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Drifting Antigone Frontline

2003/07/22 00:00 JST

岩井克人の「貨幣論」とか 23:42

読んだのは結構まえだが、うーん、たしかにそのとおりなんだけど、と、じつはあまり感心しなかった。(よくできてるとは思ったんだけど)なぜかというと、

貨幣はそれが他者にとって貨幣だから貨幣なのだ

というのはそのとおりなのだけど、交換過程論的な、つまり、具体的な交換の場面で出てくる話も重要なんじゃないかと思うわけで、貨幣の価値体系が自己完結的な、つまり、貨幣と価値の世界は完結してるというわけではなくて、たしかに労働価値説はまちがってるにしても、貨幣の世界には、たとえばケインズの賃金の下方硬直性みたいな、外的制約は存在すると思うのです。そのへんが軽視されてる気がする。

で、そのあとマルクス経済学系の本を読むと、ふむ、いやに金本位制にこだわるなあ、というのは、hotwiredの稲葉振一郎さんの連載で言われてたとおりだった。

経済論戦は甦る  ISBN:4492393862 23:23

日経BP企画

経済論争の正しい愉しみ方

「今日の日本の経済学者は、1930年代の大恐慌の時と同じくらい、経済学の進路にとって重要な状況に立たされている」。著者である竹森俊平・慶応義塾大学経済学部教授は、構造改革の是非に揺れ動く我が国にあって、マクロ経済学的視点に基づく意思決定こそが国の命運を左右すると論じる。

とはいえ、理論と現実の狭間で意見を180度転換させる経済学者に対しては風当たりも強い。大恐慌の際、「財政金融政策を講じなければ経済は『デフレ・スパイラル』に陥って崩壊する」と説いたのは米国の経済学者アービング・フィッシャーであった。一方、世に言う「フィッシャー効果」とは「インフレ対策が無効になる可能性を示唆したもの」である。著者はこれを「矛盾」とは解さず、常に新たな難問に対峙する経済学者の宿命であり、真摯な姿勢であると位置づける。

フィッシャー理論の対極には、オーストリアの経済学者シュンペーターが説いた「創造的破壊」、すなわち不況の破壊力で企業、雇用、資産の非効率なものを一掃してしまえという「清算主義」がある。著者は、小泉純一郎内閣による構造改革の思想をそれに重ね合わせることで、マクロ経済の視点から改革の落とし穴を検証し日本経済の行く末に警鐘を鳴らす。

とても面白かったです。「痛みに耐える改革」というすでに色あせたスローガンじゃだめな理由。

経済で、不況を徹底化させることで衰退産業を退場させて活力ある民間起業に経済再生をはかる、という「清算主義」と、不況やデフレは経済の再生に役立たない、だからすみやかに終了させるべきだというケインズ、フィッシャー的な立場が対比され、後者が支持される。

実際、ぼくも、不況の徹底化がなぜ、新規産業の参入を促すのかその理路が分からなかったので、こういうふうに解説されると納得できました。(もちろん、促さない、ということに)

「恋愛小説家」主演 ジャック・ニコルソン 23:11

ちょっとまえに、中山美穂とトヨエツでドラマがあったけど、あれって、この映画からかなりぱくってる気がする。これに限らず、日本のドラマって妙に外国映画によく似た設定のことが多いのだけど、どうなってるのだろう。

それはともかく、これはかなりよくできた映画だった。

しかし、特筆すべきは、犬がかわいい!

以上。

てことはないのだが、しかし犬はかわいいし芸達者なのです。

やばいHTML 23:06

http://www.otsune.com/diary/2003/07/22.html#200307226

http://altba.com/bakera/hatomaru.aspx/ebi/2003/7/22/308430633066305730823046305f

http://www.be.asahi.com/20030719/W16/0033.html

たしかにいまどき懐かしい不思議マークアップ。

別にこういうHTMLを書いてるページに文句をつけにいこうとは思わないけど、こういうのを「教え」てはいけないでしょう。

うる星やつら オンリー・ユー 20:58

このアニメの終わり方を見て、これは「カリオストロの城」なのだと思った。(にしても押井さんはいいつくされているのだろうけど、戦争が好きなんだなあ)逆にいえば、ヒロインというか敵役のエルはクラリス(「カリオストロの城」のヒロイン)なのである。あと、レイが意外とかっこよくかかれていて、もしかしたら、彼は戦争の場面では有能とかそういう設定だと押井守的なテーマにつながってくるのかもしれないな、とおもった。考えて見れば、レイがあんな調子なのは、貴族のだめ息子なのだから、なのだろう。どうも、うる星やつらで、ラムがお姫様であることは忘れがちなのだけれど、要所では想起する必要のあることだと思う。それから、ラムの物語って、じつは、あたるが「本当に」悪いやつだったら、古臭い悲劇になってしまう、ということも覚えておくべきで、それが喜劇(というかファース、笑劇)になっている、ということはあたるの存在性格を語っていると思う。(そしてもちろん、うる星やつらの二番煎じと異なり、ラムがあたるを愛しているという以外は、かなり批判的で独立心の強い、バランスの取れた人格の持ち主で、こびたところがほとんどない、ということも忘れがちなところだろう。それと対照的に、少年誌の「ある日部屋に女の子が」パターンの作品では、多くの場合、女の子は、頭が弱いか、気が強い場合でもどこかコスプレ的で、実は気が弱いという設定のことが多い。そのあたりが願望充足的な役割からくる部分なのだろう)

暗示的な書き方について 20:35

ときどき、かなり昔からではあるのだけれど、日記で、それまでの経緯を追っていないと、あるいは追っていても、ごく少数にしかわからないあいまいな省略のある文章を読むことがあって、しかもそういうあいまいで省略のある文章はけっこう感情的な齟齬にかかわることが多かったりして、ぼくはそういう文章にひどくいらだたせられてきた。そういう意味で、観念的な文章と、個人的な文章は、対極なようで、等しい。

ほんと、やめてほしい。そう思うことがたびたびある。

おそらく、あいまいで省略の多い文章というのは、何か念頭に特定の人があって、そのひとにだけ分かるような、多くは皮肉な意味をこめた文章であるのだろうけれど、そういうことはメールのような私的な場でなされるべきことではないだろうか。一般論を装って特定の個人や特定の振る舞いをけなすような文章を書くべきではないし、特に、特定の人や場合を対象にしているのに、第三者に説明がなかったり、固有名詞が意図的に抜けている文章を見ると、本当に腹が立ってくる。

そして、こういうある程度、理解するためには憶測を要求する文章(当事者以外は十分な情報を持たないのだから、当事者以外が理解するためにする深読みは必然的に憶測になる)には、そういう文章を書かない人にも弊害を及ぼす。つまり、一般論や関係ない話を深読みされないように、誤解されそうな状況では、誤解されそうな一般論をできないのだ。

ここでちょっと飛躍するけれど、ぼくは本当に日本のあらゆるものが意味を持ってしまうという文化が嫌いである。ぼくは、基本的には、明示的にいわなかったことは、たとえどれほど意味深であっても無視する建前にしている。明示的にいわないということは、理解してもらう権利がないのだと考えているからだ。だから、明示的にいわなかったことをたてにして、何かを要求すべきではない。皮肉が理解されなかった場合、おろかなのは、皮肉を言ったほうだ。ネタにマジレスかっこわるいという考えこそ愚かしい。ネタには徹底的に、過剰なほどにマジレスすべきである。相手が嫌というまでマジレスするのだ。(ちなみにマジレスというのはわざと面白くするためにいったことに本気でいったと思って返事をすることをさす)

特定のことをさしているらしいのに、それについて読者に説明しないのは、文章を貶める行為だと思う。文は理解されるためにある。理解するための情報が文中にあるのなら分かりにくさはある程度擁護できるが、その文章だけでは理解できない文章で、その文章だけでは理解できないことについての、たとえば固有名詞といった手がかりさえあたえないような文章は、このうえなく性格が悪いと思う。

というか、まったく今日はじめてその文章を読む、素性の知れない人にとって意味をなさないような文章は、よほどの必然性がない限り、だめなんじゃないか。(もちろん、ぼくはここでだれでも読める場所に置かれている文章のことをさしているのである)

つねに不審で素性の知れないよその人の立場ぬきにはぼくはものを考えることができないのだ。


Comments(in hatena)

sheepman『竹森さんの本はおもしろいですね。「世界経済の謎」もおすすめ。最初に出てくる貨幣の話がおもしろいです。』