■ なんとなく
昨日のクセノスの対話篇でぼくの反応はつきているのでこれは蛇足。
1 痛い目にあうのはいいことだということと、痛い目にあわせることがいいことだというのは、お互いに独立。
2 望まない書き込みがいいことか悪いことかということと、それにどういう対処をしていいかということも独立。
3 望まれないが禁じられていないことをひとはやる権利があるが、しないほうがいい。やる権利があってしないほうがいいことを、強制によってやめさせてはいけない。
4 「ともかく最初は」、話せばわかる相手として語りかけるということは、そのリスクも含め、倫理的には些細ではない不可欠なステップ。
ひっかかっているのはやはり、望まない書き込みをしただけで、対話可能な範疇から相手をはずしていいかということではないかと思う。
蛇足の蛇足。
性善説と性悪説の使い方に違和感を感じる。性悪説というのは、人間はもとは善でも悪でもないから、教育によって、人にする、善悪を教えることが必要、という立場。性善説は、善は、外的なきまりではなくて、なにがしか、人間の本性から出てきたもので、たとえば、善悪を教わらなくても、井戸に落ちた子供を人は救うだろう、だから本性に善は由来するのだ、という立場。厳密にはこの二つの説は両立不可能な対照的立場とまではいえなかったりする。人を見たら泥棒と思え式の考えとか、ひとのことを根拠もなく信頼することを、性悪説、性善説と呼ぶのはちょっとだけ違和感を感じる。
■ vermilion
水を差す気はないんだけど、vermilionを書いてる人は、やはりvermilionを書いてる人というだけで、「メンバー」というのがあるわけではないわけで、そこになんらかの性格付けを見ようとはぼくは思わないです。
あと、vermilionとして書く意味というのはそれは個別の問題だろうし、なにもvermilionにしなきゃいけないわけでもないし、書いてから決めたっていいような気もする。個人的には、「人物再登場」的な「通路」あるいはパロディ、再定義が機能することの面白さ、というのはあって、あと、結局、そこにはシンボリックな側面で、この世界を塔として書くことでこの世界では見えない構造が見える構造にできる、ということもあるんじゃないかな、と思います。そういう意味では、書くことはいつも戦争だから。(見えなくされているものを見えないままにしていく何かとの)と、同時に、カフカは「きみと世界との戦争では、つねに世界を支援せよ」といったそうだし、つまりそれは、書くことによって「私」がつむぎなおされる、その戦いのことなのだろうと思う。
■ 第三派フェミニズム
第三次でgoogleすると(e)mergingしかでてこない。
第三派だともうすこし出てくるが一桁にすぎない。
third feminismだとかなり出てくる。
このへんがいってることらしい。
実際に第三派を名乗るほどのものかどうかは保証のかぎりではない。
SFにおける浸透と拡散っていうのを思ったり。
個や日常への着目というのを、運動としての拡散につながらないように、思想化していくのは難しい。
十分ではないが一定の成果が獲得され、日常の中では隠蔽とあらたな自然化が機能しているという文脈がある。
つまり「役割を果たした」という言説。
これを有効にいかに批判できるか。
ちょっとかんがえてみても、じつは、無意識的な非対称性はぜんぜんなくなっていないのだ。(意識は変わっていない。やると怒られると学習しただけだ。)ただ、建前が変わっただけで、そして、建前と現実とを結ぶ回路は、あいかわらず、まったく機能していない。(誰も思想を個人化しようとはしないのだ。思想は、全人的なものではなく、思想という生活の一部門にしか属さないというこの国の巧妙さ。思想を個人化するということはイデオロギーが全人的に支配するということではなくて、逆に、自分という出来事のさまざまな要素を互いに関係付け「対話」させようと努力するということだ)建前が常に不思議なことに実践の場になると別のものに化けてしまう。女性の差別化は現代では、公的には女性であることを(それが原因、理由であるにもかかわらず)根拠にしてはなされない、ということがまさに主題であるべきで、この効果として女性差別的であることを制度的に保証しながら、どこまでも直接的には女性差別とは考えられないシステム、というかシステムのアレンジメント(配合、組み合わせ、まぜるな危険)の効果。
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