学に、概念を、それをあらわす言葉や語り、意味とはなれて純粋に想定することはできない、ということを教えたので、実証主義的なものを導入したわけでは全くありません。

 それに、もしもそれらの思潮が哲学という言い方をとっていない場合があったとしても、かれらは、思想的問題を実証的に解決しうる、などとは考えていません。哲学を科学へと解消するというプログラムは十九世紀ごろからありますが、つねに批判されてきましたし、まともに相手にされたことはありません。それがここでの論拠に成るとは私は考えていませんが、すくなくとも現代思想の分野の動向ではどうか、ということであれば、そういうことです。


Comments(in hatena)

nazoking『nazokingへの応答として主張されているのは、「概念は科学では記述できないが存在する」ということでしょうか? 「その部分」というのがどの部分なのかわからなかったので。』
jouno『すでに応答いただいた前日の部分のことです。ちなみに、そのパラフレーズは正確ではありません。概念が存在するというときの存在するという語の意味は、石や花瓶が存在するというときの存在するという語とは論理的な階層がことなる、ということです。』
hirusai『違うよ~相対性理論を否定してましたよ~だから、ベルクソンの言ってる事を理解するためには相対性理論も理解しなくちゃで、えっらくホネが折れた上によく解らなかったですから(;^_^A アセアセ…』
jouno『うーん、だとしたら、ベルクソンは、少なくともその問題に関しては、「哲学は二流の科学である」といわれても仕方がない部分はありますね。』
maspro『話への感想です。vermilionの設定を知っているから楽しめる部分と、一人の男の希望のために、障害になっているというのが、優しいんだか冷酷なんだかというのが面白かったです。vermilion抜きでもテーマ的に成立しますよね。』
jouno『書いておくべきでしたね。あれはカフカの作品なのです。』
jouno『けっこうそのすじでは有名な作品なのでさぼってしまいました。掟とか法律っていうのは、破られなければ意味がないけど破ることを禁じている。そういう意味でこの門に似ているのです。』
maspro『そうなんですか、カフカって虫の話くらいしか知らないのでした。(虫の話しって……)』