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Drifting Antigone Frontline

本当のことなど書く気がしない

2003/07/25 00:00 JST

プラトン風について 続き 00:01

さて、考えてみると、

1 テキストがプラトン風の愛という言い方で指示している中身は何か。

2 プラトニック・ラブとはどういうことか。

3 プラトンの愛についての考えはどういうものだったのか。

 という三つの愛についての概念をある程度明確にする必要があるわけで、面倒この上ない。

とりあえず、

プラトンの愛についての考え

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/1e.html

http://ryota-t.tripod.com/book/i-nonfiction10.htm

宮廷風恋愛

http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kowa/mes127courtlove.htm

プラトニック・ラブ

http://www.remus.dti.ne.jp/~k-tanaka/namadai/labo/manie/manie3.html

予想していたとおり、プラトニック・ラブの現在の意味には新プラトン主義が背景にあるようだ。

さて、ここまでは資料として一応おいといて。(ただ、新プラトン主義やそのキリスト教バージョンとプラトン哲学はけっこう違う。とくに肉欲と精神という対比はギリシア哲学ではなくキリスト教的な対比だということはおさえておきたい。プラトンは肉体的愛を肯定している。そのうえで、それを端緒として真善美への愛へといたるべきだと説いているのである)

具体的な議論について。

http://www.alles.or.jp/~tsuruba/#0723

大前提とか小前提という言葉が一般的な三段論法での定義と違うようなのでその辺は気になりますが、いちばん、問題になるのは、

【解釈2】 「プラトン風の愛」という表現を簡単に分解すると、プラトン+(形容詞表現としての)風+の+愛となる。

【解釈3】 分解された複数の単語からの連想として、通俗的表現の「プラトニック・ラブ」という言葉が当てはまるのではと予想する。

の2から3への移行が一般的か、飛躍があるか、ということだと思います。まさにここです。問題は。

ここで、プラトンについて知識がある人は、3へ移行しません。あるいは解釈3は、唯一の候補ではなく、どちらかというと、より弱いほうの候補としてあらわれます。その場合、第一候補になる解釈は、

解釈3b「プラトンが考えていた理想的愛、またそれに非常に近似したもの」

です。問題は、テキストに、この解釈3bではなく、解釈3へ移行することを、とくに指定する部分があるかどうか、ということです。文章を素直に読むかぎり3bのほうが文法どおりの読みであることは滅・こぉるさんの論証で明らかだと思います。文脈として指示されている宮廷風恋愛が、解釈3bではなく解釈3を支持するとは特にいえないように思います。

もっともここで宮廷風恋愛が介在することがやや事を面倒にしていますが。

さて、ここで小説論的批判をすれば、笠井潔は、読者に対して、「プラトン風の愛」を「プラトニック・ラブ」の意味に限定して読ませるために十分な努力をしていない、読者が、プラトンについて知識がないことに依存した記述をしてしまっている。これは、小説作法として不用意であり批判に値する。ということになると思います。実際、たとえ蔓葉さんの主張するような意図が仮にあったとして(この点については、このようなテキスト総体の解釈に影響し、しかも、普通想定されない読みを提唱する場合は、そちらのほうに立証責任があると思います。つまりそのような解釈を示唆する具体的記述をあげるべき)、それでも、プラトニック・ラブの意味ですよ、と限定する方法はいくらでもあったわけです。実際、このテキストは、あくまでもプラトンに参照して理解する余地を残している。で、もしそうだとしたら、今度はそういう理解の正当性が問われうる。つまり、意図と効果の違いが発生してしまう。(もちろん、笠井潔が、解釈3の意味で理解してほしかった、という仮定にたった上で、ですが)だから、やはり、笠井潔が、明示的にプラトニック・ラブの意味ですよ、という但し書きなり、何らかの「語の再定義行為」をしていない、ということが問われているわけです。意図どおりに読まれることを安易に仮定してしまっている、ということでしょう。ですから、反論は、いや、文中で十分に解釈3bは排除されている、ということを示すことでしかありえない、と思います。明示的に排除されていない限り、それがまさに字義どおりの読みであるという強力な理由により、解釈3bは、第一候補にならないとしても間違いなく同等の候補になるだけの権利をもっているわけです。

19:36

 ありもしない恋の話をしよう。情熱とは北村透谷の作った言葉だとかそんなことはどうでもいい。ひとは恋をしていなければならないなどと命令形でいうなど論外だ。恋をしているときれいになるなどと微温的なことをいっているのはどこのどいつだ。ありもしない恋の話だ。すべての恋の物語はありもしないことについて語る。情熱は蜃気楼を現実にする。現実のように感じさせるのではない。現実にするのだ。生きられた幻想とは現実の別名ではないか。だがそんな推察、憶測、意見、それが何だ。否定、否定、否定、そう、「言葉、言葉、言葉」だ。ああ、愛することなしに一瞬たりとも存在できるものか。存在とは愛することの別名だ。別名は神の恩寵への反逆か、それとも随順か。われわれは生存の限界を憎んでいる。愛がその臨界を超えると信じたいがために? だがそれは本当か? そうだ。ありもしない恋の話をしよう。ぼくは痛切に、そう痛切に、だ。痛切にその日のエゴイズムを悔いる。エゴイズムを悔いることなどいまどきはやるまい。情熱とはメランコリーではない。情熱とは自意識ではない。情熱とは狂気であり、イデアにとりつかれ、永遠とダンスを踊り、祝福と孤独を取り替えることだ。そうだ、僕のあの日のエゴイズム。エゴイズム。なんという言葉だろう。エゴとイズムがむすびつくことの醜悪さ。ぼくは無償の愛を知っていたはずだった。恋を知り染めたとき、愛することはきみの喜びを享受することにひとしかったはずだ。それが、ああ、すべての一瞬は取り返しがたく、すべての過去は凍りつく。戻ることのかなわぬ時間に繰り返し、繰り返し立ち戻ることの矛盾と苦悩。なんということだろう。わたしは、いつしか、愛されないことを恐れた。だが、きみよ、愛することはきみの喜びだったはずだ。そのひとの微笑のほかにいかなる褒賞もなく、そのひとのこころのほかにこころはない。魂を売り払い、誇りを投げ捨て、ただ一瞬のきみの微笑を獲得することこそが愛だったはずだ。愛されることを求めた瞬間、エデンは壊滅し、バビロンがあらわれる。すべては堕落する。絶対の愛もまた絶対に堕落するのだろうか。歌よ、世界の背後に流れるアリストテレスの天球のたえなる音楽よ、せめて彼女の現在を祝福せよ、ぼくの惨めなエゴイズムとメランコリーを笑え、自虐など存在の余地はない。わたしは自ら虐げるまでもなく天によって、あの大いなる神の軍勢、おそるべき天使たちによって罰せられている。「美は恐ろしきものの始まり」そうだ。それでもひとは愛するだろう。愛すること抜きに存在はない。存在とは……そう、情熱の一形態に他ならない。愛の中で投げ捨てるべきものを獲得するがために日々の塵労はある。幻影は未来にはない。ただ現在のまばゆいかがゆきを。そうだ、それはありもしない恋の話。わたしは恋をしたのだろうか。それは恋なのだろうか。それは狂気にすぎなかったのではないか。すべてはおきなかったのではないか。なぜなら、それはおきたこととしては、かがやかしすぎる。それは信じがたい永遠の持続、精神の、だが、この甘く、そして恐ろしい悔い、そうだ、すべてを終わらせたのは、それでもやはりわたしのエゴイズムだったのだから。

そのひとの白い手を思い、その空よりもはれやかなひとみを思い、その痛みを隠したやさしさをおもい、そのゆるやかで的確な知性を思い、怯えとそれにうちかつ強さを秘めたちいさな体を思う。もしも人間の想像力が、天使というもののすべての属性を現実の中にえがきだすことができるなら、それこそそのひとの似姿に他ならないだろう。

もしも世界が終わるなら、そのときは君に口付けし、こういおう。いまこのとき、世界が終わることに感謝をしよう。そうでなければきみにあえずにいたかもしれないから。

はかなきものよ、空のうち、大地のうち、老いたる大海のうち、あなたにまさる宝石はなく、夢見ることはただのあなたの美しさと愛らしさの断片を思う真似事に過ぎない。夢という夢があなたの名前を覚えるように!

だからこそ、いつまでもわたしの情熱は悔いつづける。なんということだろう。あなたに悲しみを送った、おろかな愛を求める、ぼくのたえがたい、罪を。いかなる神にも祈るまい。いかなるものも求めまい。ざんげなど必要ない。道徳は犬にでもくれてやれ。ただ、その日の愚かさだけが悔いとしてぼくのこころをさいなみつづける。

繰り返し、繰り返し、ただ、そのことばかりを。


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